香港の「自由」を守るために必要なもの。

以前、このブログでも取り上げた香港の抗議活動。
継続的な活動の結果、発端となった「逃亡犯条例改正案」の審査が「無期限延期」となり、これでヤマを越えたかと思いきや、翌日に「200万人集会」。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

そして、さらに2か月近く経っても収束の気配は見えず、当初は香港島の一部だけに限定されていた活動エリアも香港全域に広がり、ついには世界随一の香港国際空港が事実上マヒ状態に陥る事態にまで至っている。

「香港の航空当局は13日夕、香港国際空港のすべての搭乗手続きを停止したと発表した。「逃亡犯条例」改正案をきっかけとする抗議活動で数千人の若者らが出発ロビーに座り込み、13日の欠航は400便以上に達した。航空当局は12日夕以降の全便を欠航にし、13日朝に業務を再開したばかりだった。抗議活動が空港機能に深刻な影響を与えている。」(日本経済新聞2019年8月13日19時56分配信)

日本のメディアは、全般的に「デモのせいで空港機能(ちょっと前までは中心部の交通機関)が混乱して大変だ」的なトーンでこのニュースを報じることが多いし、日経紙などは「観光客の入り込みが減って経済的なダメージが云々」という話にすぐ持っていってしまうのだが、2か月前のエントリーにも書いたとおり、自分は中国「大陸」とは全く異なる「自由解放区・香港」をこよなく愛する人間。

川一つ隔てただけで(最近では西九龍駅の高鐵の改札をくぐっただけで)信じられないくらい”空気”が違う、という感覚も嫌というほど味わっただけに、「その『自由』が侵されるかもしれない」という恐怖感を抱いた人々がそのエネルギーを集団行動に向けたくなる、という気持ちも非常によく分かる*1

だから、自分たちのコミュニティを守るために体を張って頑張っている現地の人々に対して、「飛行機を止められて迷惑」とか、そんなことを言うつもりは毛頭ない。

ただ、遠く離れたところで一連の報道を見ているうちに分からなくなってきたのは、だんだんとエスカレートしていく抗議活動の中で、参加している彼/彼女たちが、今本当に求めているのは何なのか?ということだ。

6月に盛り上がっていた時は「条例改正案の完全撤回」や「逮捕者の釈放」といったところが争点で、行政府側のメンツもあるとはいえ、まだ香港の枠の中で解決しようと思えばできるレベルの話だったはずだが、それがだんだんとこれまで同様の包括的な「民主化」の話となり、今ではこれまで以上に強烈な、「反大陸政府」のうねりへと向かっているようにも見えてしまう。

そうなると、いくら抗議活動をして香港行政府に訴えたところでどうしても限界はあるだろう、参加者全員が「血を流してでも『独立』まで戦い抜こう」という気概を持っているのであればともかく(そこまで行けば名実ともに「革命」になる)、そこまで組織化されているわけではなく、全ての参加者が同じ方向を向いているわけでもないように思われる今の状況では、どこかで”政治的妥協”をしなければ物事を前に進めることはできないだろう、というのが、客観的に見た時の冷静な分析になってくる。

それにもかかわらず、主張も手段も先鋭化する一方で、誰が、どのレベルでこの活動を終結させようとしているのかすら分からなくなってきている、というのが今の状況ではないだろうか。

だとすると、今の状況は決して理想的なものとはいえない。

日本のSNS界隈だと、元々「中共」嫌いな人はたくさんいるし、それに加えて今回は「民主化闘争」や「香港市民の人権擁護」という側面もあるから、いつもなら罵り合うことも稀ではない”両翼”の意見も珍しく一致して、「香港加油!」一色になっている雰囲気すら感じられる。そして、現地から発信されるツイート(中には警察の”蛮行”を伝えるようなものも含まれている)がそんな風潮をさらに加速させているように思われる。

だが、こういう”異常事態発生時”において、SNSで流れてくる情報のどこまでが真実を示していて、どこからが曲解/誇張されたものか、ということを見分けるのは、物事が起きているエリアの中にいる者ですら(まさにその場にいた人を除けば)非常に難しい。ましてや「遠く」の他国にいるものであればなおさらだ。

だからこそ、今様々なルートで日本に入ってきている情報だけで、軽々に今起きていることへの賛否を表明するのは難しいな、と自分は思っているところ。

そして、これまでもたびたび修羅場をくぐってきたCarrie Lam行政長官が述べた以下のフレーズにこそ、(大陸政府の意を汲んでなされた可能性のあるコメントだ、ということは差し引いても)これからの香港の生きる道を考えていく上で欠かせない要素が含まれているような気もしている。

"Violence, no matter if it's using violence or condoning violence, will push Hong Kong down a path of no return, will plunge Hong Kong society into a very worrying and dangerous situation,"

※以下サイトのテキスト及び動画から引用。
www.channelnewsasia.com


繰り返しになるが、どんな時代、どんな場所でも、自ら体を張って大事なものを守ろうとする行動は非常に尊く、一定の支持と支援を集めて然るべき、というのが自分の考えであることに変わりはない。。

ただ同時に、これから先、未来ある人々が余計な血を流し、一種の”殉教者”まで作ってしまうのは決して誰もが望むことではないはずだから、対立が先鋭化している時こそ客観的、、かつ冷静に誰かが落としどころを探っていかないといけない

そして、本当に「民主的な社会」の実現を目指すのであれば、最後だけでも「集団的行動」ではなく賢明な「政治の力」で決着を付けるのがやはり筋だよね、と思うだけに、今抗議活動を行っている人々も、どこかのタイミングで路線を切り替えて問題解決に向かってくれればそれがベストだと自分は信じている。

ずっと今の「自由な空気のままの香港」であってほしいから。

*1:もちろん、中国大陸の人たちの中にもこれまで自分が親しくしてきた方は大勢いらっしゃるし、気質的には香港人よりも大陸の人たちの方が親しみやすいところがあるくらいなのだが、「人」と「社会の体制」が全く別物、ということは残念ながら多くの国で(そして中国自身の歴史の中でも)証明されてしまっている。

「不調和な結末」から考えさせられた「大事なものの順番」。

先月19日に公開され、封切り3週にして興行収入が60億円に迫る勢いとなっている新海誠監督の最新作、「天気の子」。
封切後の口コミとリピーター続出で250億円まで到達した「君の名は。」と比べるのはちょっと気の毒だが、この3連休の間も大規模シネコンで2スクリーン以上押さえて、各回満席、という状況だから、歴代ベスト10に入ってくるくらいのところまでは伸びてくるのだろう。

この映画に関しては、既に様々な角度からの論評が世に出されていて、純粋にエンタメとして楽しんだ、というものや、登場人物の心情に深く思いを馳せて共感を寄せる感想は今回も多く出ている一方で、結末のあまりの予定不調和ゆえに、その「逆」の感想や戸惑いの声が上がっているのも本作の特徴といえるだろうか*1

自分も、場面場面では爽快感を抱きつつも、見終わった後のモヤモヤ感をどうしても拭いきれないところがあったし、それ以上に「大ヒット後の新作」という猛烈なプレッシャーの下で作品を送り出さないといけなかった「作り手側の”迷い”も、どことなく伝わってくるような作品ではあったので、以下、これだけのスケールの大きな作品を封切りまで持ってきた新海誠監督の功績に敬意を表しつつ、思ったところを書き残しておくことにしたい。

※以下、ネタバレあり。

*1:このほか、前作同様、他の著名アニメーション映画等との比較の見地からの厳しい論評も見かけるのだが、それって「ボリウッドミュージカルにクラシックバレエの要素がない!」と怒るのに近いところがあって、そもそも勝負している土俵が違うでしょ、と思うところもあるので、識者の意見は尊重しつつ、あまり踏み込まずに済ませることにしたい。

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「馬好き」は法務を救う?~『広告法律相談125問』より

連休だからと言って、連日競馬ネタは勘弁してくれ・・・という読者の方もいらっしゃるかもしれないが、今日は真面目な法律書の話。

プライバシー/名誉棄損/個人情報管理、といった分野で既に多くの著作を世に出されている、桃尾・松尾・難波法律事務所の松尾剛行弁護士が、最近また新しい書籍を公刊された。

題して「広告法律相談125問」。

広告法律相談 125 問

広告法律相談 125 問

一見すると、一般的なQ&A形式の解説本のようにも思えるこの本。
だが、「はしがき」から読み始めると、本書が実に興味深いコンセプトの下で執筆されたものであることが分かる。

「そもそもこの本は、『馬好き法務部員の一日』としてコラムを書いて下さっている、広島の広告会社の法務を担当されているAさん*1と、同じ馬好きの編集者であるBさん*2のご縁で出版に至ったものである。」
「私が留学から帰ってきた頃、Aさんは広告会社の一人法務部員になられ、私に、著作物の類似性や景品規制などありとあらゆる質問をしてくれるようになった。私も『教え子』*3が立派な法務部員になったということで、喜んで質問に答えていた。」
「このようなご縁に恵まれ、『広告という非常に幅の広い分野では、考慮すべき事項が多岐にわたるため、ルーキーからベテランに至るまで、それぞれ悩みが多い。だから、実務的な要素が多数ちりばめられていて、初心者でも分かりやすく読める広告法務の本はニーズが必ずあるはず!』というAさんとBさんの熱意によって、本書は誕生した。」(強調筆者、以下同じ。)

ここで注目すべきは「馬好き」というキーワード・・・ではない

名実ともに、会社の中で広告絡みの相談に「一人で」対応している担当者自身が書籍の執筆に関与され、「コラム」等を通じてその視点を至るところにちりばめた、という点に本書の大きな意義がある。

例えば最初に出てくるコラムの見出しは「1『大丈夫ですよね?』の怖さ」(11頁)。
経験者であれば、この見出しに接しただけで、様々な思い出が喚起されるだろう。

また、「9 嫌われない法務になるために」(173頁)に書かれていることは、「一人」の場面に限らず法務部門の担当者が心がけるべきエッセンスが、シンプルだが見事に凝縮されていて、個人的には実に心に染みる。

そして、本書の良いところは、コラムだけではなく、松尾弁護士が書かれたQ&A自体も、決して熟練していない担当者が藁にも頼る思いで頼ってくる場面を想定して、極めてシンプルに記されている、という点だろう。

例えば、「第4話 商標法」の章に出てくるQ25「新商品発売時にどのような対応をすべきですか?」という問いに対する回答は、

A 「商標調査をすべきです。」(62頁)

の一言(もちろん、その後にコンパクトな解説は付されている)。

一方、「第3話 著作権法」の章に出てくるQ13「撮影をしたところ、他社のキャラクターが全面に描かれている服を着た人が写り込んでいました。こういう場合には、必ずその部分を消さないと、著作権侵害ですか?」という問いなどでは、

A 「写り込みについての著作権制限規定が適用される可能性がありますが、そもそも、広告にある程度以上のサイズで他社のキャラクターが出現すること自体、広告主にとって望ましくない場合が多いように思われます。」(36頁)

と、法の原則に触れつつ、実務者にとって必要な情報をサラッと盛り込んでいる。

このタイプのQ&A本(特に分担執筆の場合)の場合、

・せっかくQ&A形式にしているのに、問いの立て方がおかしくて実用に耐えない(「執筆者の書きやすさ」に合わせて「問い」を作るとこうなる)。
・問いはまずまずの作りなのに、回答がそれにストレートに応えていない
・問いの掘り下げ感や、回答スタンスに関して、章ごとのばらつきが激しい

となってしまう残念なケースも時々見かけるのだが、本書は松尾弁護士の単独執筆。
「そもそも」や「ただし」書きの使い方も含めて回答スタンスは一貫しているし、解説で基本的な論点を網羅しつつ、「問い」そのものは極めて実践的な作りになっている、という点も高く評価できるところである。

自分も、ブログのプロフィール欄などに書いた通り、若い頃に知財周りの法務を一人でやっていた時があって、その頃は、「広告主」としての立場で社内のあちこちから飛んでくるゲラチェックや、「広告代理店から『権利処理』を求められる」立場で社外から飛んでくるゲラチェックに日々追われていた。
前者に関しては、景表法周りを所管していたのが当時の「法務部」だったので、そこだけ切り分けて相談を持っていくこともあったが(あるいは相談者の方で先回りして別々に相談を持っていってくれたこともあったが)、今一つすっきりしない答えしか得られないことも多かったし、「広告の中で最後までコロコロ変わるのは、商標とコンテンツ素材の使い方」*4ということもあって、最後まで相談に乗っている自分のところで「(権限を超えた)最終判断」を求められることは一度や二度ではなかった。

顧問弁理士の先生がまだ若くてフットワークも良く、一日に何通メールや電話で問い合わせても嫌な顔一つせず対応してくれた、というのが当時の救いではあったのだが*5、この種の話になると、最後は「直感」的な部分で、”えいや~”と判断せざるを得ないことも多いわけで。

そんなことを思い出しながら、拝読させていただいた。

なお、本書の中でも紹介されているように、広告法務周りの文献としては、電通法務マネジメント局から出ている「広告法」が無駄なくムラなく、だがクオリティも高い良書として既に存在しているから、どんな初心者であっても、そこまでは文献として活用してほしい、というのはあるし、特定の業界に関しては、さらに掘り下げて調べないといけないことは多々ある、というのももちろんのことである。

広告法

広告法

ただ、会社に入ってみたら「一人」法務で、しかもいきなり有象無象の広告宣伝物のチェックをしてくれ、と言われた人が最初に飛びつくための本としては、冒頭でご紹介した『125問』がとても良い本ではないかな、と思ったので、まずはお勧めする次第である。

(以下は、自分の細かいこだわりなので、興味のない方はスルーしてください・・・)

*1:実際のはしがきにはちゃんとお名前が入っていますが、ここでは仮名とさせていただきます。

*2:Aさんに同じ。

*3:松尾弁護士によると、学習院大学ロースクール時代の教え子だということである。

*4:この点に関して言うと、キャンペーンの枠組みは調整する箇所等も多いので結構早い段階で決まることが多いし、上の立場の人になればなるほど、細かい説明書きはスルーする一方で、「ビジュアル」とか「デザイン」に関しては、誰でも気軽に口を出せてしまうので、必然的にそうなる、というところはあるように思う。

*5:本書に登場する「馬好き法務部員」も、「誰か相談できる人を探すことが重要」ということを強調されているが(25頁参照)、この点に関しては本当にその通りだと思う(なお、この「馬好き法務部員」の方はこの点に限らず「相談することに関しては事前に会社の許可を得ている」という点を繰り返し強調しておられるが、個人的にはボランティアでの対応を求める限りにおいては、あまり固いことは気にしなくて良いと思うところ。チャージを支払って、というレベルになってくると、さすがに会社の正式な承認なしでは先に進めないのだけれど、その前段階でハードルを上げても仕方ないだろう、と)。

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そして、歴史的名馬がまた一頭、世を去った。

昔、「インパクトの大きい訃報は続けざまに来る」という話を聞いたことがあるが、まさにそれを地で行くような悲しいお知らせ。
今度は、2004年のダービー馬、キングカメハメハがこの世を去った

ディープインパクトの死に続き、競馬界にまたも悲しい出来事が起こった。キングカメハメハが9日、繋養先の北海道安平町の社台スタリオンステーションで死んだ。18歳だった。2003年に京都でデビュー、翌2004年にはNHKマイルC、ダービーで勝利し、変則2冠を達成。秋に復帰初戦の神戸新聞杯を快勝後、屈腱炎を発症したため引退した。」(キングカメハメハ死す 松田国調教師「夢の塊だった」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュースより)

今年の春に”急変”したディープインパクトとは異なり、こちらは前々から体調を崩していて、とうとう今年は種付けもできないまま「引退」に追い込まれていたから、同じような馬齢でもちょっと「訃報」の意味は変わってくるのだが、それでも「功労馬」になって数か月でこの世を去る、というのは何とも気の毒というか、儚いというか。

2歳~3歳の初めまではクラシック王道路線を歩みつつも、皐月賞ではなくNHKマイルCに進み、10年近く破られていなかったタイキフォーチュンのレースレコードを更新する5馬身差圧勝。
その後、松田国英調教師が「ダービー挑戦」という、当時としては前代未聞なローテを発表して、当時の職場の人間と、Numberの特集記事を片手に「4ハロンも一気に距離延長して大丈夫か?」と熱く議論し、「長距離適性はない!」と強く主張した自分が大恥をかいた、ということも、昨日のことのように思い出すから、ディープの時と同様、「まだ若いのに・・・」というのが率直な感想である*1

キングカメハメハ自身がクラシックシーズンが終わる前に引退してしまったこともあるし、次の年に「無敗の三冠馬」が世に出てきてしまったことで、「競走馬」としての印象はどうしてもかすんでしまったところはあるが、同世代の他の馬とのレベルの比較で言うと、ハーツクライダイワメジャーといった好敵手がいたこの世代の方が、「ダービー馬」になったことの価値は高いともいえるわけで、松田(国)調教師や安藤勝己元騎手が「規格外」的なコメントを連発しているのも分かるような気がする*2

ちなみに、ディープインパクトが亡くなった翌週くらいから「パンチの利いた後継種牡馬不在」という話が出始めている。

確かに競走馬の「血統」というのは難しくて、結果が出なければすぐに淘汰されてしまうし、結果が出たら出たで気が付くと種牡馬繁殖牝馬のコミュニティの中でその血が濃くなりすぎて手詰まり気味になっているうちに、外来血統によって一瞬で淘汰されてしまう、ということもある*3

ディープインパクトは、かれこれ20年以上も日本の競馬界を牛耳ってきたHail to Reason ‐Halo-サンデーサイレンスのサイヤーラインの正統な後継者ではあるが、その産駒となると、サンデーサイレンスから数えて「3代目」。しかも母方にはこれまたメジャーなNorthern Dancerの血脈(しかも決してマイナーではないLyphard系)が入っているから、自身のような5世代遡ってもアウトブリード、という産駒を送り出すのは難しい。ノーザンファームは、地球の裏側や欧州の渋い血統の繁殖牝馬を連れてきて、何とか再び「血の爆発」を狙っているようだけど、それも必ずしも当たっているとはいえない、というのが実情のような気がする。

そうなると、Kingmamboの持ち込み馬で、産駒がまだ「2代目」のキングカメハメハ*4の子供たち(ルーラーシップロードカナロアドゥラメンテ)の方が、サンデーサイレンス繁殖牝馬との組み合わせで良い結果を出せる確率が上がってきて(今のところ最高傑作はアーモンドアイだが、柳の下のどじょうを狙う人たちは当然増えているだろうから続々と同パターンの配合で爆発的に活躍する馬が出てきても不思議ではない)、気づけばMr.Prospector系が日本の主流血統になる、ということも十分考えられるところ*5

その一方で、今の世界の潮流を見ると、いずれはBold Ruler 系の強力な種牡馬が米国から入ってきたり、はたまた歴史は繰り返して、Galileo-Frankelのラインから再びNorthern Dancer直系の血統が蘇る、というドラマが演じられる可能性もないとは言えない。

競馬が「遺伝力」を競う世界でもある以上、死んでもなお評価は固まらず、産駒に残した血を通じて世界中のライバルと競争し続けないといけない、というのはなかなか気の毒なところなのだけど、先々、血脈がどういう行方を辿るかにかかわらず、十年後、二十年後、世界のどこかで活躍する馬の血統表の中に、キングカメハメハディープインパクトの名前が残っていることを自分は切に願っている。

そして、仮に「血」が残らなかったとしても、2004年のダービーや、2005年から2006年にかけて自分が見守り続けたレースと、そこで主役を演じた馬たちの記憶が消えるわけではないので、自分が生きている限りは、それを語り継いでいかないといけないな、と、思いを新たにしたところである。

追記

自分もサイヤーラインをまじまじと眺めたのは久しぶり(ディープの後継がどうこう、という話題が出てきたせいで、急に気になってしまった)で、寝ても覚めても攻略本片手にダビスタをやっていた時代から、系統名が1世代、2世代繰り下がっていることに隔世の感を抱いていたりもするのだけれど、興味がある方はさしあたり、以下の書籍でもご参照いただければ、と。

パーフェクト種牡馬辞典2019-2020 (競馬主義別冊)

パーフェクト種牡馬辞典2019-2020 (競馬主義別冊)

あと、相次いでなくなった両馬の偉大さを改めて知る、という観点から、今年の本日時点での種牡馬リーディングを残しておくことにする。
サンデーサイレンス系の血統が飽和状態であることを改めて実感するデータでもあるのだが・・・)

1 ディープインパクトサンデーサイレンス系)1,144戦150勝(内重賞15勝)賞金449,567.2万円 
2 ハーツクライサンデーサイレンス系)982戦87勝(内重賞3勝)賞金194,836.5万円
3 ステイゴールドサンデーサイレンス系)456戦48勝(内重賞9勝)賞金184,391.0万円
4 ロードカナロアキングマンボ系、キングカメハメハ直仔)837戦93勝(内重賞5勝)賞金180,881.9万円
5 ルーラーシップキングマンボ系、キングカメハメハ直仔)735戦75勝(内重賞6勝)賞金151,423.3万円
6 ダイワメジャーサンデーサイレンス系)683戦54勝(内重賞1勝)賞金138,960.2万円
7 キングカメハメハキングマンボ系)573戦56勝(内重賞5勝)賞金138,309.4万円
8 ハービンジャー(ディンヒル系)741戦55勝(内重賞3勝)賞金114,751.6万円
9 ゴールドアリュールサンデーサイレンス系)623戦54勝 賞金 91,185.6万円
10 マンハッタンカフェサンデーサイレンス系)395戦30勝(内重賞5勝)賞金88,554.0万円

*1:もっとも、冷静に考えると、「15年前のダービー馬」なんて、今JRAのCMに乗せられて競馬場に来ている世代にしてみれば、自分が20歳の頃のアンバーシャダイとかサクラユタカオーみたいな馬なわけで、その頃仮に彼らの「訃報」が報じられていたとしても、「若いのに気の毒」とは絶対思わなかっただろうから、純粋に自分が歳を取って、時間の感覚がおかしくなっているだけ、という見方もできるところではある(アンバーシャダイサクラユタカオー種牡馬としてそこまで酷使されなかったおかげ(?)か30歳くらいまで長生きしたので、それとの比較では「若くして」という感覚もあながち間違いではないのだが・・・)。

*2:なお、キングカメハメハの競走馬時代の馬主はディープインパクトと同じ金子真人氏だが、ディープの訃報に際しては「涙が止まりません」というコメントをいち早く発した金子氏が、今回はどのメディアを見回してもまだコメントを出していないように見えるのは、単にご本人が休暇等で捕まらないだけなのか、それともディープに最上級の惜別の辞を寄せてからわずか10日たらずで再びコメントを発することを躊躇したのか。改めて説明するまでもなく、金子氏にとっての「初めてのダービー馬」はこの馬なので、実のところディープ以上の思い入れを持っていても不思議ではないと思うのだが・・・。

*3:かつて日本国内で猛威を振るったNorthern Dancer系(特にノーザンテースト系)の血筋も、父系の血脈として見かけることは残念ながらほとんどなくなってしまった。

*4:キングカメハメハ自身にはNorthern Dancerの4×4のクロスが入っているが、それぞれNureyev、トライマイベストという日本ではマイナーな血筋なので、孫世代になると血は極めて薄くなる。

*5:個人的にはエンドスウィープの血を引き、Northern Dancer色の薄いアドマイヤムーンの産駒あたりがもっと走ってくれれば、よりミスプロ系の血が広がるのにな、と期待しているところあり。

経営も市場も「生き物」だから。

夏の暑さが猛威を振るう中、先週から今週にかけて、各社四半期決算の発表が続いている。
ここ数カ月の間に、ちょっと立場が変わって、お付き合いする会社が出てきたりもしたものだから、(それまでの一般的な投資、という観点を離れて)決算短信とか説明資料等にも比較的じっくり目を通すようにしているのだが、今回はちょっと流れが読みにくいところも多かった気がする。

10連休で内需は好調、景気もまだまだ好調、と言われている一方で、貿易戦争の余波その他の理由で中国を主戦場としていた会社は製造業を中心に散々な結果に。
為替相場も不安定、原材料価格も不安定、一方で国内の人件費コストだけは着実に上がっていく、という状況で、「去年より良い決算」を望む方が罰当たりだろう、と思っているのは自分だけではないようで、利益ベースでの決算予想進捗率が25%を大きく下回るような会社でもなぜか株価が次の日に跳ね上がったりするのだが、いい時も悪い時も経験してきた”一投資家”としては、

「株価に「割安」感があるのは、事業年度が始まったばかりで、単に通期予想をまだ見直してないからだろう」

と意地の悪い突っ込みも入れたくなるし、この環境下でも業績を伸ばしているのに、株式市場では売り込まれてしまった会社などを見ると、

「何をそんなに期待していたのだ・・・!」

と、呆れて突っ込みを入れたくもなる。

まぁ、市場予測が当たらず、「結果」が出た時の動きもその時その時の市場マインドでどちらに転ぶか読めないのと同じで、会社の中にいても、多くの人は自分の「持ち場」とその周辺の状況しか把握できないから、最終的な決算数値がどう転ぶかなんて発表の直前になってもほんの一握りの人にしか分からない。まして、その数字に日常的に接している者ですら予測なんて四半期を締めるギリギリまでできるものではないわけで、まさに経営って「生き物」だな、と思っていたことを、懐かしく思い出していた。

ちなみに、今日は6日に続いて忘れてはならない日、長崎の原爆忌である。

ということは、1年後の今日まで東京でオリンピックが続いているわけで、会社の業務カレンダーがこれまでと同じなら世の中がわんさか盛り上がっている(場合によっては混乱している?)最中に、外に出す数字の詰めとかをやらないといけないのか・・・と思うと、中にいる方々には心から同情を禁じ得ない。

できることなら、1年後、テレビ画面の中のオリンピックだけではなく、世の中全てが「明るいムード」に包まれているとよいのだけど。
そして、企業という「生命体」が何かと生きづらくなってきた昨今の状況に鑑み、「生き物」を助ける係、たる世の法務専門家の方々(もちろん自分も含め)が、一人でも多くその明るさの演出に貢献できることを、今は心から願うのみである。

35年の時を超えた三陸・大船渡の「旋風」とその後と。

今年も甲子園で夏の高校野球が開幕した。

例年だと、大会が大詰めに差し掛かるまではさしたる関心も持たずに結果だけ眺めている、ということも多いのだが、今年は地方予選から社会的に議論を呼ぶような話題が出てきたこともあって、いつもよりはちょっと関心高め。

そんな中、2号連続で甲子園特集を組んでいたNumber誌の最新号が届いた。

今回は甲子園を「旋風」で沸かせた学校やその選手たちにスポットを当てた特集、ということで、昨年の金足農業(&吉田輝星選手)に始まり、1983年のPL学園(1年生の桑田、清原両選手)、2007年の佐賀北、2015年・早稲田実業清宮幸太郎選手)、さらには2004年の駒大苫小牧や1979年の浪商といったところまで、懐かしいエピソードが取り上げられている。

複数の優勝メンバーが高校野球指導者の道に進んだ佐賀北高校の話などは、前号に続いて教育的な側面も見え隠れするのだが、全般的には一つ一つの試合の振り返りや、チームに勢いがついていく過程を当時の関係者が回顧する、というスポーツ雑誌にありがちな構成で、前号(以下リンク参照)に比べると予定調和的で落ち着く中身だった。

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そんな中、異彩を放っていたのは、Number誌が誇る名ライター・鈴木忠平氏*1「佐々木朗希と大船渡旋風1984という記事である。

自分も微かな記憶しかない*21984年の選抜高校野球での大船渡高校の快進撃。そしてその原動力となった小柄な左腕エース・金野正志投手の「異才」としてのエピソードを、当時バッテリーを組んでいた吉田亨氏(後に母校の監督にも就任)や他の当時のメンバーが語り、悲願の「三陸鉄道開通」のタイミングとも重なる中、一家総出で応援に行く地元の人々の熱狂が鮮やかに描かれる*3

中国地区王者の多々良学園を初戦で完封、日大三島に1失点完投、準々決勝で明徳義塾を完封で下して、岩手県勢初のベスト4。
誰にも目を留められることなく毎晩黙々とランニングをしていた野球部員たちが、一躍地元の大スターになって迎えた夏。

だが、そこでエースを襲った悲劇・・・。

この記事の中に、主役である金野投手本人のコメントは一切出てこないから、あくまで周囲にいた人々の「証言」が全てなのだが、夏の予選も苦しみながら一人で投げ抜いて甲子園に出場したエースの球歴は、六大学の名門チームに進学したところで途絶える。

当時の大船渡高校監督、佐藤隆衛氏による最大級の絶賛と、わずかな悔悟の弁。

「金野は教えようとしても教えられないものを持っていました。ある種の天才でした。監督が考える以上のことを考えていた。」
「もっと科学的にやれば、壊さずに済んだかもしれません。でもね・・・、彼しかいませんでしたから。甲子園に行こうと思うなら、彼を投げさせないということは考えられなかった。私は今も、球数制限とか、そういうことには反対です。」(30頁、強調筆者、以下同じ。)

そしてそのエピソードと、「エースが投げなかった」今年の決勝戦の後に吉田亨氏が語った、とされる以下のコメントが見事なまでに交錯する。

「僕はね、これで良かったと思っているんです。公立校のエースが壊れるケースは多いんです。まして160㎞を投げる投手というのは、トミー・ジョン手術を宿命づけられていると言われているそうです。難しいですけど・・・、これで良かったんだと思います。」(31頁)

鈴木氏の記事が秀逸なのは、こういったコメントや、「(佐々木投手という才能に対する)國保監督の信念」も伝えながらも、安易に”将来があるから仕方ない”ムード一色にはしていないところで、高校野球をやっている以上、試合に出たい、投げたいという気持ちはありました」という佐々木投手本人のコメントと、その背景にある「9歳の春」から今に至るまでの「2019年のバッテリー」のドラマも鮮烈に描いている。

記事では、佐々木投手と長年バッテリーを組んでいた及川恵介捕手が涙を拭って語ったコメントに続けて、

「どんな結末であれ、たとえ空虚なものだったとしても、エースの未来のためであるならば、彼らに何が言えるだろう。佐々木朗希と仲間たちの定めを、受け入れる以外にどうすることができただろう。」(31頁)

というフレーズを並べて”締め”ているのだが、このフレーズほど、今回の一件をめぐるモヤモヤを的確に表すものはあるまい。

途中から著者の繊細な文章表現力と絶妙な構成が涙腺を刺激してやまなくなるような、ノンフィクションとしては間違いなく一級品の記事。
もしかしたら、記事を書かれた鈴木氏も、最初取材を始めた時には、35年前の英雄と佐々木朗希投手が、「甲子園」をかけた舞台でこんな形でリンクすることまでは想像されていなかったのかもしれないが、事実は小説よりも奇なり、目の前で起きることが一番ドラマチック、という世の中の摂理が、こういう奇跡の作品を生み出すんだろうな、と思ったところである。

なお、この記事を読んでしまうと、もはや「決勝戦不登板をどう思うか?」という話はどうでもよくなってしまうところはあるのだが、予想通り、Number執筆陣4人(鷲田康、赤坂英一、石田雄太、中村計の各氏)が、それぞれの立場からコメントを出しておられる。

自分の思っていることは、先日のエントリー(以下)に書いたとおりなのだけど、その観点から言うと、

「國保監督は自らの采配を、昨今のプレイヤーズ・ファーストか勝利至上主義かという議論に準えて、その旗印にされるのをよしとしているわけではないのだと思う。つまり國保監督の采配を英断だと讃えるのも疑問だと批判するのも、じつは似たり寄ったりだという気がしてならないのだ。」(33頁)

と、「稀有な才能を預かる監督にしかわからない思考」をあれこれ言うのは「無粋」だ!、と喝破する石田雄太氏や、

「投球過多問題を考えるとき、八木*4の取った態度は一つの答えになっていたように思う。そもそも『勝利』か『選手の体』かという二者択一で考えるから無理が生じるのだ。その二つは対立項ではない。むしろ協調し合える事項なのだ。」(33頁)

とし、「勝利のために温存した」という言葉を添えるべきだった、とする中村計氏のコメントには共感できるところが多かった。

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結局、何が正しかったのか、ということは当事者にも最後まで分からない話だとは思うのだけれど、佐々木朗希投手や一緒に戦った選手たち、そして國保監督や来年以降の大船渡高校の野球部の「その後」が実りあるものであればあるほど評価してくれるのが「世間」というものだから、「2019年7月25日の決勝戦」がポジティブなエピソードとして語り継がれるようになるために、全ての関係者に、前向きな「その後」が訪れることを願うしかないなぁ・・・と思うところである。

*1:「告白」をはじめ、清原和博氏やPL学園絡みの名著、名記事を量産されている方。

*2:というか、同じ年の金足農業旋風と記憶がごっちゃになっているところもある・・・。

*3:この辺は地域は微妙に違えど「あまちゃん」のワンシーンと限りなくラップする。84年当時のメンバーの息子が、注目を集めた今年のチームにいる、といったあたりも、いかにもドラマ仕立てにしやすいストーリーである。

*4:筆者注:2017年春の先発でエース三浦銀二投手の登板を回避した福岡大大濠の八木啓伸監督。

それは目の前に迫る問題か? それとも頭の体操か? ~「AIと著作権」をめぐって

「論究ジュリスト」という「ジュリスト」のスピンオフ的な季刊誌があって、長らく購読していながら、忙しい時はどうしても優先順位が落ちるものだから、ずっと積読にしてしまっていたのだが、ちょうど余裕も出てきた夏の時期にちょうどいいタイミングで届いた、ということもあって、珍しく開いてみた。

そしたら運のいいことに「AIと社会と法」という連載(第6回)のお題がちょうど「著作権
先日の法律時報の特集記事に続き、実に旬なテーマだったので、ここで少しご紹介してみることにしたい。

宍戸常寿[司会]=大屋雄裕=小塚荘一郎=佐藤一郎=奥邨弘司=羽賀由利子「AIと社会と法-パラダイムシフトは起きるか?No6/著作権*1

確認してみたら、この連載が始まったのは昨年春号から。
第1回から登場する宍戸教授、大屋教授、小塚教授、佐藤氏に、テーマに応じてゲストの先生方が入る、というのが定番の構成のようで、今回は自称”テック系著作権法研究者”の奥邨弘司・慶大教授と、先日の著作権法学会でも登壇された国際私法の羽賀由利子・金沢大准教授のお二人が加わる、という構成である。

そして、論じられている内容をざっと挙げていくと、以下のような感じになるだろうか*2

1「AIの学習用データに関する著作権問題」(139頁)
2「AI作成コンテンツに対する保護」(139頁~144頁)
 2-1)「AI作成コンテンツに著作物性を認める場合の問題」(141頁~142頁)
 2-2)「AIは著作者か?」(142~144頁)
3「AIによる著作権保護」(144頁、148~150頁)
4「AIによる著作権侵害」(144~147頁)
5「EU著作権指令について」(147~152頁)
6「AIと著作権以外の知的財産法との関係」(152~154頁)

先日の法律時報の特集(著作権に関しては上野達弘教授、横山久芳教授が執筆)では、もっぱら上記「1」と「2」にフォーカスして議論が展開されていたように思われるが(以下リンクもご参照のこと)、今回の記事では、「1」のところは「平成30年著作権法改正で対応済み」*3ということであっさり片付けられており、もっぱら「2」に議論の中心が置かれていること、さらに進んでAIを著作権保護ツールとして用いる場合の問題点や、AIによる著作権侵害の可能性にまで議論が発展している、という点に特徴があるといえるだろう。

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「法律時報」の特集で掲載されていた各論文は、別所氏や平嶋教授の論文に象徴されるように、「AIが人間の手を離れて勝手に創作し始める」というところまで想定するのは過度な飛躍では?という意識の下で書かれていたように思われるし、どの論文も、基本的には「現行法の枠組みの中でどう整理し、解釈するか」というアプローチに貫かれたものだった。

これに対し、今回の記事では、「自律的に創作するAI」を念頭に置いた発言もあちこちに散見され*4、(好き嫌いは分かれるところだろうが)それが、参加者の著作権法パラダイム転換の必要性を示唆するようなコメントにもつながっていて、なかなか興味深い。

例えば、

「表現が仮に似ていたとしても、似たところがあったから依拠しているという推認をするという扱い自体が、実は今後、再考を迫られるのではないかと感じました
「アイディアを持たずに、表現だけを高速で大量に生成する主体、機械が現れた。そうしますと、そこに保護すべき本質があるのかという問題になってきたように感じられて、実はアイディアと表現の関係が再検討を迫られているということなのかと思いました。」(以上、小塚141頁、強調筆者、以下同じ。)

著作権=人間の知的成果、ということをあまり強調しすぎますと、近い将来、AIがどんどんコンテンツを生み出し、我々が普段接するコンテンツの多くがAI製という時代が来ると、著作権法は、『人間が作ったコンテンツです。珍しく貴重なものです』という具合に、国宝とか骨董品とかを保護するような法律になりかねないような気もします。それでいいのかどうか。そうではなくて、著作権法は、現在同様に、我々が日常接するコンテンツを保護する法律という位置付けを維持するのであれば、人工知能が作るものも完全には無視できないのではないか、というふうに思っております。」(奥邨143頁)

といったようなコメントの数々。

もちろん、議論が「AIが自律的に生成したものは著作物にならない」という伝統的解釈からスタートしている点に変わりはないのだが、「AIが自律的に生成」する時代の到来が「目の前に迫っている」と捉えるのか、それとも「まだまだ先の話」と捉えるのか、という背景意識の違いが、今回の記事を「法律時報」の特集記事とは大きく様相を異にするものにしており、世の中全般の「AI」をめぐる議論の様相とも合致するなぁ・・・と、思った次第で、上で引用した以外にも、いろいろと示唆的なコメントが出てくるので、関心のある方は是非、実際に手に取ってご覧いただければ幸いである*5

ちなみに、この手の話題は、特に最近活発に議論されるようになってきているが、自分が大学院にいた21世紀の初めころから「自動生成創作物」という存在は、田村先生の著作権の教科書にも出てきているくらいで、決して「真新しい」話ではない。

あの頃に比べると、「AI」がよりリアルに社会に浸透する兆しを見せてきているとはいえ、それを人間が創作過程で「道具」として使っているだけであれば、使用者たる「人間」に権利を与え責任を負わせる、という整理で何ら問題はないと思われるし*6、仮に創作過程の全てをAIが担うような時代が到来したとしても、「コンテンツを世に出すための動機付け」を与えるのが人間である限りは、その「人間」に権利を与え責任を負わせる、ということで何ら問題ないのでは?*7という思いは、21世紀の初め頃から全く変わっていないわけで、今後展開される議論も、あまりトリッキーな方向には行ってほしくないな、と思わずにはいられない。

あと、今回の記事にも出てくる”僭称”の問題に関しては、前回のエントリーにも書いた通り、仮に「自分が著作者だ」と”僭称”する者がいたとしても実質的な問題は生じないのでは?*8というのが自分の考えではあるのだが、この点に関しては、最初に裁判所で争われる際の構図が、「AIを使った人 vs 同一・類似創作物の利用者」なのか、それとも「AIを使った人 vs そのAIを開発した人」なのか、ということによっても変わってくる気がする。

前者であれば、著作者性以外にも争える論点がいくらでもあるのだが、後者の場合、まさに「自動生成創作物の権利を誰が持つのか?(誰も持たないのか?)」ということが争点になるので、場合によってはAIを使った作品を世に出した人自身が、主張の中でその作品の著作物性を一生懸命否定する、ということも考えられるような気がして、争いの構図によって、シンプルな理論を超えたところで何らかの判断が示される可能性はあるのではないか、と思うところである。


なお、今回の論究ジュリストも、全体で200頁を超えるボリュームになっているのだが、他の記事の中では、特集2「震災・原発事故と不法行為法」の中の論稿、特に、米村滋人「津波災害に関する過失判断-災害損害賠償責任論・序説」(論ジュリ30号92頁(2019年))と、瀬川信久「震災関連訴訟が不法行為責任論に提起する諸問題」(論ジュリ30号129頁(2019年))が、一連の裁判例の傾向を把握する上で非常に有益な論稿だったので、本日のテーマからは離れるが、ここでご紹介させていただくこととしたい*9

*1:論究ジュリスト30号138頁(2019年)。

*2:以下の番号は、自分が内容を見つつ独自に付けたもので、記事中の項番等とは必ずしも対応していない。

*3:「AIへの対応ということでは、世界最先端と言えるような状況になっているかと思います。」というのが奥邨教授のコメント(139頁)。新30条の4の評価は今のところ概して高い。

*4:奥邨教授は、冒頭で「AI技術の現状は、まだまだそこまでには至っていませんので、あくまでも想定事例ということでしかありませんが・・・。」と断っておられるのだが(140頁)。

*5:個人的には、自分もつい最近まで「AI」の「お守り」をしていたことがあったから、スタンスとしては圧倒的に「法律時報」特集の世界観に近いのだけど(自律的な創作を始める以前にあれもこれも・・・という技術的課題が多すぎるので)、自分が生きている間に遭遇できるかどうかわからないようなシンギュラリティに備えて「頭の体操」をするのも、決して嫌いではない、という感じである。

*6:完全に人間の「手」だけで創作されている著作物というのは、現時点でも既に少数なのだから・・・(今は、図面を引くにもデザインをするにも、作曲をする時ですら、一定の表現パターンを自動生成するソフトウェアが活躍している時代である)。

*7:奥邨教授も「AIによる著作権侵害」を議論する際の文脈で「どれを世に出すのか、最後は人間が決めるわけですから、その決めた人が、他人の著作物と似ていると知りながら世に出した以上は、その人に責任を負わせるという考え方」があることを紹介されている(145頁)。

*8:権利主張の対象となるのが「AIが生み出すありふれた創作物」なのであれば、依拠性なり、「ありふれた表現」のロジックなりで切れるので問題ない、という理屈。なお、先述したように、「動機付け」を行ったものに権利を帰属させる、というルールが定着すれば、そもそも”僭称”にもなりえない。

*9:この関係の仕事を長くやっていたこともあり、津波に関しては日和幼稚園、七十七銀行から大川小の事件まで、原発に関しても下級審判決が出るたびに集めてスクラップしていたのだが、なかなか整理する時間が取れず、満足のいくようなアウトプットも残せていなかった。論稿を読み進めていくうちに、そんなほろ苦い思いが蘇った。

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