そして、歴史的名馬がまた一頭、世を去った。

昔、「インパクトの大きい訃報は続けざまに来る」という話を聞いたことがあるが、まさにそれを地で行くような悲しいお知らせ。
今度は、2004年のダービー馬、キングカメハメハがこの世を去った

ディープインパクトの死に続き、競馬界にまたも悲しい出来事が起こった。キングカメハメハが9日、繋養先の北海道安平町の社台スタリオンステーションで死んだ。18歳だった。2003年に京都でデビュー、翌2004年にはNHKマイルC、ダービーで勝利し、変則2冠を達成。秋に復帰初戦の神戸新聞杯を快勝後、屈腱炎を発症したため引退した。」(キングカメハメハ死す 松田国調教師「夢の塊だった」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュースより)

今年の春に”急変”したディープインパクトとは異なり、こちらは前々から体調を崩していて、とうとう今年は種付けもできないまま「引退」に追い込まれていたから、同じような馬齢でもちょっと「訃報」の意味は変わってくるのだが、それでも「功労馬」になって数か月でこの世を去る、というのは何とも気の毒というか、儚いというか。

2歳~3歳の初めまではクラシック王道路線を歩みつつも、皐月賞ではなくNHKマイルCに進み、10年近く破られていなかったタイキフォーチュンのレースレコードを更新する5馬身差圧勝。
その後、松田国英調教師が「ダービー挑戦」という、当時としては前代未聞なローテを発表して、当時の職場の人間と、Numberの特集記事を片手に「4ハロンも一気に距離延長して大丈夫か?」と熱く議論し、「長距離適性はない!」と強く主張した自分が大恥をかいた、ということも、昨日のことのように思い出すから、ディープの時と同様、「まだ若いのに・・・」というのが率直な感想である*1

キングカメハメハ自身がクラシックシーズンが終わる前に引退してしまったこともあるし、次の年に「無敗の三冠馬」が世に出てきてしまったことで、「競走馬」としての印象はどうしてもかすんでしまったところはあるが、同世代の他の馬とのレベルの比較で言うと、ハーツクライダイワメジャーといった好敵手がいたこの世代の方が、「ダービー馬」になったことの価値は高いともいえるわけで、松田(国)調教師や安藤勝己元騎手が「規格外」的なコメントを連発しているのも分かるような気がする*2

ちなみに、ディープインパクトが亡くなった翌週くらいから「パンチの利いた後継種牡馬不在」という話が出始めている。

確かに競走馬の「血統」というのは難しくて、結果が出なければすぐに淘汰されてしまうし、結果が出たら出たで気が付くと種牡馬繁殖牝馬のコミュニティの中でその血が濃くなりすぎて手詰まり気味になっているうちに、外来血統によって一瞬で淘汰されてしまう、ということもある*3

ディープインパクトは、かれこれ20年以上も日本の競馬界を牛耳ってきたHail to Reason ‐Halo-サンデーサイレンスのサイヤーラインの正統な後継者ではあるが、その産駒となると、サンデーサイレンスから数えて「3代目」。しかも母方にはこれまたメジャーなNorthern Dancerの血脈(しかも決してマイナーではないLyphard系)が入っているから、自身のような5世代遡ってもアウトブリード、という産駒を送り出すのは難しい。ノーザンファームは、地球の裏側や欧州の渋い血統の繁殖牝馬を連れてきて、何とか再び「血の爆発」を狙っているようだけど、それも必ずしも当たっているとはいえない、というのが実情のような気がする。

そうなると、Kingmamboの持ち込み馬で、産駒がまだ「2代目」のキングカメハメハ*4の子供たち(ルーラーシップロードカナロアドゥラメンテ)の方が、サンデーサイレンス繁殖牝馬との組み合わせで良い結果を出せる確率が上がってきて(今のところ最高傑作はアーモンドアイだが、柳の下のどじょうを狙う人たちは当然増えているだろうから続々と同パターンの配合で爆発的に活躍する馬が出てきても不思議ではない)、気づけばMr.Prospector系が日本の主流血統になる、ということも十分考えられるところ*5

その一方で、今の世界の潮流を見ると、いずれはBold Ruler 系の強力な種牡馬が米国から入ってきたり、はたまた歴史は繰り返して、Galileo-Frankelのラインから再びNorthern Dancer直系の血統が蘇る、というドラマが演じられる可能性もないとは言えない。

競馬が「遺伝力」を競う世界でもある以上、死んでもなお評価は固まらず、産駒に残した血を通じて世界中のライバルと競争し続けないといけない、というのはなかなか気の毒なところなのだけど、先々、血脈がどういう行方を辿るかにかかわらず、十年後、二十年後、世界のどこかで活躍する馬の血統表の中に、キングカメハメハディープインパクトの名前が残っていることを自分は切に願っている。

そして、仮に「血」が残らなかったとしても、2004年のダービーや、2005年から2006年にかけて自分が見守り続けたレースと、そこで主役を演じた馬たちの記憶が消えるわけではないので、自分が生きている限りは、それを語り継いでいかないといけないな、と、思いを新たにしたところである。

追記

自分もサイヤーラインをまじまじと眺めたのは久しぶり(ディープの後継がどうこう、という話題が出てきたせいで、急に気になってしまった)で、寝ても覚めても攻略本片手にダビスタをやっていた時代から、系統名が1世代、2世代繰り下がっていることに隔世の感を抱いていたりもするのだけれど、興味がある方はさしあたり、以下の書籍でもご参照いただければ、と。

パーフェクト種牡馬辞典2019-2020 (競馬主義別冊)

パーフェクト種牡馬辞典2019-2020 (競馬主義別冊)

あと、相次いでなくなった両馬の偉大さを改めて知る、という観点から、今年の本日時点での種牡馬リーディングを残しておくことにする。
サンデーサイレンス系の血統が飽和状態であることを改めて実感するデータでもあるのだが・・・)

1 ディープインパクトサンデーサイレンス系)1,144戦150勝(内重賞15勝)賞金449,567.2万円 
2 ハーツクライサンデーサイレンス系)982戦87勝(内重賞3勝)賞金194,836.5万円
3 ステイゴールドサンデーサイレンス系)456戦48勝(内重賞9勝)賞金184,391.0万円
4 ロードカナロアキングマンボ系、キングカメハメハ直仔)837戦93勝(内重賞5勝)賞金180,881.9万円
5 ルーラーシップキングマンボ系、キングカメハメハ直仔)735戦75勝(内重賞6勝)賞金151,423.3万円
6 ダイワメジャーサンデーサイレンス系)683戦54勝(内重賞1勝)賞金138,960.2万円
7 キングカメハメハキングマンボ系)573戦56勝(内重賞5勝)賞金138,309.4万円
8 ハービンジャー(ディンヒル系)741戦55勝(内重賞3勝)賞金114,751.6万円
9 ゴールドアリュールサンデーサイレンス系)623戦54勝 賞金 91,185.6万円
10 マンハッタンカフェサンデーサイレンス系)395戦30勝(内重賞5勝)賞金88,554.0万円

*1:もっとも、冷静に考えると、「15年前のダービー馬」なんて、今JRAのCMに乗せられて競馬場に来ている世代にしてみれば、自分が20歳の頃のアンバーシャダイとかサクラユタカオーみたいな馬なわけで、その頃仮に彼らの「訃報」が報じられていたとしても、「若いのに気の毒」とは絶対思わなかっただろうから、純粋に自分が歳を取って、時間の感覚がおかしくなっているだけ、という見方もできるところではある(アンバーシャダイサクラユタカオー種牡馬としてそこまで酷使されなかったおかげ(?)か30歳くらいまで長生きしたので、それとの比較では「若くして」という感覚もあながち間違いではないのだが・・・)。

*2:なお、キングカメハメハの競走馬時代の馬主はディープインパクトと同じ金子真人氏だが、ディープの訃報に際しては「涙が止まりません」というコメントをいち早く発した金子氏が、今回はどのメディアを見回してもまだコメントを出していないように見えるのは、単にご本人が休暇等で捕まらないだけなのか、それともディープに最上級の惜別の辞を寄せてからわずか10日たらずで再びコメントを発することを躊躇したのか。改めて説明するまでもなく、金子氏にとっての「初めてのダービー馬」はこの馬なので、実のところディープ以上の思い入れを持っていても不思議ではないと思うのだが・・・。

*3:かつて日本国内で猛威を振るったNorthern Dancer系(特にノーザンテースト系)の血筋も、父系の血脈として見かけることは残念ながらほとんどなくなってしまった。

*4:キングカメハメハ自身にはNorthern Dancerの4×4のクロスが入っているが、それぞれNureyev、トライマイベストという日本ではマイナーな血筋なので、孫世代になると血は極めて薄くなる。

*5:個人的にはエンドスウィープの血を引き、Northern Dancer色の薄いアドマイヤムーンの産駒あたりがもっと走ってくれれば、よりミスプロ系の血が広がるのにな、と期待しているところあり。

経営も市場も「生き物」だから。

夏の暑さが猛威を振るう中、先週から今週にかけて、各社四半期決算の発表が続いている。
ここ数カ月の間に、ちょっと立場が変わって、お付き合いする会社が出てきたりもしたものだから、(それまでの一般的な投資、という観点を離れて)決算短信とか説明資料等にも比較的じっくり目を通すようにしているのだが、今回はちょっと流れが読みにくいところも多かった気がする。

10連休で内需は好調、景気もまだまだ好調、と言われている一方で、貿易戦争の余波その他の理由で中国を主戦場としていた会社は製造業を中心に散々な結果に。
為替相場も不安定、原材料価格も不安定、一方で国内の人件費コストだけは着実に上がっていく、という状況で、「去年より良い決算」を望む方が罰当たりだろう、と思っているのは自分だけではないようで、利益ベースでの決算予想進捗率が25%を大きく下回るような会社でもなぜか株価が次の日に跳ね上がったりするのだが、いい時も悪い時も経験してきた”一投資家”としては、

「株価に「割安」感があるのは、事業年度が始まったばかりで、単に通期予想をまだ見直してないからだろう」

と意地の悪い突っ込みも入れたくなるし、この環境下でも業績を伸ばしているのに、株式市場では売り込まれてしまった会社などを見ると、

「何をそんなに期待していたのだ・・・!」

と、呆れて突っ込みを入れたくもなる。

まぁ、市場予測が当たらず、「結果」が出た時の動きもその時その時の市場マインドでどちらに転ぶか読めないのと同じで、会社の中にいても、多くの人は自分の「持ち場」とその周辺の状況しか把握できないから、最終的な決算数値がどう転ぶかなんて発表の直前になってもほんの一握りの人にしか分からない。まして、その数字に日常的に接している者ですら予測なんて四半期を締めるギリギリまでできるものではないわけで、まさに経営って「生き物」だな、と思っていたことを、懐かしく思い出していた。

ちなみに、今日は6日に続いて忘れてはならない日、長崎の原爆忌である。

ということは、1年後の今日まで東京でオリンピックが続いているわけで、会社の業務カレンダーがこれまでと同じなら世の中がわんさか盛り上がっている(場合によっては混乱している?)最中に、外に出す数字の詰めとかをやらないといけないのか・・・と思うと、中にいる方々には心から同情を禁じ得ない。

できることなら、1年後、テレビ画面の中のオリンピックだけではなく、世の中全てが「明るいムード」に包まれているとよいのだけど。
そして、企業という「生命体」が何かと生きづらくなってきた昨今の状況に鑑み、「生き物」を助ける係、たる世の法務専門家の方々(もちろん自分も含め)が、一人でも多くその明るさの演出に貢献できることを、今は心から願うのみである。

35年の時を超えた三陸・大船渡の「旋風」とその後と。

今年も甲子園で夏の高校野球が開幕した。

例年だと、大会が大詰めに差し掛かるまではさしたる関心も持たずに結果だけ眺めている、ということも多いのだが、今年は地方予選から社会的に議論を呼ぶような話題が出てきたこともあって、いつもよりはちょっと関心高め。

そんな中、2号連続で甲子園特集を組んでいたNumber誌の最新号が届いた。

今回は甲子園を「旋風」で沸かせた学校やその選手たちにスポットを当てた特集、ということで、昨年の金足農業(&吉田輝星選手)に始まり、1983年のPL学園(1年生の桑田、清原両選手)、2007年の佐賀北、2015年・早稲田実業清宮幸太郎選手)、さらには2004年の駒大苫小牧や1979年の浪商といったところまで、懐かしいエピソードが取り上げられている。

複数の優勝メンバーが高校野球指導者の道に進んだ佐賀北高校の話などは、前号に続いて教育的な側面も見え隠れするのだが、全般的には一つ一つの試合の振り返りや、チームに勢いがついていく過程を当時の関係者が回顧する、というスポーツ雑誌にありがちな構成で、前号(以下リンク参照)に比べると予定調和的で落ち着く中身だった。

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そんな中、異彩を放っていたのは、Number誌が誇る名ライター・鈴木忠平氏*1「佐々木朗希と大船渡旋風1984という記事である。

自分も微かな記憶しかない*21984年の選抜高校野球での大船渡高校の快進撃。そしてその原動力となった小柄な左腕エース・金野正志投手の「異才」としてのエピソードを、当時バッテリーを組んでいた吉田亨氏(後に母校の監督にも就任)や他の当時のメンバーが語り、悲願の「三陸鉄道開通」のタイミングとも重なる中、一家総出で応援に行く地元の人々の熱狂が鮮やかに描かれる*3

中国地区王者の多々良学園を初戦で完封、日大三島に1失点完投、準々決勝で明徳義塾を完封で下して、岩手県勢初のベスト4。
誰にも目を留められることなく毎晩黙々とランニングをしていた野球部員たちが、一躍地元の大スターになって迎えた夏。

だが、そこでエースを襲った悲劇・・・。

この記事の中に、主役である金野投手本人のコメントは一切出てこないから、あくまで周囲にいた人々の「証言」が全てなのだが、夏の予選も苦しみながら一人で投げ抜いて甲子園に出場したエースの球歴は、六大学の名門チームに進学したところで途絶える。

当時の大船渡高校監督、佐藤隆衛氏による最大級の絶賛と、わずかな悔悟の弁。

「金野は教えようとしても教えられないものを持っていました。ある種の天才でした。監督が考える以上のことを考えていた。」
「もっと科学的にやれば、壊さずに済んだかもしれません。でもね・・・、彼しかいませんでしたから。甲子園に行こうと思うなら、彼を投げさせないということは考えられなかった。私は今も、球数制限とか、そういうことには反対です。」(30頁、強調筆者、以下同じ。)

そしてそのエピソードと、「エースが投げなかった」今年の決勝戦の後に吉田亨氏が語った、とされる以下のコメントが見事なまでに交錯する。

「僕はね、これで良かったと思っているんです。公立校のエースが壊れるケースは多いんです。まして160㎞を投げる投手というのは、トミー・ジョン手術を宿命づけられていると言われているそうです。難しいですけど・・・、これで良かったんだと思います。」(31頁)

鈴木氏の記事が秀逸なのは、こういったコメントや、「(佐々木投手という才能に対する)國保監督の信念」も伝えながらも、安易に”将来があるから仕方ない”ムード一色にはしていないところで、高校野球をやっている以上、試合に出たい、投げたいという気持ちはありました」という佐々木投手本人のコメントと、その背景にある「9歳の春」から今に至るまでの「2019年のバッテリー」のドラマも鮮烈に描いている。

記事では、佐々木投手と長年バッテリーを組んでいた及川恵介捕手が涙を拭って語ったコメントに続けて、

「どんな結末であれ、たとえ空虚なものだったとしても、エースの未来のためであるならば、彼らに何が言えるだろう。佐々木朗希と仲間たちの定めを、受け入れる以外にどうすることができただろう。」(31頁)

というフレーズを並べて”締め”ているのだが、このフレーズほど、今回の一件をめぐるモヤモヤを的確に表すものはあるまい。

途中から著者の繊細な文章表現力と絶妙な構成が涙腺を刺激してやまなくなるような、ノンフィクションとしては間違いなく一級品の記事。
もしかしたら、記事を書かれた鈴木氏も、最初取材を始めた時には、35年前の英雄と佐々木朗希投手が、「甲子園」をかけた舞台でこんな形でリンクすることまでは想像されていなかったのかもしれないが、事実は小説よりも奇なり、目の前で起きることが一番ドラマチック、という世の中の摂理が、こういう奇跡の作品を生み出すんだろうな、と思ったところである。

なお、この記事を読んでしまうと、もはや「決勝戦不登板をどう思うか?」という話はどうでもよくなってしまうところはあるのだが、予想通り、Number執筆陣4人(鷲田康、赤坂英一、石田雄太、中村計の各氏)が、それぞれの立場からコメントを出しておられる。

自分の思っていることは、先日のエントリー(以下)に書いたとおりなのだけど、その観点から言うと、

「國保監督は自らの采配を、昨今のプレイヤーズ・ファーストか勝利至上主義かという議論に準えて、その旗印にされるのをよしとしているわけではないのだと思う。つまり國保監督の采配を英断だと讃えるのも疑問だと批判するのも、じつは似たり寄ったりだという気がしてならないのだ。」(33頁)

と、「稀有な才能を預かる監督にしかわからない思考」をあれこれ言うのは「無粋」だ!、と喝破する石田雄太氏や、

「投球過多問題を考えるとき、八木*4の取った態度は一つの答えになっていたように思う。そもそも『勝利』か『選手の体』かという二者択一で考えるから無理が生じるのだ。その二つは対立項ではない。むしろ協調し合える事項なのだ。」(33頁)

とし、「勝利のために温存した」という言葉を添えるべきだった、とする中村計氏のコメントには共感できるところが多かった。

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結局、何が正しかったのか、ということは当事者にも最後まで分からない話だとは思うのだけれど、佐々木朗希投手や一緒に戦った選手たち、そして國保監督や来年以降の大船渡高校の野球部の「その後」が実りあるものであればあるほど評価してくれるのが「世間」というものだから、「2019年7月25日の決勝戦」がポジティブなエピソードとして語り継がれるようになるために、全ての関係者に、前向きな「その後」が訪れることを願うしかないなぁ・・・と思うところである。

*1:「告白」をはじめ、清原和博氏やPL学園絡みの名著、名記事を量産されている方。

*2:というか、同じ年の金足農業旋風と記憶がごっちゃになっているところもある・・・。

*3:この辺は地域は微妙に違えど「あまちゃん」のワンシーンと限りなくラップする。84年当時のメンバーの息子が、注目を集めた今年のチームにいる、といったあたりも、いかにもドラマ仕立てにしやすいストーリーである。

*4:筆者注:2017年春の先発でエース三浦銀二投手の登板を回避した福岡大大濠の八木啓伸監督。

それは目の前に迫る問題か? それとも頭の体操か? ~「AIと著作権」をめぐって

「論究ジュリスト」という「ジュリスト」のスピンオフ的な季刊誌があって、長らく購読していながら、忙しい時はどうしても優先順位が落ちるものだから、ずっと積読にしてしまっていたのだが、ちょうど余裕も出てきた夏の時期にちょうどいいタイミングで届いた、ということもあって、珍しく開いてみた。

そしたら運のいいことに「AIと社会と法」という連載(第6回)のお題がちょうど「著作権
先日の法律時報の特集記事に続き、実に旬なテーマだったので、ここで少しご紹介してみることにしたい。

宍戸常寿[司会]=大屋雄裕=小塚荘一郎=佐藤一郎=奥邨弘司=羽賀由利子「AIと社会と法-パラダイムシフトは起きるか?No6/著作権*1

確認してみたら、この連載が始まったのは昨年春号から。
第1回から登場する宍戸教授、大屋教授、小塚教授、佐藤氏に、テーマに応じてゲストの先生方が入る、というのが定番の構成のようで、今回は自称”テック系著作権法研究者”の奥邨弘司・慶大教授と、先日の著作権法学会でも登壇された国際私法の羽賀由利子・金沢大准教授のお二人が加わる、という構成である。

そして、論じられている内容をざっと挙げていくと、以下のような感じになるだろうか*2

1「AIの学習用データに関する著作権問題」(139頁)
2「AI作成コンテンツに対する保護」(139頁~144頁)
 2-1)「AI作成コンテンツに著作物性を認める場合の問題」(141頁~142頁)
 2-2)「AIは著作者か?」(142~144頁)
3「AIによる著作権保護」(144頁、148~150頁)
4「AIによる著作権侵害」(144~147頁)
5「EU著作権指令について」(147~152頁)
6「AIと著作権以外の知的財産法との関係」(152~154頁)

先日の法律時報の特集(著作権に関しては上野達弘教授、横山久芳教授が執筆)では、もっぱら上記「1」と「2」にフォーカスして議論が展開されていたように思われるが(以下リンクもご参照のこと)、今回の記事では、「1」のところは「平成30年著作権法改正で対応済み」*3ということであっさり片付けられており、もっぱら「2」に議論の中心が置かれていること、さらに進んでAIを著作権保護ツールとして用いる場合の問題点や、AIによる著作権侵害の可能性にまで議論が発展している、という点に特徴があるといえるだろう。

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「法律時報」の特集で掲載されていた各論文は、別所氏や平嶋教授の論文に象徴されるように、「AIが人間の手を離れて勝手に創作し始める」というところまで想定するのは過度な飛躍では?という意識の下で書かれていたように思われるし、どの論文も、基本的には「現行法の枠組みの中でどう整理し、解釈するか」というアプローチに貫かれたものだった。

これに対し、今回の記事では、「自律的に創作するAI」を念頭に置いた発言もあちこちに散見され*4、(好き嫌いは分かれるところだろうが)それが、参加者の著作権法パラダイム転換の必要性を示唆するようなコメントにもつながっていて、なかなか興味深い。

例えば、

「表現が仮に似ていたとしても、似たところがあったから依拠しているという推認をするという扱い自体が、実は今後、再考を迫られるのではないかと感じました
「アイディアを持たずに、表現だけを高速で大量に生成する主体、機械が現れた。そうしますと、そこに保護すべき本質があるのかという問題になってきたように感じられて、実はアイディアと表現の関係が再検討を迫られているということなのかと思いました。」(以上、小塚141頁、強調筆者、以下同じ。)

著作権=人間の知的成果、ということをあまり強調しすぎますと、近い将来、AIがどんどんコンテンツを生み出し、我々が普段接するコンテンツの多くがAI製という時代が来ると、著作権法は、『人間が作ったコンテンツです。珍しく貴重なものです』という具合に、国宝とか骨董品とかを保護するような法律になりかねないような気もします。それでいいのかどうか。そうではなくて、著作権法は、現在同様に、我々が日常接するコンテンツを保護する法律という位置付けを維持するのであれば、人工知能が作るものも完全には無視できないのではないか、というふうに思っております。」(奥邨143頁)

といったようなコメントの数々。

もちろん、議論が「AIが自律的に生成したものは著作物にならない」という伝統的解釈からスタートしている点に変わりはないのだが、「AIが自律的に生成」する時代の到来が「目の前に迫っている」と捉えるのか、それとも「まだまだ先の話」と捉えるのか、という背景意識の違いが、今回の記事を「法律時報」の特集記事とは大きく様相を異にするものにしており、世の中全般の「AI」をめぐる議論の様相とも合致するなぁ・・・と、思った次第で、上で引用した以外にも、いろいろと示唆的なコメントが出てくるので、関心のある方は是非、実際に手に取ってご覧いただければ幸いである*5

ちなみに、この手の話題は、特に最近活発に議論されるようになってきているが、自分が大学院にいた21世紀の初めころから「自動生成創作物」という存在は、田村先生の著作権の教科書にも出てきているくらいで、決して「真新しい」話ではない。

あの頃に比べると、「AI」がよりリアルに社会に浸透する兆しを見せてきているとはいえ、それを人間が創作過程で「道具」として使っているだけであれば、使用者たる「人間」に権利を与え責任を負わせる、という整理で何ら問題はないと思われるし*6、仮に創作過程の全てをAIが担うような時代が到来したとしても、「コンテンツを世に出すための動機付け」を与えるのが人間である限りは、その「人間」に権利を与え責任を負わせる、ということで何ら問題ないのでは?*7という思いは、21世紀の初め頃から全く変わっていないわけで、今後展開される議論も、あまりトリッキーな方向には行ってほしくないな、と思わずにはいられない。

あと、今回の記事にも出てくる”僭称”の問題に関しては、前回のエントリーにも書いた通り、仮に「自分が著作者だ」と”僭称”する者がいたとしても実質的な問題は生じないのでは?*8というのが自分の考えではあるのだが、この点に関しては、最初に裁判所で争われる際の構図が、「AIを使った人 vs 同一・類似創作物の利用者」なのか、それとも「AIを使った人 vs そのAIを開発した人」なのか、ということによっても変わってくる気がする。

前者であれば、著作者性以外にも争える論点がいくらでもあるのだが、後者の場合、まさに「自動生成創作物の権利を誰が持つのか?(誰も持たないのか?)」ということが争点になるので、場合によってはAIを使った作品を世に出した人自身が、主張の中でその作品の著作物性を一生懸命否定する、ということも考えられるような気がして、争いの構図によって、シンプルな理論を超えたところで何らかの判断が示される可能性はあるのではないか、と思うところである。


なお、今回の論究ジュリストも、全体で200頁を超えるボリュームになっているのだが、他の記事の中では、特集2「震災・原発事故と不法行為法」の中の論稿、特に、米村滋人「津波災害に関する過失判断-災害損害賠償責任論・序説」(論ジュリ30号92頁(2019年))と、瀬川信久「震災関連訴訟が不法行為責任論に提起する諸問題」(論ジュリ30号129頁(2019年))が、一連の裁判例の傾向を把握する上で非常に有益な論稿だったので、本日のテーマからは離れるが、ここでご紹介させていただくこととしたい*9

*1:論究ジュリスト30号138頁(2019年)。

*2:以下の番号は、自分が内容を見つつ独自に付けたもので、記事中の項番等とは必ずしも対応していない。

*3:「AIへの対応ということでは、世界最先端と言えるような状況になっているかと思います。」というのが奥邨教授のコメント(139頁)。新30条の4の評価は今のところ概して高い。

*4:奥邨教授は、冒頭で「AI技術の現状は、まだまだそこまでには至っていませんので、あくまでも想定事例ということでしかありませんが・・・。」と断っておられるのだが(140頁)。

*5:個人的には、自分もつい最近まで「AI」の「お守り」をしていたことがあったから、スタンスとしては圧倒的に「法律時報」特集の世界観に近いのだけど(自律的な創作を始める以前にあれもこれも・・・という技術的課題が多すぎるので)、自分が生きている間に遭遇できるかどうかわからないようなシンギュラリティに備えて「頭の体操」をするのも、決して嫌いではない、という感じである。

*6:完全に人間の「手」だけで創作されている著作物というのは、現時点でも既に少数なのだから・・・(今は、図面を引くにもデザインをするにも、作曲をする時ですら、一定の表現パターンを自動生成するソフトウェアが活躍している時代である)。

*7:奥邨教授も「AIによる著作権侵害」を議論する際の文脈で「どれを世に出すのか、最後は人間が決めるわけですから、その決めた人が、他人の著作物と似ていると知りながら世に出した以上は、その人に責任を負わせるという考え方」があることを紹介されている(145頁)。

*8:権利主張の対象となるのが「AIが生み出すありふれた創作物」なのであれば、依拠性なり、「ありふれた表現」のロジックなりで切れるので問題ない、という理屈。なお、先述したように、「動機付け」を行ったものに権利を帰属させる、というルールが定着すれば、そもそも”僭称”にもなりえない。

*9:この関係の仕事を長くやっていたこともあり、津波に関しては日和幼稚園、七十七銀行から大川小の事件まで、原発に関しても下級審判決が出るたびに集めてスクラップしていたのだが、なかなか整理する時間が取れず、満足のいくようなアウトプットも残せていなかった。論稿を読み進めていくうちに、そんなほろ苦い思いが蘇った。

74回目の原爆忌に祈りを込めて。

ここ最近、日本だけではなく世界中で落ち着かないさざ波が立っていて、少し落ち着いたと思ったら、またどこかで新しい波がより大きな脅威として生まれてくる・・・そんなことを繰り返しているように感じられる時だけに、今年は一段と「8月6日」の報が胸に染みた。

「広島は6日、被爆から74回目の「原爆の日」を迎えた。」
松井一実市長は平和宣言で、自国第一主義の台頭で核廃絶の動きが停滞していると指摘。「一人ひとりが主張の違いを乗り越え『寛容』の心を持たねばならない」と訴えた。」(日本経済新聞2019年8月6日付夕刊・第1面)

「第二次大戦の”記憶”が風化した」というのは、自分が物心ついたときから言われていたことなのだけど、気づけばその後、1945年を起点として、その時点で過ぎていた時間の倍以上の時間が過ぎて行ってしまっているから、もはや「風化」どころか、「最初から記憶がない」人々が当たり前のように多数を占める世の中になってしまった。

自分も全く他人のことを言えた義理ではなく、例年ならこの時期は休暇前で慌ただしく過ごしていることも多かったから、次の日の朝刊で「そういえば昨日は原爆忌だった」ということに初めて気づくことも多かったし、そもそも休暇中で日本におらず、忘却の彼方・・・ということも。

3年前のリオ五輪の開会式でのエピソード*1とか、たまたま数年前に出張中の機内で↓を見て以来、どうしても終盤でモヤモヤして何度もリピートで見てしまったり・・・ということもあって、ようやく改めて意識するようになった*2というところだが、振り返れば反省すべきことの方がはるかに多い。

物心がつき始めた頃に親の実家に行くと、「祖父が第二次大戦末期に呉の工廠で働いていて、8月6日の広島への原爆投下の瞬間の衝撃もそこで味わった。」という話を聞かされることが時々あったから、「この世界の片隅に」の中で展開されている世界は全く他人事ではないのだが、祖父自身は、その頃もその後も、戦争の記憶について多くを語ることはなかったし、つい先日亡くなった祖母からもついぞ話を聞くことができなかった。
・・・というか、「記憶を引き継ごう」という動機すら持たないまま、身近な”語り部”を失ってしまった、というのが現実で、そこだけはどんなに後悔してもしきれない。

自分は、中学・高校の多感な時期に湾岸派兵をめぐって日本がスポイルされていた状況を肌で感じ、冷戦終結で世界秩序が生々しく変わっている最中に周りの学生と議論を戦わせていた人間だから、多国間の外交関係にしても安全保障にしても、どちらかと言えば現実主義の方が先に来るところがあって、子供の頃は素朴に信じていた純粋な理想論や、押しつけがましい平和礼賛が苦手になった。そして、それを口実に、どこか遠くの方からこの季節のあれこれを眺めていたところはある。

ただ、今の繁栄した日本の礎となった「記憶」が、「風化」を超えて完全に廃れる段階に差し掛かっている状況になると、「その後」はどうなるのだろう?、という、そこはかとない不安も湧いてくるわけで、それが昨今の”嫌な感じ”の世界情勢と相まって、再び自分を「原点」に立ち戻らせようとしているのかな、と思ったりもする。


あのリオ五輪から来年で4年。広島原爆忌東京五輪の開催期間中に迎えることになるし、閉会式は奇しくも長崎原爆忌と重なる、ということで、「今度こそ黙祷を」という動きも出ているようである。
this.kiji.is

開催期間中の原爆展開催の動き*3などとも合わせ、世界中の人が注目し、世界中から人々が集まるタイミングで改めて戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えよう、と試みるのは本当に大事なことだし、そこはIOCが反対しようが何としてでも、と思うところがある一方で、様々な利害関係者がかかわる中でこれが単なるパフォーマンスに貶められないことを、今は心から願っている。

そして、来年の「75回目」という区切りが敗戦を真摯に振り返る事実上最後の機会だった、ということになってしまわないように、これからできることを探していこう、と思い始めたところである。

*1:リオ五輪開会式、原爆投下時間に合わせた『粋な演出』に日本人感動…平和への祈りが広がる - NAVER まとめ、当時のエントリーは2016年8月6日のメモ - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。

*2:加えて、ここ数年、東南アジア諸国に出かける機会が多く、その際にそれぞれの地で、かの大戦の記憶に触れる機会も多かった、ということも背景にある。彼らの苦難の歴史の中では「日本」の存在など一瞬のものでしかなく、それよりも欧米列強に向けられた怒りの方がはるかに大きいのだけれど・・・。

*3:五輪時 東京で原爆展 核廃絶 機運高める 広島市方針 世界中の選手らへ発信 | ヒロシマ平和メディアセンターの記事参照。

暑い夏の冷や水も何のその。

関東地方が梅雨明けしてからまだちょうど1週間くらいしか経っていないと思うのだが、気づけば連日「今年もずっと前からこの天気だった」と言わんばかりの暑さ。

とはいえ、毎年強調している(?)ように、自分はこの暑さが全く嫌いではないし、夏が例年より短かかった年は、わざわざ日本が涼しい時期にクアラルンプールに行ったりムンバイに行ったりして”熱分”を補給するくらいだから*1、そうでなくても出遅れた今年の夏は、もっともっとこの天気が続いていい、というのが本音だったりする。

これが「18までクーラーのない家で関東の夏を乗り切っていた」経験から来るものなのか、あるいは「太陽が照り付ける8月のグランドで、水も飲まずに猛ダッシュを繰り返す」という10代の原体験を未だに体が覚えているからなのかは分からないけど、気温がこれくらいまで上がってくれないと外を歩いても落ち着かないのは確か。


残念なことに、「もう何度目だ!」のトランプ・ショックが先週末から唐突に始まって、盛り上がった夏の気分に強烈な冷や水を浴びせてくれた
今日も、観なけりゃいいのに株価をチラ見するとドッと冷や汗で涼しくなる・・・という状況で、世界のあちこちから不穏なニュースが飛び込んでくる中、こんな日々がいつまで続くんだろうなぁ。。。と滅入るところはあるのだけれど、どんなに暴力的な陽射しでも太陽が照り付けてる間は頑張れるような気がするので、世の中の多くの人たちとは逆向きに「もっと暑く!」「一日でも長く夏を!」と、心の底から願っている。

ちなみに、以前の記事で取り上げたサザコーヒー*2を猛スピードで消費し続けた結果、いい加減家計への圧迫が気になってきたので、ひとまずプライス的には半額の代用品(とはいえ、これもそれなりの高級品でまぁまぁ美味しい)を投入する方向で調整中。

蒸しても、照っても進む飲み物っていうのは、貴重である。

*1:逆に真夏の時期にヨーロッパの緯度の高いところなどに出かけてしまうと何か損した気分になる。一方で、冬の寒い時期に行ったら行ったで凍えて辛い思いをするだけなので、結局のところプライベートでは足が遠のいて久しい。

*2:k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

ブログ開設から14年を迎えて~「法務職域論」に関する若干の考察

8月4日は、自分の中では「当ブログ開設記念日」ということになっている。
始まったのは2005年だから、今年で丸14年。決してキリの良い区切りではない。

だが、それにかこつけて、今SNS界隈で、「法務職域論」(柔らかく言えば「法務の役割論」だろうか)なるものが局地的に盛り上がっているようなので、それに関して若干のコメントを残しておくことにしたい*1

まず、引用するのは以下の2件のブログ記事。
同時並行的に書かれたもののようだが、いずれも、「法務は積極的に仕事を引き受けるべき」というスタンスに対して、「職域」という観点からやや謙抑的なスタンスを取っているように見受けられる*2

ronnor.hatenablog.com

dtk1970.hatenablog.com

で、まず冒頭に断っておくと、少なくとも「一担当者」時代の自分は、「職域」といった類のものに縛られるのが全く好きではないタイプの人間だった。

事業部門から何か相談が持ちかけられれば、それが法解釈に関わる話かどうかにかかわらず、とにかく話は聞くし、交渉相手に出す文書なのか社内文書なのかにかかわらず、書面の添削なり起案なりを頼まれればとりあえずは引き受ける。
元々「法務」というカテゴリーで会社に入ったわけではなく、”隙あらばビジネスの現場に転じたい”というスタンスで仕事をしている時期もあった、ということもあるし、「法務の仕事をやっている」ことが認知されていない部署で仕事をする時間が長かった、というやむを得ない事情もあった*3

これは、それぞれの会社、それぞれの部門の方針(それぞれの担当者の「職域」というものにどこまで厳格に縛りをかけるか)にもよるのだが、自分が属している会社や部署から、自分の動きに強い縛りがかけられていないのであれば、本来やるべきとされている自部署の業務に支障を生じさせない限りは、自分の興味関心や、「信頼に応えたい」という思いのままに、カウンターパートの求めに応じて首を突っ込んだところで誰かに文句を言われる筋合いはないはずだし*4、筆者自身は「組織の前にまず『人』ありき」だと思っているので、「部門の職域がどこまでか?」という話と、「社員個人がどこまでの仕事に手を伸ばすか?」という話を無理にリンクさせる必要はないと考えている。

社内外問わず、自分が聞かされた一昔前の法務の先輩方の”武勇伝”の中にも、「領空侵犯して突っ込んでいった結果、手柄を立てた」という類のものは、実に多かった。

ただ、その「一昔前」と違って、今の世の中(特に大企業)では、(本人の「仕事観」如何にかかわらず)「頑張って長時間働くこと自体が悪」「仕事を効率化して労働時間を短縮することこそが善」という風潮が支配的になりつつある、というには注意する必要があって、今は、いかに若さに任せて「連日残業するので、どれだけ仕事を引き受けても大丈夫です!」と言い切ったところで、上司からは渋い顔をされるだけだと思われる。

そして、マネジメントがまともに機能している会社であれば、「管理する側」の上司としても、「部下のやりたいようにやらせる」というわけにはさすがにいかず、(1)「自分たちが絶対にやらないといけないこと」、(2)「少しでも余裕があれば手を出しておいた方が良いこと」、(3)「よほどのことがない限り、手を出すのは控えた方が良いこと」を区分けした上で、その時その時のチームのリソースに応じて、個々人に対する作業指示である程度縛りをかけることになるのではないかと思われるし、そこでは、当然のことながら(1)~(3)をどういう基準で切り分けるか、という頭の整理が不可欠となる*5

そこで、以下では、法務をメインで担当する部署の管理職の視点で、どういう観点で「仕事」を切り分けるか、ということを少し考えてみたい。

管理職視点からの「職域」論

「法務」の仕事というのは、あくまで会社の「事業/経営」の日常的な流れの中に存在するものだから、「法務担当者」は、サッカーに喩えるなら(ゴールキーパーではなく)「フィールドプレーヤー」のポジションに位置づけて考える必要がある

もちろん、事業部門との相対的な関係上、フィールド上での立ち位置は自ずから自陣寄り、ということにはなるが、現代の洗練されたサッカーにおいては、フォワードも最低限守備の意識がないとフィールドに立てないし、逆にディフェンダーには果敢な攻撃参加が求められるわけで、「自分のポジション」に固執してフィールドの一か所に立ち止まるような振る舞いをしていたら、「即交代」を命じられても文句は言えない

一昔前と比べて、処理しなければならない仕事の量・質や、求められる処理スピードが格段に上がっている今の会社の仕事に関しても、まさに同じことが言えるわけで、チームを預かる者としても、自分の率いるチームが仕事の流れからスポイルされることを避けようと思ったら、部下に対して、「これだけをやっておけばいい」という指示ではなく「状況に応じてフレキシブルに対応してください」という指示を出すのがまずスタートライン、ということになる。

その上で、いろいろと舞い込んできた事柄に対して、どう優先順位を付けて対応するか、最低限の”約束事”を決めるのが「次の話」ということになってくる。

まず「守備」をしろ!

当然、最初に考えないといけないのは、(1)「自分たちが絶対にやらないといけないこと」は何か、ということである。
そして、なぜ「法務」という機能なり部門が組織の中に設けられているか、そして、「法務」という職能を持つ者に周りが一般的に期待するのは何か、ということを考えるならば、以下の2つが「法務」の「コア」な役割だ、ということに異論を挟む余地は少ないはずだ*6

契約書の条文や強行法規等に関し、「法的見地からの解釈」が求められる場面で、事案に即して判断する。
(自力では判断できない場合でも)法的検討に値する論点を抽出し、背景事情等を整理した上で、社外の弁護士に照会する。

だから、仕事を取り仕切る管理職としては、部下の社員が、まずこういった「判断」をじっくりできるような環境を整える必要があるし、経験が浅い担当者に対しては、このプロセスを丁寧に踏むことでスキルを高めていけるように誘導する必要もある。
中には、自部署において、この2つがコアな仕事として確立されていない、という場合もあるかもしれない(特に社外の弁護士への相談に関しては、それなりの規模の会社でも、「事業部サイドが主導権を握っている」というケースは良く見聞きするところである)が、その場合は、他の仕事を捨ててでも、自分たちできっちりコントロールする体制を築くのが「法務」の役割だと自分は思っている*7

既に議論されているとおり、こういった仕事はどちらといえば「受け身」の仕事のように思われがちで、血気盛んな若者たちにとっては「つまらない」仕事なのかもしれないが、よく「果敢に前線に出て攻撃参加した結果、自軍の守備ゾーンをがら空きにして失点を食らうディフェンダー」が、評論家からもサポーターからもボコスコに叩かれるのと同じで、自分たちがコアな仕事をきっちりこなさないと会社全体が大きなリスクを負うことになってしまう*8ということに注意しないといけない。

そして、自分が見てきた限りでは、このコアな仕事の習熟度が高くない人ほど、「法務スキルが低くてもできる」他の仕事の方に興味を惹かれて手を出しやすい傾向もあるので、そこは多少嫌われ役を演じてでも、手綱をしっかり引き締めないといけないところではないかな、と思っている。

拾わない方が良いボール

さて、(1)をしっかりやった上で、そこからどこまで手を伸ばすか、ということになるのだが、(2)「少しでも余裕があれば手を出しておいた方が良いこと」は、各社、各部署の置かれている状況によってもだいぶ異なってくると思うので、先に(3)「よほどのことがない限り、手を出すのは控えた方が良いこと」は何か、というところから考えてみる。

自分が真っ先に思いつくのは、「英文契約書の翻訳」とかだろうか・・・(笑)。
今では賢い翻訳ソフトも出てきているので、うまく使えば、以前ほどの手間ヒマはかからないのだけど、契約書のコアな部分は、法務的なエッセンスが満載されたボイラープレート条項の部分ではなく、取引の内容そのものを規律した部分なので、そこの翻訳まで法務に丸投げしてどうする!と押し返すことが自分は多かったし、よほど仕事がなくて困っている、という場合でなければ、安易に引き受けず、事業部門側で自力で訳すなり外注するなりしてもらう、というのが適切な役割分担だと思う*9

あと、自分たちですべてをコントロールできないもの、責任を負えないものを「単独で」引き受ける、というのも極力しない方が良いと思っていて、典型的なのは、「契約協議が一向に進まないので、お互い『法務だけで』話を付けてきてもらえませんか?」とか、「法務同士でメールのやり取りしてもらえませんか?」という類の悪魔のささやき。

これ、一見、頼られているように見えて、「話が進まない責任」を他の部署に押し付けてしまおう、という魂胆がどうしても見え隠れするものだから、自分は基本的に引き受けないようにしていた。

もちろん、契約書の中の純粋な法解釈の部分でやり取りが膠着して、交渉戦術上、一度「話が分かる人」だけでディスカッションした方がスムーズに進む、と言えるような場合であれば、こちらから提案することもあったりはしたけど、大抵は相手の方が乗ってこないし*10、責任感の強い事業部の担当者であれば「そうはいっても同席します」と言ってくれるはず。

お盆明けにテーブルに回ってくる「帰省先のお土産」と同様に、好みだろうが好みでなかろうが、「持ち込まれた仕事」はありがたくいただいておくのが商売の基本、とはいえ、それが”毒饅頭”だと察しがついている時は、「自分、アンコが苦手なもので・・・」とお断りするくらいの度量も管理職にはあってよい、と思うのである。

一番悩ましいジャッジメント

ここまでくると、あとは、(2)「少しでも余裕があれば手を出しておいた方が良いこと」をどう捌くか、ということになってくる。

既に述べた通り、この部分は、まさに「自分たちが置かれている相対的な状況による」としか言いようがないところで、これも下手な喩えを使うなら、

フォワードが前線からきっちり守備をして、得点機を確実にものにしてくれるチームであれば、ディフェンスは後ろ寄りに構えて前線にボールを供給する仕事に専念することができるが、フォワードは守備をさぼりがちで、ディフェンス陣も自陣に張り付いて積極的に前に出ない、という弱小高校サッカー部みたいなチームになってくると、ボランチはグランドを縦横無尽に走り回らないといけなくなる」

というのと同じで、「法務」という部署名、職能名から、直ちに「どこまでやるべきか」という結論が導かれるわけではない、というのが大原則である。

とはいえ、ここで話をまとめてしまうと、冒頭のテーマに対しては何も答えていないに等しいので、強いて手がかりを探すとしたら、

「カウンターパート(事業部門等)の側に、契約書その他の論理的な文書の『読み書き』ができる人がどれだけいるか?」

というのが、自分たちの立ち位置を考える上で、一番のポイントになってくるのではないだろうか。

前線の営業担当者が、ある程度契約書のことを分かっていて、交渉でのやり取りを踏まえた修正案も作ろうと思えば作れる、という程度の技量を持っている事業部門に対して、屋上屋を架すようなサポートをする必要は本来ないし、「本来自分たちでできるはずなのに、わざわざ法務に持ち込んでくる」のだとしたら、そこに単なるサポートだけではない”裏の意図”があるんじゃないか、と疑うことも必要

逆に、ノリも勢いも人当りもいいけど、契約書どころかメールの文章も怪しい・・・という雰囲気のスタッフを揃えた事業部門に対しては、多少無理をしても突っ込んでいった方が良いのは間違いない。

特に後者の場合に怖いのは、”法務の出番”(上記(1)のスキルを発揮できる場面)になるまで待ちの姿勢で引っ張ってしまうと、ビジネススキームも交渉内容も契約書の中身もグチャグチャになって、「何が問題か」を整理するまでに相当な時間を要してしまう恐れもあること*11

したがって、この場合には、「これって本来の法務の仕事じゃないよな?」という疑念を持ちつつも、相手方とのメールやレターをこまめに確認したり*12、俗に「人生相談」と言われるような相談ともグチとも何ともつかないような話に付き合ったりすることも、ところどころでカウンターパートの「内部説明」用に事柄を整理したドキュメントや資料を作るようなことも、「将来ムダに働く時間を作らない」ためには不可欠だし、事業部門側から積極的に確認を求めてこないような場合は、「そこまで引き受けますよ」と、法務側から言ってもいいくらいだと自分は思っている。

また、ここまで密なやり取りが必要ないカウンターパートであっても、相手の懐に飛び込める機会、例えば「次の案件に向けたフリーディスカッションをやろうと思っているんですけど来ますか?」と誘われるようなことがあれば、(たとえそれがただの飲み会だったとしても)飛び込んでいかない手はない。

最初の方で書いた話とも重なるけど、結局、仕事っていうのは、人と人のつながりから生まれるものなのだし、管理職にしても担当者にしても、「所属する部門」とか「職能」以前に一人の人間として、カウンターパートとなる部門の人たちとどうかかわるか、ということが一番大事なわけだから、「軸足は(1)だよ」ということだけは忘れないようにしつつも、余裕がある限り飛び込んでいく意欲がある人には飛び込んでいかせる、というのが良いのではないかな、と思った次第で*13

おわりに

以上、いろいろ書いては見たが、結局のところは、

「サッカーの戦術が、世界中のクラブの数だけ存在する」と言われるのと同じで、法務のあり方、役割、守備範囲なんてものも、世の中の会社の数と同じだけのパターンがあるのだから、それぞれのスタンスに対する好き嫌いはあっても、「良い悪い」という評価を安易に下すことはできない。」

ということに尽きる。

また個人的には、最近いろんなところで、昨今の担当者を評して、「ただ仕事が来るのを「待つ」だけで、自分から飛び込んでいく意欲が乏しい」とか「持ち込まれた仕事にすらなかなか前向きに取り組んでくれない」という類の話を聞くことも多かっただけに、「『手を広げていいかどうか?』なんてことが話題になるようなポジティブな世界がまだあったのか!」と変な感心すらしてしまったところはあった。

担当者の世代に、「法務の役割を広げたい」という意欲を持った人たちが一定数いるのだとしたら、それは決して悪い傾向ではない。
ただ、それなりに長く組織の中で生きてきた者には、「『役割』と『責任』は表裏一体だよ」というシンプルな原則を伝える義務もあると思っている。

最終的に責任を負う部署ではなく、責任を負う立場でもない者が、手を広げて口を出したことが大きな失敗につながった時に責任を負うのは、自分を頼ってきてくれたカウンターパートの部門であり、その部門の管理職(場合によっては担当者)である。相手に良かれと思ってしたことがかえって相手を傷つけることもある、という怖さは、誰かが伝えないといけないし、それを知らずに踏み込むか、理解した上で踏み込むか、で、言葉の重みも変わってくるはずだから。

なお、「黒子」の件についてだが、あのやり取りを見て自分が思ったのは、

「普通の大企業だったら、社長(or 一部の上級役員)以外は、どれだけ活躍しても、傍から見たらみんな『黒子』だよね(笑)」

ということ。

それこそ法務の担当者なんて、「黒子」としてでも認めてもらえる(=個々の事業の成功に貢献していると評価される)のであれば、それはもう最高評価といっても過言ではないわけで。

社内で商品開発者とか、営業最前線の社員をとにかく讃えて持ち上げるような風潮がある会社だと、「自分たちもスポットを浴びたい」という思いにどうしても駆られてしまうのかもしれないけれど、大事なのは、「華々しく目立つ活躍をする」ことではなく、「大事なところで自分たちの仕事が利いている」ことを会社の上層部に認めてもらうこと、そして、何よりも一緒に仕事をしているカウンターパートの事業部門の人たちに認めてもらうことであって、それは、過度に仕事の範囲を広げなくても、(1)のコア業務を的確にこなすことで、達成できると思うのである。

もちろん、管理職レベルになってくると、「仕事の断る時でも細やかな気配りを欠かさない」とか、「シンプルな本来業務の対応をしただけでも、『お役に立てましたよね?』ということを効果的な相手にさりげなくアピールする」といったテクニックも必要になってくるのだけれど、それが生きるのも、本来の仕事を相手に期待されるスピード感できっちりこなしてこそ、なので・・・。


この14年の間に、「法務」の世界の担い手は当然変わってきているし*14、使うツールもちょっとずつ変わってきているけど、その中で議論されていることは、びっくりするくらい変わっていない、というのが自分の印象。

「新しい話」のように取り上げられていることが、実のところ10年以上前からみんな考えていたことだったりもするわけで*15、そこに自分は一番のもどかしさを感じていたりもするのだが、そんなループを繰り返す中で、どこかで壁を突き破ることができればな、というのが今の自分の思いである。

*1:今日のエントリーのタイトル、よく古稀論集とかで見かける類の雰囲気だなぁ、と思ったのは自分だけか・・・。

*2:おそらくronnor氏が引用しているSNSのやり取り以前に、Twitter上でいろいろなやり取りが飛び交っていたのだろうと推察するが、自分はほとんどそれらに接していないので、以下では、引用されたやり取りを出発点として思ったことを書くことにする。

*3:自分から「営業」に行かないと実のある仕事はもらえない、という時期もあったから、「何か話が来たらとにかく受ける」というマインドが染みついていたのだった。

*4:逆に、そのような環境であれば、自分が「やるべき」と思っていることにだけ徹する対応をしたとしても、文句を言われる筋合いはない、ということになる。

*5:それを「職域論」と呼ぶかどうかは別として、その基準を明確にしておかないと複数の部下がいるチームで統一的な対応を取ることは難しくなる。もちろん、各人の業務習熟度に応じて「手を出してよいレベル」に差を付ける、というやり方もあるのだが、「業務習熟度」と「頼られ度合い」は必ずしも比例せず、本来は(1)のレベルの仕事の完成度を高めないといけない社員のところに、(2)~(3)の仕事の依頼が集中するということも現実にはあるので、やはりそこはチームとしての約束事を明確にしておく必要がある。

*6:これに加えて、「法的判断のプロセスを整理、記録化して共有する」等々、付随するコア業務を有している法務部門もあるだろうが、複雑になるのでここでは割愛。

*7:的確な回答を得るためには、的確な質問をしなければいけない、というのがまず第一だし、無駄な質問を減らしてコストを削減する、という効果も決してバカにはならないので。

*8:ここで言う「リスク」には「違法行為が発覚してダメージを受ける」といった多くの人が想像するようなパターンだけでなく、「本来もっと稼げるところがあったはずなのにその機会を逃す」というパターンも含まれる。「ボランチが前がかりで攻撃参加しすぎた結果、相手の苦し紛れのクリアボールを拾うのに手間取り、波状攻撃で得点できる絶好のチャンスを逃す」場面を想像してみるとよいと思う。

*9:これも言い方、やり方の問題はあって、いきなりピシャっと撥ねつけると相手の心情を害するから、「取引特有の専門用語が多いようで、ちょっと時間がかかってしまうかもしれないので、中心条項の部分だけでも先にそちらで翻訳作業を進めていただけませんか?」くらいの返し方でお茶を濁す、というパターンが多かったかな、と。

*10:それは純粋な法解釈だけで議論したら形勢不利というのが分かっているから、に他ならない・・・。

*11:更に最悪のパターンとして、そんな状況に事業部門の「偉い人」が耐えられなくなり、ロクロク話も整理しないまま「○○弁護士に相談して!」と、フィーがやたら高い外部弁護士への相談を事実上強要してくるような場合もある。

*12:この点に関し、ronnor氏は消極的に捉えておられるようだが、深い法的検討を要する場面ではないな、と判断できれば、無駄に時間を使うことなく「OK」で返せばよいだけの話だし、法務だけでなく事業そのものの経験も浅い担当者にとっては、自分の会社の事業部門の交渉プロセスを知る、という意味で貴重な機会ともいえるので、自分はむしろ積極的に受けてもらうようにしていた。

*13:dtk氏は、「危機管理系の仕事に巻き込まれた時に備えて可用性を確保しておく必要がある」という趣旨のことも述べられているが、自分はその時はその時、と割り切っていたところはあるし、「今、○○で大変だからいつもの仕事はそちらでお願いしていいですか?」と言えば、そんなに嫌な顔をされることもなかったので、あえて”手すき”の状況を作り出す必要まではないのでは?と思っている。

*14:とはいえ、トップで「顔」になっている人は実はこの10年くらいそんなに変わっていない、というオチもあったりして・・・(苦笑)。

*15:もっとも、それは「法務」に限らず、日本企業の組織論、職能論全般に共通する話でもある。

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