ここからが最後の決戦。

昨年の終わり頃からじわじわと広がってきていた新型コロナの波。

11月の半ば頃には、既にこれまでで一番の感染判明者数がカウントされていたような状況だったから、12月に入った時点で「そろそろモード切り替えないとまずいんじゃないの?」と思ったのは自分だけではなかったと思うのだが、どうにもこうにもお上の動きは鈍く、昨年のうちにできたことと言えば、正規の愚策「Go To トラベル」を一時停止したことくらい*1

当然ながらその程度で緩んだ空気が元に戻るわけもなく、年末はあちこちで忘年会、年始は帰省の動きこそピークダウンしたものの、「親戚囲んで宴会」といった動きは都内でも結構あったし、大家族主義、地縁主義が未だに残る地方に行けばなおさら、ということで、年明けの発症者が本格的に検査を受け始める前の段階で既に1日の感染者数は5,000人近くに達している

都道府県知事と官邸が押し合いへし合いした結果、ようやく、「今週中にも緊急事態宣言」という動きになってきたが、実際に発出されるのは数日後で、しかもどのレベルで抑制を書けるのか、ということもまだはっきりしないものだから、仕事始めはいつも通り、その後の”軽く一杯”も予定どおり、という働きバチの姿を、今日も街中でそれなりに見かけた。


この話題が世の中に出始めてから、まもなく1年になる。

その間、「緊急事態宣言」も含め、この国だけでも二度の「波」を経験したし、海外に目を移せばより多くの対処サンプルは存在する。

だから、その気になれば、ここまで来る前により効果的に拡大を止めることはできたはずなのに、それをしなかったのは、「武漢や欧米諸国で起きた大惨事に比べれば遥かにマシ」だったこれまでの状況に安心しすぎていたからなのか、あるいは、一部業界の政治的なパワーに影響されたからか。

これまで二度、何とか乗り切ったのだから今回も大丈夫、という楽観論は依然として強いし、自分もそれを無邪気に信じて良いのなら乗っかりたいと思っているが、何せ今の日本は「季節」が悪い。特に今年は例年以上に冷え込みがきつく、太平洋側は空気も一段と乾いている。仕事は年度末に向けて忙しくなることはあってもヒマになることは決してない、という気の抜けない時期がずっと続く。成人式から卒業式、会社によっては定期異動の送別会、といった「どうしてもやりたい」イベントも次々とやってくる・・・。

今は「1都3県」ばかりがクローズアップされているが、一週間後の今頃は、違うところで、都会よりはるかに医療体制が脆弱なエリアで、感染爆発が起きていても全く不思議ではないと思っているし、これまで「安心」の強調材料にされていた「かかっても(ほとんどの人は)死なない」神話が崩れて*2、20代、30代の犠牲者が出てきたり、普通に街中を歩いているだけで感染して亡くなる方が出てきてしまう、という状況が生じる可能性だって決して皆無ではないと思っている*3

これまで、自分は一貫して、「何でもかんでも行動を制約する必要はないんじゃないの?」「常識的にリスクがありそうなところとなさそうなところの切り分けは十分できるのだから、リスクの高いところだけ封じる方向で施策を打つべきではないの?」というスタンスで度々エントリーを書いてきたし、現時点においてもそのスタンスは変わらない。

ただ、今度ばかりは心してかからないといけないような気がするし、少なくとも素人目で「リスクがない」と断言できるような場所を探すのはかなりの苦労になりそうだな、ということも覚悟しているところである。

ちなみに、どこを見回しても首をかしげたくなるような意見が飛び交うことが多いこの話題*4に関して、自分が一番信頼を置いているのが神戸大学の岩田健太郎教授で、(感染症の世界には縁もゆかりもない自分は一連の新型コロナの話が出てくるまでこの世界の専門家、と言われる方々を全く存じていなかったのだが)放送大学の解説講義での話の分かりやすさだとか、春先に出されていた新書*5で書かれていた危機管理の要諦に関するくだりに分野は違えど共感するところが多かったこともあって、昨秋に公刊された光文社の新書も手元に持っていた。

丁寧に考える新型コロナ (光文社新書)

丁寧に考える新型コロナ (光文社新書)

この本が書店に並んだ頃には、ちょうど「第2波」も沈静化していた頃だったから、当座のことで気になる何か、のために買ったというよりは、昨年の春から夏にかけて起きていたことを振り返って頭を整理するために手に入れた、というのが実際のところだったのだが、今、まさにこういう状況になってくると、この本に書かれている警句がひしひしと迫ってくるような気がしている。

岩田教授は、「ロックダウンがCOVID-19対策に非常に効果的」ということを主張しつつも、副作用の大きさゆえに「安易に取られるべき手段でない」ということも強調しており、

「ロックダウンというきわめて強力な『先回りする』方法は、それ以外の方法が存在しない場合の『最後の手段』として残しておくべきです。逆に言えば、ロックダウンしか取る手がない、というギリギリのところに追い詰められた状況にいかに陥らないかが大事なのです。」(99頁、強調は著者によるもの)

と述べられているのだが、現状はまさに・・・というところもあって、これはかなり耳が痛い。

さらに、岩田教授は、次のようなことも言われている。

ロックダウンはおろそかにやってはならない『最後の手段』なのです。が、一旦やると決めたからには、それは徹底的にガツンとやるべきだったのです。そのほうが早く患者を減らせて、早く解除できますから。」(208頁、強調は著者によるもの)

これは4月の安倍総理(当時)の「これはロックダウンではない」という姿勢を批判しつつ述べられたものだが、おそらく今回も、総理サイドからは「そこまで深刻ではない」というトーンがどこかで出てきてしまうように思うだけに、同じことが繰り返されないでほしいな、と願うばかり。

そして、極めつけはこれだろう。

もちろん、緊急事態宣言など出さなくてすむのが一番なのですが、出さねばならないときには、遅滞なく出さなければならないのが緊急事態宣言なのです。なぜかというと、ロックダウンは最後の手段であり、その手段をやり損ねたときに残された手段は唯一つ、
 もっと大規模で、もっと長期的で、もっと経済的ダメージの大きなロックダウン
だからです。
経済に配慮してロックダウンをやり損なう、というのは、より大きな経済ダメージをもたらしますから、これは下策と言わざるを得ないのです。
(209頁、強調筆者)

最後の一言に関してはまさに同感だし、一部の業界の事業者の延命目的で小金を稼がせようとして足元に目を瞑り続けた結果、もっと大きなものを失うリスクを負うことになりかけているのが今の状況だというほかないので、ここは何としても毅然とした姿勢で・・・と思わずにはいられない。

こういう状況になると、昨年末、一足早く「冬休み」に入るくらいの感覚で予防的な措置を取っていてくれたなら、新年はもう少し気持ちよく迎えられたのに・・・という恨み言がどうしても出てきてしまうのだが、それを言っても仕方のないこと。

今はとにかく徹底的に人々の接触の機会を減らす。そのためにできることは何でもやる。

「個」が弱い、何となくでも群れたがる、そして同調圧力に流される・・・、そんな日本人の弱いところが徹底的に突かれているのが昨年来のCOVID-19禍だと思うのだが、これまでの様々な感染症の歴史を見ても、「一番大きな山が最後の山」となるケースも決して少なくないだけに、まさにここが勝負、とばかりに、心を鬼にして徹底的な政策が打たれることを、今は心の底から願っている。

*1:止めるのが、遅すぎる。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。

*2:少なくとも今週中には死者数が3ケタを超える数字になっても全く不思議ではない。

*3:医療機関が崩壊する、という話はよく出てくるが、それ以前に感染者が爆発的に拡大することで、これまでリスクが低いと思われていた層からも確率的に悲劇が起きることだって考えられる。

*4:特に「経済」を売りにしたソーシャルメディアで「経営者」を名乗る人々が、感情に任せた”とんでも”コメントを連発しているのを見ると、新型コロナ対策以前に日本の経済が伸び悩んでいる理由も分かるような気がする。

*5:

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

傑出したスターがいなかったがゆえのドラマ。

今年も、箱根駅伝が終わった。それも、誰も予想しえなかったような奇想天外な幕切れで。

この正月の駅伝大会から「傑出したスター」が出てこなくなったな、と呟いたのは昨年のことだったが*1、今年はそれに輪をかけて「スター」として持ち上げられるような選手が見当たらない大会だったような気がする。

昨年末に発売されたNumberでも、すっかり恒例となった駅伝特集が組まれているが、ほとんどは「チーム」単位で監督中心に戦術は今年の大会に賭ける思いを取り上げた記事ばかりで、個人にスポットが当たっているのは、東京国際大の留学生、Y・ヴィンセント選手と各校の「スーパー1年生」くらい。

「1年生」にスポットが当たる、ということは、裏返せば、それだけ日本人の上級生たちが例年に比べて地味だった、ということに他ならない。

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実際、2日に往路が始まってからも、度肝を抜くような活躍を見せたのは、記事にもなっていたそのY・ヴィンセント選手くらいで、日本人エースと目されていた駒沢大の田沢廉選手(2区区間7位)や、青学大の吉田圭太選手(1区区間6位)、東海大の名取燎太選手(2区区間8位)といった選手たちは、今ひとつ抜け出せきれない結果に。

また「スーパー1年生」と言われた選手たちも、1区の超スローペースに泣いた順天堂大学の三浦龍司選手を筆頭に力を出し切れなかった選手が多く、文句なしの活躍、といえるのは3区で区間賞を取った東海大の石原翔太郎選手くらい。

かくして、祭り上げるような”神”は現れず、しかも、今年は昨年のように「靴」にスポットライトが当たることもなかったから、純粋に各校のチームワーク、往路復路での様々な駆け引きだけにスポットが当たる、という本来あるべき姿へとより回帰していくことになったのが今年の箱根駅伝だった。

応援自粛要請で沿道が静かだったことの影響もあったのか*2、今年の中継は、テレビもラジオも何となく例年よりおとなしい、という印象があったのだが、実際にレースの中で起きていた出来事は、ここ数年の”予定調和”的な展開を大きく覆すスリリングなことばかり。

辛うじて想定の範囲内、と言えたのは、1区の”団子”状態*3と、東京国際大の2区での首位くらいまでで、3区の時点ではトップの東海大はともかく青山学院大が2桁順位に沈んだまま上がってこない、ということに激烈なインパクトがあったし*4、4区で創価大が首位に立ったところで下剋上感は満載。

さすがに底力が試される山登りが終われば落ち着くところに落ち着くだろう、と思っていたのもつかの間、創価大学の三上雄太選手が区間2位の快走で、他の上位校との差は縮まるどころかますます開く・・・。

結局、往路はそのまま逃げ切って出場4度目にして初優勝を飾った、というのが、今年の箱根で味わった最初のスリルだった。

とはいえ、復路が始まる時点で、東洋大、駒沢大といった往年の名門校たちがきっちり2位、3位に付けていたし、東海大も5位にいる。

往路が終わった時点で、解説者が「創価大は復路が弱いですから・・・」と言い切ったことには仰天させられたが、わざわざそんなこと口に出さなくても、監督が早々に「敗北」宣言をしてしまった青学大以外の実力上位校は、当然復路になればこっちのもの・・・と内心思っていたはずだ。

ところが、続くスリル第2弾。復路が始まって6区、7区、8区と20キロ前後の距離を何度重ねても、逃げる創価大のポジションは変わらない。

他の上位校と互角に渡り合えるのは、10000m28分台のタイムを持つ7区の原富慶季選手くらいだろう、という素人考えをあざ笑うかのように、うまいペース配分で後続に影を踏ませず逃げ続け、さらに他校が挽回を狙ったはずの9区では昨年同区間6位の石津佳晃選手があわや区間新のペースで走り切って、2位以下の選手を1分以上突き放す快走劇まで見せた。

よく見ればこの大学を率いているのは、かつての復路巧者・中大で復路8区の区間新記録まで樹立した榎木和貴氏ではないか・・・!!ということで、鶴見中継所を過ぎたところで、

「これは典型的な下剋上総合優勝のパターンですね。侮ってすみませんでした。」

と、心の中で頭を下げた関係者も多いはず。

だが、そんな単純な話で終わらなかったのが今年の箱根駅伝だったわけで、最後の最後で、名門・駒沢大が大逆転して2冠達成、という、これまた1時間前にはだれも予想できなかったフィナーレを迎えることになったのである。

傑出した選手がいない、裏返せば、ほとんどの選手がロード10キロ、20キロを同じ走力で走り抜く力を持っていた今年の大会では、ちょっとした不調、アクシデントが大ブレーキにつながることにもなる。

9区にたどり着くまでの間に、メンバーの1人、2人に大きな誤算が生じていたのが2位以下の各校。

逆にその「誤算」が最後の最後、10区で区間20位という形で出てきてしまったのが創価大学なわけで、馴らせば同じこと、ということになるのかもしれないが、出てくる順番が順番なだけに、ドラマは実に残酷で美しいものとなった。

創価大にしても、往路で優勝して余裕あるポジションでスタートできていたから、あれだけ大コケする結果となっても、優勝→2位というレベルでとどまったのだが、仮にこれが復路ではなく往路の1区だったら、シード権争いに絡むことさえ難しかったかもしれない。

そう考えると、駅伝という競技スポーツがより奥深いものに見えてくる。

そして、各チームの力が拮抗すればするほど、余計な飾りなど入れずに純粋に実況中継を楽しむ、という文化が根付いてくるような気がして、それはそれで、そうあってほしいなぁ、と思う方向に近づいている話だけに、今年はその第一歩として、これで良かったのではないかな、と思った次第である。

*1:走ったのは靴ではなく、人間だ。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*2:それでも「こんな時に応援なんてけしからん」という不満がSNS上にあふれる程度にはカメラに映っていた観客はいたのだが、「密な状況を作らない」というのが応援自粛要請の趣旨であることを考えれば、今年のレベルの人出であれば何ら問題はなかったわけで、傍観者がいちいち目くじらを立てるようなことではなかったような気がする。

*3:区間賞を奪ったのは法政大学の鎌田航生選手だったが、2位とは5秒差、上位10チームまでが30秒以内にひしめく展開だったから、どのチームがトップでも大勢には影響なかったと言える。

*4:往路終了後、原監督が3区に神林主将を起用できなかった、という舞台裏を明かしてくれて納得、というところはあったが、選手の力以上にメンタルのダメージが大きく出てしまった、というのが今年の青学大の往路だったのではないかと思う。

「ジョブ型」は魔法の杖ではない、ということを改めて。

ここに来てまさかの「緊急事態宣言再び」のような状況になっていて、年も変わり、せっかく、さぁ新しい気持ちで仕切り直してこれから!と思っていた方々の中には、げんなりしている方も多いのではなかろうか。

だから言わんこっちゃない・・・などとまでいうつもりはないのだが、昨年終盤の官邸の動きの悪さを見ていると、これもさもありなん、という感じで、年末の間に「大人数宴会の禁止」とか「帰省自粛」をもう少し強いトーンで呼びかけておけば良かったものを、いろんなところに忖度して煮え切らないスタンスのままここまで引っ張ってきてしまったものだから、とうとう「緊急事態宣言」という話になり、一律の夜間外出自粛要請→外出そのものの自粛要請という流れの中で、どう見たって感染拡大とは直接関係ない個人客向けの飲食店とか小売店までが再び犠牲になりそうな気配である。

で、新型コロナそのものの話は、また日を改めて書くとして、休み明け以降、お行儀のよい会社では再び強化されそうなのが「テレワーク」

そしてそれに伴って再び乱れ飛びそうなのが、「ジョブ型雇用」というマジックワードである。

「テレワーク」と「ジョブ型雇用」を結び付けることがチャンチャラおかしい、ということは以前ここでも書いたとおりなのだが*1、誤解をまき散らしている最大の元凶、日経紙の紙面での公式な訂正はまだ見ていないので、新型コロナの話題が沸騰すればするほど、また筆が滑って書いてしまう記者が出てきても不思議ではない。

新年の紙面では、さすがにコロナと切り離してこの話を論じよう、という”良識”が多少は働いたのか、また違う切り口で「ジョブ型」が取り上げられていて、何と今度は「仕事のやりがい」とセットで「ジョブ型」をもてはやす、というまた何ともシュールな書きぶりになっているのだが*2、これまた非常に違和感がある。

そもそも、この特集記事の最後に書かれている「ジョブ型雇用」の説明が、

「日本では勤続年数に応じて昇給する「年功型」が多数派だが、成果に基づき評価されるジョブ型では年功概念は否定される。同期入社でも給与格差が拡大する可能性が高い。ジョブ型が一般的な欧米では企業内で特定のジョブがなくなれば、雇用もなくなるケースが多い。成果と評価の結びつきを維持しつつ雇用を保障する「日本版ジョブ型」の在り方が模索されている。」(日本経済新聞2021年1月1日付朝刊・第13面、強調筆者)

となっている時点で専門家の視点から見れば完全にアウトなわけで、昨年、同じ新聞の「経済教室」面で本田由紀教授が、

「要点を復習すると、ジョブ型雇用は(1)成果主義ではなく(2)個々の社員の職務能力評価はせず(3)解雇がしやすくなるわけではなく(4)賃金が明確に下がるわけではない――ということだ。この点に関しては、紙面でも「労働時間ではなく成果で評価する。職務遂行能力が足りないと判断されれば欧米では解雇もあり得る」などと間違った説明がされており、反省を求めたい。」(日本経済新聞2020年12月7日付朝刊・第11面、強調筆者)

とわざわざ書かれているのに、それを読んでいないのか、はたまた意図的に無視しているのか・・・

ということで、雇用制度を真面目に議論しようと考える者にとっては、実に頭の痛い状況がまた訪れそうなのではあるが、昨年末に公刊されたジュリストの特集では、そんな状況を憂いた専門家たちが、実に鮮やかに問題点を指摘し、論点をクリアにしてくださっている。

ジュリスト 2021年 01 月号 [雑誌]

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  • 発売日: 2020/12/25
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「新たな働き方と法の役割」という特集の、「雇用システムの変化と法政策の課題」というテーマの座談会*3

ここでは、主に労働経済学者の鶴光太郎教授と濱口桂一郎労働政策研究・研修機構研究所長の間で、「ジョブ型雇用」をめぐる様々な誤解を解きほぐす試みが行われているのだが、特に「ジョブ型」「メンバーシップ型」の名付け親、とされる濱口氏の発言には、爽快感を抱くほどの強烈さがある。

「コロナ危機でのテレワークということで、ジョブ型という言葉が氾濫しています。しかしほとんど一知半解で、ジョブ型という言葉を振り回しているだけ。いや一知半解どころか、どうもイロハのイも分かっていないような議論が横行しているように思います。」
「ジョブ型とかメンバーシップ型というのは、現実に存在する雇用システムを分類するための価値中立的な学術的概念ですが、マスコミでこういう議論が流行るのは、ジョブ型を、何か新商品の売り込みネタとでも心得ているからではないか。」
(以上、濱口発言17頁、強調筆者、以下同じ。)

濱口氏に比べれば、多少言い方がマイルドなれど、続く鶴教授の言葉も、厳しさという点では変わらない。

(これまでの日本企業では)「評価をまともにしていなかった。それから、部下とのコミュニケーションが明確な形で行われなかった。お互いに同じ職場にいたから何か安心だ。机の前で部下が一生懸命パソコンに向かってやっていたら、あいつはやっているなと。それは、長時間労働をしていたらこいつは頑張っているということと、ほとんど変わらない世界があったわけです。いい加減なコミュニケーション、いい加減な評価をやっていたところが、コロナ危機で、もう俺たちはどうしたらいいのだろうとみんな卒倒してしまったわけです。しかし、本質が見えていないということで、いくらジョブ型にすがったとしても解決できる話ではないということは、先ほど濱口さんがひとつひとつご説明していただいたところに全部表れているような感じがするのです。」(鶴発言24頁)

「メンバーシップ型」と言われる今の伝統的日本企業のやり方のどこが問題で、本来想定されている「ジョブ型」とはどういう違いがあって、いきなり「ジョブ型」にしようとするとどういう問題が起きるのか、ということは、この座談会の中で非常に分かりやすく説明されているので、自分がここで中途半端にまとめるよりも、このジュリストを入手して読んでいただくことをお薦めしたいと思っているが*4、もし、この機に乗じて「ジョブ型」施策を打ってHR部門の存在感をアピールしたい、とか思っている輩がいるのだとしたら、

「結局、今流行の『ジョブ型』論は、ジョブ型とはそもそもいかなるものであるかという認識の大部分が欠落し、メンバーシップ型の『常識』の大部分を無意識に前提としたまま、ジョブ型のごく一部の特徴、ごく一部のジョブ型の特徴、場合によっては何らジョブ型とは関係ないものを適当につまみ食いして、もっともらしくでっち上げたインチキ商品を、新商品だと言って売り込んでいるようなものではないか。本気で『ジョブ型』にするつもりであれば、今までのメンバーシップ型で享受していた人事労務管理の『自由』を一体どこまで捨てる覚悟があるのかを問い直すべきだろうと思います。」(濱口発言28頁)

という言葉をしっかり噛みしめてから、その先に進んでいただきたいと思っている。

巷で良くささやかれる

「人事屋が掲げる『人事制度改革』は、大抵の場合、人事屋だけに都合の良い『改悪』である。」

という言葉は、体質の古い日本企業の多くで当てはまることだと思われるし、

「人事制度を本当に改革したいなら、まず初めに人事部門を解体せよ!」

というのは、自分が尊敬するある経営者が長年唱え、最後に行きついた場所で実践したことでもある。

そして、自分の部門の運用を「ジョブ型でやります」と言われてしまった部門長の取るべき対応としては、(たとえ目下の足元の人員がどんなに寂しい状況だったとしても)あらゆる採用権限と異動権限を人事部門から奪回し、人事査定に関しても自分たちの賞与査定や昇進判断の絶対性を認めさせることで(要は、安易に賃金原資や「ポストの数」云々を理由に、根拠不明瞭な「相対評価」をさせない、ということに尽きる)、それができないまま「ジョブ型」という大義名分だけ受け入れるようなことになれば、その部門は「優先的なリストラ部署」に陥りかねない、ということも、肝に銘じておく必要があると思っている。

なお、前記座談会の中で、濱口氏が、

産業革命以来の近代社会における企業組織の基本構造はジョブ型です。日本も民法や基本的な労働法制は、全部ジョブ型でできています。」(濱口発言17頁)

ということにも、我々はもっと耳を傾ける必要がある気がする。

濱口氏は、続けて「現実の日本社会はそうなっていない。」とも述べられているのだが*5、自分の知る限り、「典型的なメンバーシップ型」が適用されているのは日系大企業のいわゆる「総合職」社員だけで、そういう人々が総労働人口の中で占める割合は、決して大きなものではない。

こと「現場」の労働者に関して言えば、入社した直後からかなりの確率でリジッドな「ジョブ」が割り当てられ、それを10年、20年と続けていく、というケースが稀ではないし、人材リソースをもっぱら経験者採用で回している新興企業や、異動させようにもさせる先がない中小規模の会社でも、事実上「ジョブ」は固定化されていることがほとんどである。

要は、「日本の雇用社会はメンバーシップ型で成り立っています」といくら言ったところで、それは、これまで社会の”上澄み”とみられていたごく限られた人々の中でしか通用しない理屈に過ぎないのであり、ましてや、これまで盤石だった会社が、何かの拍子に坂道を転げ落ちて退場を迫られる、ということもまま起きるようになった現代では、”上澄み”でも何でもない単に”古い”会社にいるがゆえに共同体幻想の下で「メンバーシップ型」を強いられる、ということにもなりかねないわけで、遅かれ早かれそのようなやり方は立ち行かなくなるだろうな、ということも容易に想像が付くところである。

自分自身は、表にはっきりとは出さずとも、節目節目の駆け引きでは「キャリア権」を行使しながら自分の職務経歴を作ってきたようなところがあるから「ジョブ型」志向の考え方は当然理解はするのだが、一方で、典型的「メンバーシップ型」の波の中で偶然接したことが、会社を離れた後の仕事の中でも強烈なアドバンテージとして生きていたりもするから、一律に「ジョブ型」の枠の中で仕事をすることが絶対的に自分のためになる、とは言いにくい*6

ただ、いつ転落するか分からない会社に自分の人生を預けることのリスクや、「メンバーシップ」の名の元にポストの都合で何も考えずに繰り返される人事異動の悪弊をなくす、という観点からは、どんな会社、どんなバックグラウンドの人間でも、20代後半から30代後半くらいまでは明確に割り当てられたジョブに従って経験を積ませる方が良いに決まっているので、あとはその世代に差し掛かるまでの期間をちょっとフレキシブルにして*7、さらに30代後半くらいからは職位を上げる代わりにジョブ定義をアバウトにする*8という形で、今の「日本的メンバーシップ型」に近い形に寄せていくのが良いのだろうな、という気がしている。

いずれにしても、会社によっては、上も下も発想のコペルニクス的大転換を強いられるのは間違いない話なわけで、「テレワークで評価ができないから・・・」なんて次元の低い動機で安易に呟くようなことではないぞ、と思うところだが、嘘か真か「管理職からジョブ型導入」のような話をメディアの記事で見かけるとまた頭がクラクラと・・・。

これが一過性のブームで終わるのか、それとも経済界が本気で取り組む方向で動いていくのかは分からないが、ことこのテーマに関して言えば、「ビジネス系メディア」の記事も「人事専門家」のご託宣も全くあてにならないだけに、自分で調べて考えて、自分の所属する組織がやろうとしていることが理にかなっているかどうかを見定める、その心構えに尽きるのではないかな、と思う次第である。

*1:それでも「テレワーク」は確実に定着していく。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~脚注2あたりをご参照ください。

*2:日本経済新聞2021年1月1日付朝刊・第13面。

*3:森戸英幸[司会]=濱口桂一郎=田中恭代=鶴光太郎「[座談会]雇用システムの変化と法政策の課題-「ジョブ型雇用社会」の到来?」ジュリスト1553号16頁(2021年)

*4:というか、曲がりなりにも「人事労務」とか「HR」の担当者です、と名乗るのであれば、今号の特集記事を読まずして何を語れるのか!ということはここで強く申し上げたい。ジュリストを定期購読している法務部門の担当者からまだ情報が共有されていないのであれば、直ちに自腹切って買え!の一言に尽きる。

*5:濱口氏は、その現実を前提に判例法理や、労働契約法などの一部実定法が「メンバーシップ型」を支えるものとして構築された、という指摘もされている。

*6:もし、世の中の雇用形態が全て「ジョブ型」となった場合、一定の水準以上のポテンシャルと意欲を持っている人が一つの会社の中だけでずっと仕事をやり続けるのはかなり難しいことになるのではないかと思っていて(そもそも人間が同じことを続けてできるのはせいぜい10年が限界だろう、と思っていて、そこから先は意識的に仕事を変えるか職場を変えるかしないと、多くの人は精神的に持たないはず)、当然ながら複数の会社を渡り歩くことにならざるを得なくなると思われるが、「動く」ことに伴うリスクは当然あるわけだから、それが本当に当事者にとって幸福なことなのかどうかは分からんなぁ・・・とい思うところである。

*7:この先大学教育がどんなに進化を遂げたとしても、机上の学問の世界と現実とのギャップを最初の就職の時点から埋められる、と考えるのは現実的ではないし、大学をそこまで「実務」寄りにしたのでは研究機関としての存在意義も損なわれてしまう。かといって、ノースキルの生徒、学生を一定のボリュームで採用する、という制度を残しておかないと、欧米のような若年高失業率社会になってしまうことは避けられない、ということで、現実的な解としては、「フレキシブルな20代の時間」は残す方向に行く方が賢明だろう、と。

*8:これはジョブ型の典型とされる欧米企業でも多かれ少なかれ同じようなことはやっているはずである。

年始に目標を立てない勇気。

あまりにゴロの良い年が366日間も続いていたがゆえに、まだついつい無意識のうちに「2020」と打ちたくなってしまうのだが、カレンダーをめくると何とも、2021年が始まってしまった。

で、一年の最初の日、元旦ということで、関係各所のブログを拝見しても、Facebookを見ても、はたまたTwitter上ですら、高らかに目標を掲げておられる方が多くて、ただただ敬服するほかないのだが・・・。


今思えば、自分も20代、30代の頃は、毎年大晦日にテンション高く夜更かしし、そのまま酔いを残したままテンション高く元旦の朝を迎え、「一年の計は・・・」とばかりに、「今年の目標」なるものを(外には出さずとも)胸に刻んだものだった。

このブログを始めた頃もまだその名残はあって、開設1年目、初めて新年を迎えた時のエントリーなんて赤面するほかないし*1、その後も毎年、新年最初のエントリーでは何となくそれっぽいことを書いていた気がする*2

正直言えば、あの頃は、常に「先が見えない不安」があった。

ある時までは、「今いる場所ではないどこかへ行きたい」という理由なき衝動に駆られていたし、その後、間近な分かりやすいターゲットを見つけた後も、それに挑む日々は、「それを手に入れることが本当に意味のあることなのか?」という内なる疑問との戦いの日々だったりもした*3

ターゲットをクリアして実務に戻った後も、「自分はいつまで、ここでこの仕事をやり続けるのだろう」という疑問符は常につきまとっていた。

当時漠然と考えていたのは、「会社の庇護の下で生きるのは40まで。その後は自分の腕一本でやっていく。」ということだったのだが、実際には、一年一年とその時が近付くたびに、様々なしがらみが増え、弱気の虫が頭をもたげる。

年に一度、年が明けた時だけは自分を奮い立たせる意味も込めて何となく格好つけたことを書いてみたりするものの、結局は決断の先延ばしを繰り返した結果、目標は未達。その後もしばらくはズルズルと時が流れた。

そんなことを繰り返す中で思ったこと。

「いくら『目標』を立てたところで、大きな波には抗えないし、世の中である程度生きてきた人間が全てのしがらみから逃れることはできない。そもそも、自分自身で動かせるもの、コントロールできることなんて、ごくごく限られたものでしかない。だったら、遠くを見てああだこうだ嘆くより、目の前の一投一打に集中する方が大事。」

幸いなことにいろんな偶然が重なって、結果的に今自分のいる場所、今自分がやっていることは、10年、20年くらい前の自分が描いていた姿に限りなく近い。

これをもって、「『目標』を捨てたから道が開けた。だからお前らも目標なんて掲げてないで目の前のことに集中しろ!」などと説教を垂れ始めると実に面倒な人間になってしまうので、そんなことを申し上げるつもりは毛頭ないのだが、先々のことをあまり考えずに、目の前に転がってきたチャンス(かどうかも分からなかったようなもの)に一つ一つ愚直に突っ込んでいったことが今につながっているのは確かだし、一種の絶望が達観に昇華したかのような数年前の元旦の開き直り*4のあたりから、今につながるいろんなものが動き出したのも事実だったりする。

毎年クリアな目標を宣言して、それを達成しようと努力する人、それを達成できる人が、皮肉なしに立派である、ということは否定しないけど、もし、そんな洗練された人々を見て、新年の最初から何やってんだ自分は・・・とか思い悩んでしまっている方がいるのだとしたら、

「元旦なんて一年365日の中のたった一日に過ぎない。」

という言葉と、

「目標を立てることにエネルギーを使うくらいなら、目の前のことにそれを向けよう」

という言葉をプレゼントしたいと思っている。

ついでに言えば、人生の運なんて、大抵予測もしていなかったところから開けるもの*5

目の前に来たボールが狙い球でなくても、反射的にバットに当てて転がった先に誰もいなければそれは立派なヒットになるし、柵を超えたら文句なしにホームラン。

殊勲打を打つ前にわざわざ「予告」する必要などないのである。

*1:謹賀新年 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*2:たぶん読み返すのも憚られるような中身なので、今日の時点では読んでませんスミマセン・・・。

*3:夏から年末までは試験関係の諸々は一切封印。年始休暇が終わる日くらいに勉強を再開してそのまま半年突っ走る、というのが当時の自分のルーティンだったりもしたので、年始のエントリーに書いていることは大概自分に向けた喝入れだったのだが、それでも書きながら半信半疑になっていることが多かったような気がする。

*4:明けてしまった年を恨んでも仕方ないから。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*5:今振り返ると、「節目」と言えるような年がいくつかあるが、そこで得られた結果は、いずれもその年の年初の時点では全く予測していなかったことだったり、全く想像していなかった過程を経てそうなったものだったりする。

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2020年12月&通年のまとめ

最後の方だけ、とはいえ、いつになく洗練された印象の紅白歌合戦を見て、気持ちよく年を越した2020年最後の日。
既に日付は変わっているが、2020年最後にやり残していた恒例のまとめといきたい。

今月のページビューは18,000強、セッション12,000強、ユーザー6,000強。

今年後半に共通する傾向なのだが、どうしても記事を書くことができた日が少なくなってしまい、伸び悩んだところはある。
通年でも27万弱で、前年の記録には微妙に届かない数字。

今の状況を考えるとやむを得ないところはあるのだが、2021年はもう少し、ハイブリッドな形で情報発信を強化していければな、と思っている。

<ユーザー別市区町村(12月)>
1.→ 横浜市 856
2.→ 大阪市 586
3.→ 港区 493
4.→ 千代田区 442
5.→ 新宿区 433
6.↑ 世田谷区 254
7.↓ 名古屋市 210
8.↑ 渋谷区 167
9.↑ 中央区 153
10.圏外さいたま市 134

新型コロナの波が押し寄せて以来、ずいぶんと様変わりしたのがこのランキングだが、12月に関しては、港区、千代田区、新宿区といったオフィス街からのアクセスが先月比で結構増えていたりして、それが今日の「1,000人超え」の背景にあるのではないか、と何となく思ってみたり。

それでも通年にすると、以下のとおり、「変化」は歴然である。

<ユーザー市区町村(通年)>
1.↑ 横浜市 9828
2.↓ 大阪市 7332
3.→ 港区 6159
4.→ 千代田区 5601
5.↓ 新宿区 5,579
6.↑ 世田谷区 3,080
7.→ 名古屋市 2,763
8.→ 渋谷区 2,246
9.圏外江東区 1,920
10.↓ 中央区 1,756

2021年のアクセス元が2019年以前の傾向に戻るのか、それとも2020年モードが定着するのか、というところを見ておけば、世の中の動きも大体見えてくるのではないかと思っている。

続いて、検索アナリティクス。

<検索アナリティクス(12月分) 合計クリック数 1,700回>
1.→ 企業法務戦士 142
2.→ 企業法務戦士の雑感 36
3.圏外倉橋雄作 31
4.圏外ビジネスロージャーナル 休刊 30
5.↑ 試験直前 勉強しない 23
6.↑ 高野義雄 wiki 17
7.圏外東京スタイル 高野 14
8.圏外日経 弁護士ランキング 13
9.圏外企業法務 戦士 13
10.↓ onenda 12

やはり今月はBusiness Law Journalの休刊が一大ニュースだったわけで、情報を求める方々からのアクセスが多かったのだろう*1

また、「3位」に飛び込んできた倉橋弁護士のお名前での検索は、「8位」に上がっている「弁護士ランキング」との関連で増加したものと思われる。ランキングでも3位、このブログの検索ランキングでも同順位。改めておめでとうございました・・・。

そして通年。

<検索アナリティクス(通年)合計クリック数 2.43万回>
1.→ 企業法務戦士 2,529
2.→ 企業法務戦士の雑感 606
3.↑ 東京スタイル 高野 281
4.↑ 企業法務 ブログ 280
5.↓ 矢井田瞳 椎名林檎 239
6.↑ 取扱説明書 著作権 202
7.↓ 企業法務 169
8.圏外法務 ブログ 168
9.圏外金野正志 113
10.→ 説明書 著作権 113

月ごとのトピックがあっても、通年で馴らすと毎年同じような順番になる、というところが、不思議なところだな、と思う。

続いてツイートアクティビティの解析。

今月は、以下の記事がインプレッション18,138で頭一つ抜けてトップだった。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

2020年12月末時点のTwitterフォロワー数は3,276。

昨年末時点で2,500ちょっとだったことを考えると1年で770以上増えた、ということで、順調に伸びてきているところでもあるが、ここでのFavorite&RTが、自分にとっては「はてなスター」と並んで何よりの指標だったりもするので、今後もそういったツールをご活用いただきながら、ご愛読いただけるとありがたい限り。

そして、こちらもそれに応えるべく、一つでも多くのお役に立てるエントリーを世に送り出す。

2021年も、そんな好循環で日々回していけるようにすることを心に誓いつつ、2020年最後のエントリーを締めることにしたい。

*1:検索数が増えていた時は、まだこのブログでは何も書いていなかったのだが・・・。

過ぎ行く年に感謝の思いを込めて。

2020年、という年がまもなく終わろうとしている。

世の中で起きた出来事だけ並べれば、世界では米国の政権交代を筆頭に、香港の一国二制度の(事実上の)廃止だったり、タイの王政反対デモだったり、(後忘れてたけどBrexitの離脱条件合意、も入れてよいかも・・・)、と歴史の転換点になりそうな出来事は多かったし、日本国内でも、ついこの前まで大臣だった現職国会議員が逮捕されたり、検事総長候補が賭けマージャンで飛んだり、最後は長期政権を担っていた総理が8年ぶりに交代したり・・・、と普通ならそれだけで一晩語れそうなニュースはあふれている。

純粋な法律関係のテーマに絞っても、1月の「被告人大逃亡」劇だけでお腹いっぱいになるようなところで、改正民法は施行され、それなりにインパクトのある個人情報保護法著作権法の改正も成立し、秋には非正規格差をめぐる最高裁判決が出され、そして一年を通じて世界中の競争当局、個人情報保護当局が暴れまくる、というエキサイティングな一年だったわけで、それを振り返るだけでも、いつもの年よりは十分盛り上がる話ができそうな気がする。

だが。。。

やっぱり、全てを振り返った時に

新型コロナウイルスに翻弄された一年」

という総括をされてしまうのが、この2020年、という年なのだろうし、それと平行して起きていた様々な出来事の存在感もすべてそのインパクトの前にかすんでしまうのだろうな・・・というのが、ちょっと寂しい気はして*1

純粋に個人的なことだけ言えば、仕事上もプライベートでも、自分自身が「新型コロナ」の影響を受けることはほとんどなかった。

もちろん、緊急事態宣言が出ていた頃は、気分転換と頭の整理にフル活用していた近場のカフェに行けなくなってげんなり、というようなことはあったし*2、春頃に予定していた複数の講演が延期になったり、というような話もあった*3

でも挙げてみればそれくらい*4

振り返ってみれば、自分のワークスタイル自体、元々「コロナ仕様」だったのかもしれない。

常駐のスタッフを置くわけでもなく、気の向くまま自分の場所で仕事をする。

依頼のほとんどはメールベース、もちろん細かい話は電話でやり取りすることもあるし、時には出向いて対面でやり取りすることもあるが、機会としてはそう多いわけではない*5

もろもろの効率性を突き詰めていけば当然そういうやり方に行きつくわけで、それを「ニューノーマル」というかどうかはともかく、それによってコミュニケーションが取れなくなる、とかパフォーマンスが落ちる、なんてことは微塵も感じたことはない。

そして、春頃にちらりと書いたことでもあるが、

会社を飛び出した時のドラスティックな変化に比べれば、「コロナ」がもたらした変化など、ないに等しい。

というのが率直な思いだったりもする。

当然ながら、去年の春、1年後に何が起きるかを予測していたわけでは全くないのだが、結果的に一足先の「予行演習」で仕事の「型」を構築できていたことは、ビジネスという観点からは非常に大きかったし*6、何より心理的に動揺せずに済んだ、という意味で大きかった。

さらに言えば、「コロナ」以前に所属する会社その他の組織の方針に振り回された、という声もあちこちで聞く中で、客観的な情報と信頼できる有識者の意見とこれまでの危機対応の経験と、最後は自分の直感、それだけで自分の日々の行動を自由に選択できた、ということも、この”普通でない状況”を乗り切るには非常に良い環境だったのではないかな、と思うわけで、こと今年の状況下においては、全てが良い方に作用した、といえるのかもしれない。

*1:もちろん、株主総会の開催をめぐるあれこれ等、「新型コロナ」が法制度の在り方自体を動かす契機となった分野もあるので、そういうものに関しては、数十年後になっても「あの時、COVID-19ってやつが流行ってね・・・」という前説は常にくっついて回ることになるのだろうが。

*2:当時のエントリーにやたらカフェの話が出てくるのは、そのためである。そこにあるのは、「本当に必要なことをピンポイントで訴えかけられない切なさ」かもしれない。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~など参照。

*3:だが、結局、各所のご配慮によってそれらは夏以降全て実現したため、それによって何らかのダメージを受ける、ということもなかった。

*4:カフェに関しては、どちらかと言えば4月の健康増進法改正の影響の方が大きくて、それによって「第1波」後に、通う店やライフスタイルが変化したところもあった。

*5:不思議なことに、コロナ以前から対面でやり取りしていたクライアントとの関係では、コロナが始まってからもほとんどそのスタイルは変わらなかった。Web会議も多用はしたが、どちらかといえばそれは「電話」から置き換わったものが多かったな、というのが率直な感想である。

*6:春先の第一波の時は、裁判所が止まって仕事が・・・という叫びもあちこちで耳にしたが、自分の場合、メールベースでシンプルに相談できる気安さか、あるいは異常時対応の経験を前々から話題にしていたこともあってか、仕事のボリュームは明らかに増えた。

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これは東証からの「クリスマスプレゼント」なのか?~理想と現実の間を彷徨う「市場区分見直し」

多くの会社では年末休みに入ったと思われる29日、今年の荒れた相場を象徴するように、日経平均は700円を超える上げを見せ、遂に27,000円の壁を超え30年4カ月ぶり、という歴史の扉を開いた。

先月末の勢い*1を考えると時間の問題だったとはいえ、年内は「防衛線」になると思っていた27,000円の壁が一気にぶち抜かれてしまったことのインパクトは大きいし、多くの相場観のある識者たちが警戒するように、これはどう見ても来年が不安になるパターン。

あと一日、今年のうちに売り抜けられるほどの度胸も自分にはないものだから、年始から暗澹たる思いにならないように、せめて明日はちょっと調整を入れて取引を終えてくれ・・・というのが、ささやかな願いである。

で、2年続けて年末に大々的に発表され、来年一年は多くの会社で話題がこれ一色、になっても不思議ではないのが東証の市場区分見直し、である。

今年は12月25日、クリスマスの日に、「市場区分の見直しに向けた上場制度の整備について(第二次制度改正事項)」として公表された。
https://www.jpx.co.jp/rules-participants/public-comment/detail/d1/nlsgeu0000055nqm-att/nlsgeu0000055nsx.pdf

「見直し」実行まであと1年ちょっとになっている、ということもあり、昨年末に公表された市場改革案*2と比べるとより具体性は増しているが、一方でこれまで何だかなぁ・・・と思われた部分については全く解消されてはいない。

まず、新しい市場区分について。

「スタンダード」とか「プライム」といった名称自体はどうでも良いのだが、問題はその定義である。

<スタンダード市場>
公開された市場における投資対象として一定の時価総額流動性)を持ち、上場企業としての基本的なガバナンス水準を備えつつ、持続的な成長と中長期的な企業価値の向上にコミットする企業向けの上場制度を設けることとし、当該制度に基づき上場する株式等(預託証券等を含みます。以下同じ。)に係る市場区分を「スタンダード市場」と称することとします。
<プライム市場>
多くの機関投資家の投資対象となりうる規模時価総額流動性)を持ち、より高いガバナンス水準を備え投資家との建設的な対話を中心に据えて持続的な成長と中長期的な企業価値の向上にコミットする企業向けの上場制度を設けることとし、当該制度に基づき上場する株式等に係る市場区分を「プライム市場」と称することとします。
<グロース市場>
・高い成長可能性を実現するための事業計画及びその進捗の適時・適切な開示が行われ一定の市場評価が得られる一方、事業実績の観点から相対的にリスクが高い企業向けの上場制度を設けることとし、当該制度に基づき上場する株式等に係る市場を「グロース市場」と称することとします。
(1~2頁、下線は筆者)

「スタンダード」と「プライム」の違いは、「多くの機関投資家が投資対象とするか?」という銘柄としての魅力と、「より高いガバナンス水準」、「投資家との建設的な対話を中心に据えて」といった会社のスタンス、ということになるのだろうが、前者に関しては、後に出てくる基準等を見ても「時価総額」の話に尽きるように思われるし*3、後者に至っては本来「高低」というレベルで語るのは適切でない「ガバナンス」を相変わらず評価の基準にしている、という点で全く説得力が感じられない*4

また、「グロース」に関しては、今のマザーズを意識したした書きぶりになっているのは見れば分かるのだが、ここで書かれている「高い成長可能性」と、プライム、スタンダードに書かれている「持続的な成長と中長期的な企業価値の向上」は矛盾する概念ではないし*5、ここに「ガバナンス」というフレーズが全く出てこないのも気になるところである*6

”魅力ある市場”たるために、世界的に重視されている複数の指標(これらは決して正の相関関係にあるとは限らない)を掲げつつ、既存の上場企業の面子(特に歴史のある伝統的日本企業)にも配慮しなければいけない、という市場運営者の悩ましさは理解できるとはいえ、このようなコンセプトで市場を「再編」した、と言ったところで、世界に向けてインパクトを与えられるとは到底思えない

これなら、かつてBusiness Law Journal 誌で企業の中の人が語っていた「『グローバル市場』と『ドメスティック市場』」という分け方の方がよほどしっくりくるし*7、もっといえば、「真に世界にアピールできる魅力的な市場」というものを作りたかったのであれば、東証第1部の再編」ではなく、「世界で通用する水準の会社だけを集めた新市場を創設」すればよかったのではないか、というのが率直な思いである*8

中途半端な「再編」でお茶を濁そうとすると、元々の会社の規模だけで生き残っているような会社が「プライム」に残り、創業から日は浅いが必死に日々成長を目指している会社が「スタンダード」に”落ちる”というような現象もどうしても出てきてしまう*9

それが本当に良いことなのかどうか・・・。

今回の公表資料では、来年9月から始まる「新市場区分の選択手続」についても詳細が書かれており、

「・上場会社は、2021年9月1日から12月30日までの期間(以下、「選択期間」といいます)において、移行日に所属する市場区分として、スタンダード市場、プライム市場又はグロース市場のいずれかの市場区分を選択し、その旨を当取引所に申請することとします。」(13頁、強調筆者、以下同じ。)

と書かれたくだりの備考欄で、「市場第一部」の会社が、「選択先の市場区分の上場審査基準に適合するかどうかを確認するための審査」を受けるのは、「グロース市場」を選択した場合のみであること*10、そして、

「移行日の前日における上場会社のうち、以下の区分に該当する会社には、当分の間、緩和した上場維持基準を適用することとします。」(14頁)

とした上で、備考欄には、

「プライム市場においては、現行の市場第一部からの市場第二部への指定替え基準と同水準の基準を適用することとします。」(14頁)

と、まるでサンタクロースからのプレゼントのような素敵なフレーズが書かれている*11

これも、先に述べたような”理不尽な降格”への不満を少しでも緩和するために、ということなのだろうが、今示されている基準だけなら易々と超えてしまう会社の中にも、「プライム」にふさわしくない”内向き体質”の会社は多々あるわけで、「下位うん百社」にだけ宿題を課し続けて”市場の質”を担保している、というポーズを示すのはちょっとなぁ・・・と思わずにはいられなかった*12

まぁ、ここで何だかんだいったところで、時期が来ればどの会社も粛々と「市場選択」の手続きを進めていくことになるのだろうし、蓋を開けてみれば、名前が変わっただけで実質はほとんど変わらない市場が出来上がる(でも、市場関係者は高らかに「新しい市場」を賛美する)、という光景も目に見えるのだが、この議論が始まった時に皆が抱いていた”初心”だけは忘れられて欲しくないなぁ、と思った次第である。

*1:掘り返されていく「歴史」の中の記憶。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。この時も上げ幅は700円だったか・・・。

*2:k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

*3:そして、その高低を決するのは、流動性以前に純粋な「会社の規模」の大小によるところが大きかったりもする。

*4:この後に出てくるとされている改訂CGコードの全容がどうなるか、という関心はもちろんあるのだが、「CGコードをコンプライするのが良い会社で、していないのが悪い会社」という評価の道具として使うのは本来の制度の趣旨とは全く異なるわけで、そのような方向性には依然として全く賛同することはできない。

*5:「中長期的な企業価値の向上」を目指さないような会社は、そもそも上場させるに値しないだろう。

*6:個人的な考えとしては、成長過程の企業であれ、成熟した企業であれ、上場企業として株主への責任を果たすためには一定のガバナンス体制が確保されていることが不可欠だし、逆に言えば、その”ミニマム”な体制さえ備えていれば上場企業としての要件は満たす、というべきであって、市場運営者や良く分からん外野の人々が、それ以上会社の体制にああだこうだと口出しするような愚は避けるべきだと思っている。

*7:実務家の勇気あるコメント - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~ なお改めてこのエントリーを見返したが、引用した実務者の声は今でもそんなに変わらない非常に貴重なものであり、建前論であふれがちな法律雑誌において、こういった企画を打てたのもBLJならではだろうと思う。改めて失ったものの大きさを感じさせられる。

*8:今の「225」の会社の中にも、単に「業種代表」というだけで選ばれているドメスティックな会社は多々あるので、そういった会社を除外し、規模は小さいが業績良好で全世界で収益を上げていてボードの構成も先進的、といった会社をピックアップして100社くらいの塊を作れば、「プライム」の看板もしっくり来たような気がする。

*9:東証1部上場」企業の質が劣化しているので整理が必要、という論調もよく目にするが、この点に関しては、ラジオNIKKEIのコメンテーターが連日批判しているように「そもそも(上場を認めた)東証が悪い」という話だし、意図的に不正会計を行ったような会社には、中途半端な猶予を与えずに即刻「2部落ち」させるような運用にすればよいだけの話である。それを、何ら落ち度のない会社まで含め、「下位うん百社」を切り落とすための策として今回の「再編」を用いるのであれば、これまでの上場審査料や上場維持費用を返せ!という話にもなってくる。

*10:普通に考えれば、今、東証1部に上場している会社がわざわざマザーズ級の「グロース市場」を選択するとはとても思えない。

*11:一応、「移行基準日において、上場維持基準に適合していない上場会社については、新市場区分の選択申請時に「新市場区分の上場維持基準の適合に向けた計画書(以下、「計画書」といいます。)」の提出を行った場合に限り、緩和した上場維持基準を適用することとします(上場会社から提出を受けた計画書は、当取引所が、上場会社が所属する新市場区分の一覧を公表する際に、あわせて公表することとします。)。」(15頁)というルールも合わせて発表されており、この計画書については「計画書に基づく進捗状況を、事業年度の末日から起算して3か月以内に開示」する必要もあるようだが(15頁)、これがどこまで中身のあるものとなるのか、現時点では何ともいえないところである。

*12:それならば、売上でも利益でも時価総額でも良いので、明快な指標で毎年ランク付けをして、プライムの下位500社とスタンダードの上位500社を毎年定期的に入れ替える、というJリーグ方式(?)でも採用したほうがまだ競争原理が働いてよいのでは?と思ったりもするのだが・・・。

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