ナイーブ過ぎた迷走の末に。

前会長の辞任からほぼ1週間、様々な迷走の末、事態はようやくこれにて落ち着くことになった。

東京五輪パラリンピック大会組織委員会は18日、女性を蔑視した発言の責任を取って会長を辞任した森喜朗氏の後任を決める理事会を東京都内で開き、五輪相を務めてきた橋本聖子氏を新会長に選出した。」(日本経済新聞2021年2月19日付朝刊・第1面、強調筆者、以下同じ。)

この一週間の間、表で裏で、あまり見たくない”雲の上の駆け引き”が繰り広げられていたようだが、自分の関心はその辺にはほとんど向いておらず、むしろ”幻”に終わった「川淵会長案」に対する、日経紙の編集委員たちの嘆きと後悔の吐露に共感するところの方が多かった。

「次期会長に推された川淵三郎氏の人事が白紙に戻ったドタバタ騒ぎでは、報道する側の責任も痛感している。自分も反省しなければならない。11日に川淵氏が森氏からの会長就任の要請を受け入れることを明らかにした時、まるで疑問を持たなかった。84歳という年齢を別にすれば適任だと歓迎していた。リーダーシップや組織運営の実績は申し分ない。批判を浴びて辞任した森氏が決めたのはひっかかるが、川淵氏は森氏の「イエスマン」になるタイプではない。取材したこともあるが、質問すればいくらでも説明を続ける人で、今の組織委の閉鎖的な雰囲気を変えてくれるとも思った。」(日本経済新聞2021年2月17日付朝刊・第39面、北川和徳編集委員「スポーツの力」)

「森会長は川淵三郎氏にバトンを渡そうとした。特に違和感を覚えなかったのは同氏の難局を乗り切る力への期待と、試合の真っ最中に後任を悠長に選んでいる時間はないと思ったからだ。要請に応じる覚悟を示す川淵氏に一抹の不安は感じた。「お客さんがいない試合は味付けのない料理と同じ」が同氏の持論。トップに就けば、無観客を最低線に有観客の大会が開ける道筋をとことん追求するだろう。一方、収束の気配がないコロナ禍にオリパラを敬遠するムードは確実に広がっている。中止の決断が国際オリンピック委員会IOC)から下される可能性もある。そうなったらそこから先は退却戦。それがアグレッシブな川淵氏に似合っているように思えなかった。あえて火中の栗を拾おうとする勇気に尊敬の念を抱きつつ。森会長による後継指名という手法は「密室」との批判を浴び、川淵氏が最終的に辞退したのは残念だった。選考過程の透明性を高めるのは重要だが、選ばれる本人の透明度が高いのも大事だと個人的には思う。問題の在りかを常に明示し、それをどう解決していくか。事前にも事後にも率直に自分の言葉で語れる人が、今こそ必要だろう。」(日本経済新聞2021年2月19日付朝刊・第39面、武智幸徳編集委員「アナザービュー」)

ご本人の資質に関しては、手放しで称賛している北川氏、逆説的な表現ながら「それでもなお」という感を醸し出している武智氏。

自分自身も同じように思っていたから、ということもあるのだが*1、スポーツ報道の現場に関わって来られた記者から次々と出たこのコメントこそ、今回の二転三転した選出劇の一番残念だったところを突いているような気がする。

2006年にやってしまったことと同じような”フライング”を、今度は自分自身の出処進退に関してやってしまった、ということで、もしかするとこれは15年越しの”千葉の呪い”だったのかもしれないが、新会長が決まった今となっても、釈然としない思いは残る。

今回の一連の動きを見る中で、自分がもっとも違和感を抱いたのは、選考過程の「透明性」といった手続的不備を指摘する論調だろうか。

今回の件に限らず、この国では過去にも似たようなことが何度かあったような気がするのだが、日本人はこの種の「透明性」や手続の適正を指摘する意見に対してあまりにナイーブ過ぎる、というのが自分の感想である。

そういうことを言うと、「いや、米国を見ろ、欧州を見ろ、これがグローバルスタンダードだ」と言い出す人も出てきそうなのだが、比較的、多くのポストをオープンに、選挙システムも活用して選んでいるように見える米国ですら、大統領官邸のスタッフの「指名」は完全に大統領周辺の裁量の世界なわけで、それは今回の大統領選後の露骨な「Back to the 2016」人事を見れば明らかだろう*2

欧州に至ってはもっとひどい。

以前、欧州に拠点がある国際的な団体のトップの選任プロセスの一端に触れる機会があったのだが、まぁ実に政治的というか何というか。

「手続の透明性」を求める声は当然上がるが、そういう声が出てくるのは決まって「自分が望む者ではない者が選ばれそうな空気になっている時」である。

そして、そうやって横やりを入れて手続きに時間をかけている間に、諸々根回しをして、ふわりと出てきた意中の候補が支持を集め出した頃に、最初「透明性」を叫んでいた人が「インフォーマルな会合」を提案し、逆に形勢を逆転された側が「いやいやオープンに」と押し返す・・・。

それは、「手続の透明性」なる概念も所詮は政治的駆け引きの道具の一つに過ぎず、時には「ダイバーシティ」すら対立勢力に打ち勝つための道具にされてしまう、という実に愉快ではない経験だった。

それと比べると、日本では「手続きの透明性」というと、金科玉条、何が何でも守らないと怒られるルールのように受け止める人が多いし、だからこそ、「どうしても自分の意に沿う方向に話を進めたい」という人は、表に出さずに水面下でことを進めようとして、その結果、それが明るみになると、”天下の大罪人”であるかのようにバッシングを受けることにもなりかねない。でも、本当に大事なのは、資質のある人が適切な力学の下で選ばれるかどうか、ということで、手続きだけは「透明」化されていても、裏の根回しで変な力が働いている、なんてことになれば(そしてそれはよくあることだったりもする)、世の中にはマイナスにしかならない。

ましてや、今回の話は、公選の対象となるようなポストに就く人を選ぶ、という話では全くなく、一種の行政官と大イベントを運営する「会社」の長の性格を併せ持つポストの人選、という話に過ぎないわけで、それにもかかわらず国内のメディアがこぞって「手続き」の議論に飛びついてしまった、という”浅さ”を見るにつけ、天を仰ぎたい気分になる。

*1:遂に「キャプテン」が戻ってきた! - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*2:もちろん、指名された後に議会承認の手続等を経ることで任命手続の正当性を担保している、という点ではきちんとしているのだが、「誰を選ぶか」については閉じられた世界の中で決められているように異国の民には見えてしまう。

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また1日、時計の針は巻き戻されていく。

またこのネタか、と思う方もいらっしゃるのだろうが、もしかしたら歴史の転換点になるかもしれないこの瞬間に、そのことを書かなくてどうする・・・と自分に言い訳している。

そう、日経平均が、週明け早々の2021年2月15日、月曜日、遂に30,000円台を取り戻した。

出来事としては31年6か月ぶり。物心はとっくについていた時代のこととはいえ、自分自身が投資をできるようになったときには、そんな時代は遥か昔。

ITバブルがはじけ、取り戻しかけた頃にリーマンショックに襲われ、さらに東日本大震災が直撃・・・と、長らく低空飛行を続ける株価表示を眺めていた頃は、まさか生きている間に再びこの大台を超える光景を目にすることになるとは、夢にも思わなかった。

そして今日、再び驚かされたのは、株価刺激材料だった決算発表ラッシュが一段落息つき、30000円の心理的な節目を挟んでしばらく拮抗状態が続くのでは・・・?と思われていた矢先の再びの「急騰」である。

一時記録した最高値は30,714円52銭。最後の30分くらいで何とか正気を取り戻した感じはあったものの、それでも終値は前日比383円60銭高の30,467円75銭。

ここ一週間くらいは、一日の値幅が30,000円を挟んで30,221円77銭~29,515円76銭、と比較的大きかった「1990年8月3日」のレンジの中で株価が推移していたのだが*1、とうとうそれも突き抜け、時代は

1990年8月2日

へと1日遡った。

イラクが国境を超えてクウェートに侵攻し、今は亡きサダム・フセインが、世界の寵児となった日。その後の日本の政治社会にも大きなインパクトを与えた「湾岸戦争」始まりの日でもある。

起きていることだけ見れば大きくは変わっていないように思えてしまうかもしれないが、振り返って見比べると、世界の権力の源も各地域のパワーバランスも一つ一つの国の指導者の顔ぶれも、実にこの間、大きな変容を遂げているわけで、だからこそ、それだけの間、ぽっかりと空いていた窓を埋めた、ということの重大さを感じずにはいられない。

そして、今日の高値からさらに650円超上昇すれば、さらにひと月、カレンダーを巻き戻すことになるわけで、それがまた、雷鳥を探して山を歩き回った、とか、その時の写真をネタにして・・・とかいう青春の記憶の一ページを蘇らせてくれるのかと思うと、もういてもたってもいられなくなる。

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週末の既視感。

元々、オンとオフのメリハリをきっちり付ける方ではないのだが、特に今年に入ってから「平日」に捌けなかったあれこれが週末に流れ込み、でも、そいつらがハードワークの谷間の倦怠感まで一緒に連れてきて、ダラダラと効率悪く仕事しながら再び次の週へ・・・というパターンになってしまうことが多い。

この週末も例外なくそんな憂き目にあい、そうでなくてもどんより・・・という感じだったことに加えて、ぬか喜びに終わった「川淵会長」の”後任”は未だ決まらず*1、土曜の夜には10年前の記憶を呼び起こすような恐怖の横揺れを味合わされ、気を取り直しての日曜日には、そうでなくても周回遅れになっている新型コロナワクチンの一番手がよりによってファイザー製となることが確定、というシュールなニュースまで流れてきて、ますますげんなりさせられることになってしまった。

特に、深夜に起きた、東北を震源地とするマグニチュード7.1の地震は、幸い直接の被害こそそこまで大きなものにはならなかったものの、あの気持ち悪い長時間の横揺れは、多くの首都圏エリア在住者にとって、2011年4月の「余震」以来の出来事だったはずで、そういえばあの年も2月に何度か逆断層型の地震福島県沖で起きてたんだよな・・・とか考えだしてしまうと、平常心を保つのはなかなか難しくなる。

少なくとも10年前、あれほどの試練を与えられた地に再び甚大な悲劇をもたらすほど神様が意地悪だとは思わないし、(次元が全く異なる話とはいえ)1年近く新型ウイルス相手に忍従を強いられている首都圏民についてもまた同じだろう、と思っているから、もうここは準備できるだけのことはして、後は運を天に任せるしかないかな、というところなのだが、何とも言えないデジャブだった。

で、そのつながりで言えば、この週末は、他にもいろいろと既視感を抱く出来事が多かったような気がする。

例えば、

「五輪出場権を懸けた全日本カーリング選手権(女子)の決勝で、ロコ・ソラーレがまた負けた」

というニュース。

4年前(対中部電力)とは相手が違うとはいえ、予選ラウンドから絶好調で勝ち上がったロコ・ソラーレが予選、トーナメントと連勝してきた相手に最後の最後でコロッと負ける
、それもスキップの不安定なショットで・・・というのは、まさにかつて見た光景。しかも、これで五輪代表決定戦が再度組まれる、という展開もまた同じ。

今回は相手が逆襲に燃えるフォルティウスだけにこの先の展開は読めないのだけど、ラストショットの後の藤澤五月選手の”やっちまった”感あふれるコールと何とも言えない表情、ここまでは全く同じだなぁ・・・と思わずにはいられなかった。

そして、ターフに目を移せば、

「ステイフーリッシュ、重賞で善戦するがまた勝利に届かず」

という鉄板ネタも・・・。

正直、勝つまでは無理かな・・・という感じだったここ数戦*2に比べると、今日の京都記念は最後の直線ギリギリまで手に汗を握るような展開ではあったのだが、それでも最後は勝ち馬(ラヴズオンリーユー)の切れ味の前に1馬身以上離されているから、”あと一歩”とか”惜しい”という形容詞よりは、”安定の「善戦」”という、昔多くのファンがナイスネイチャに送っていたような言葉がちょうどしっくりくるわけだが、2歳時のホープフルS、馬名で勝った複勝がヒットしてからはや3年超。

レース中は器用に立ち回るし、スタミナもある。社台ファーム生まれで血統は悪くないし、これまで大きなコンディション不良もなくコンスタントにレースに出続けている。

それでもタイトルは未だに京都新聞杯1つだけで気付けばはや6歳、というこの馬がきっかけを掴むチャンスがあるとしたら、春先の海外遠征くらいだろうか。

そういえば、同じ矢作厩舎で、海外遠征を挟んで見違えるように飛躍を遂げた馬もいた。既に1年以上成長軌道が遅れているような気がするステイフーリッシュを彼女と比べるのは酷かもしれないが、それでも愚直に走り続けた結果、遅咲きの血が花開く。そんな奇跡を信じてみたい思いはある。

*1:数日前のエントリーは何だったのか・・・という気分になる。

*2:昨年の大阪杯で9着に敗れて以来、以後4戦連続で重賞では掲示板に乗っていたのだが・・・。

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遂に「キャプテン」が戻ってきた!

ここ数日、揉めに揉め倒した感がある東京五輪組織委員会会長の”失言”問題。

連日繰り返される報道と外野の声を見ながら蘇ったのはかれこれもう20年も昔の記憶で、どんなに頑張って文脈を補おうとしてもフォローできないような発言を公の場でしてしまう側も側なら、それを切り取って執拗に報道するメディアもメディア・・・ということで、そこにあったのは非常に既視感のある光景だったわけだが、今回は発言のテーマ、発言者の地位、そしてトップを務める組織が置かれている環境等々、全てが最悪の方に向かっていくことになってしまった。

何といっても、「開催できるかどうか」が最大の焦点になって世界中がざわつき始めている、というのが「東京五輪」を取り巻く今のストレートな状況。さらに、何といっても五輪は世界最大のスポーツイベントだから、それに関連して発信される情報の欧米での伝播度も桁違い。

当の日本国内では、「五輪組織委」と言ってもピンとこない人の方が多いような気がするし、森喜朗という名前を聞いて「元首相」とか「元大物政治家」を想起する人はいても、「五輪」と結びつける人は決して多くはない。

だから今回の失言が出て、批判の嵐が吹き始めた当初も、SNS上で漂っていたのは「ああ、また森さんやらかしたかぁ・・・」くらいの緩い空気感だった。

だが、海外の人々にとって、Mr.Moriは、

The president of the Tokyo 2020 Olympics organising committee

であり、

Tokyo Olympics Chief

である。

一島国の「首相」の肩書など凌駕してしまうようなバリューを持つ肩書に、全世界共通で忌避される「ジェンダー差別」的発言がミックスされれば、日本国内の”プロレス”的な圧とは比較にならないくらいの風が吹くわけで、最後は何ともあっけなく・・・という幕切れとなってしまった。

で、今日の昼になって出てきた記事が既に確報になっているこちらの後任記事。

東京五輪パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長(83)は11日、女性蔑視と受け取れる自身の発言を巡り辞任する意向を固めた。国内外での批判の高まりを受けて判断した。森氏は日本サッカー協会元会長の川淵三郎氏(84)と会談して後任を打診し、川淵氏は受諾する考えを示した。」(日本経済新聞電子版2021年2月11日12時41分配信)

ご本人にとっても、周囲にとっても「瓢箪から出た駒」みたいな話かもしれないが、個人的には、スポーツ界にとってこれ以上素晴らしい話はないと思っている。

マチュア時代の日本サッカー史に名を刻むフットボーラーであり、1964年東京五輪でもゴールを決めたオリンピアン。

そして、Jリーグ初代チェアマンとして今に続く礎を築き、W杯誘致を実現し、日本サッカー協会の長として一時代を築いたことは記憶にも新しい(といってもサッカー協会の会長を退任したのはもう10年以上も昔のことである)。

2013年に東京での五輪開催が決まり、組織委員長の人選が取りざたされていた時に、スポーツ界の代表を長に据えるならこの人しかいないだろう、と自分は思っていた。

残念ながら、そこで優先されたのは「政治」と「格」で、実際、その後に起きた諸々の混乱を考えると、政治家をあの地位に据えておいたことの意味は十分あったと思うが*1、その後バスケットの世界でも協会改革に尽力し、五輪出場が認められるところまで持っていった、というスポーツ界のカリスマが「選手村村長」でしかない、ということには、ちょっとした寂しさもあった。

だから、こんな形であっても、地元での五輪開催を担う長に川淵氏が就かれた、ということは、この30年、日本サッカー界の成功の歴史を見守り続けてきた者として本当に感慨深いことだし、最大限ポジティブに捉えられるべきことだと思っている。

何かと足を引っ張りたがるメディアは、森会長よりさらに年上の、84歳という年齢や、チェアマン、キャプテン時代の「独裁」のイメージを引っ張り出して既にとやかく言い始めそうな雰囲気はある。「時間との戦い」となっている状況下で、手腕を発揮しようにもできる余地などないんじゃないか、という話も当然ある。

ただ、激情型のように見えて周到、メディアサービスは旺盛だが大事なところでのコメントは固い、というこれまでの川淵氏のスタイルを見る限り、メディアがどれだけ悪意を持って襲い掛かっても、森会長の二の舞になることはないはずだ*2

そして、何事も、森氏が退いた後に全盛期が来る、というのは、これまでの歴史が証明しているわけで*3、自らの進退に焦点を当てることで、「中止にするのどうするの?」的な雰囲気まで一気に吹き飛ばしてしまった森氏の自爆芸(?)と、”美味しいところ”できっちりゴールを決められる元FWとしての川淵氏の才覚がかみ合えば、一時は絶望視すらされていた東京五輪を大成功裡に終わらせることも夢ではなくなるような気がする*4

*1:もっとも、組織委員長が森氏だったゆえに喧嘩が激しくなった、という一面も少なからずあったような気はする。

*2:自分が知る限り、公になった川淵氏の失言といえば「後任はオシムくらいではなかろうか。当時、全盛期を迎えつつあったオシム・ジェフのファンとしてあの発言の無神経さには正直許しがたいものがあったし、それ以前から決して自分が川淵氏の言動の全てを好意的に見ていたわけではないのだけれど、幾たびもの苦しい時代を超えてJリーグ草創期の「100年の計」が全国各地に根付いている姿をはじめ、川淵氏が残した様々な実績にはただ敬意の念しかない。

*3:小泉政権しかり、議員引退後の自民党政権の繁栄しかり・・・。

*4:「五輪なんてやるな」的な論調をあちこちで見かけることは多いし、自分も1年くらい前まではやらんでいいだろう、と思っていた側だったのだが(仮にやるんだったら、その間は国外に脱出しよう、という準備すらし始めていたところだった)、新型コロナ禍でこの国の先進国としての立ち位置すら揺らいでしまっている今、「ここで五輪ができないようなら、この国に永遠に明日は来ない」というのが率直な思いだけに、今回の川淵氏の起用が起死回生の逆転劇をもたらしてくれることを願ってやまない。

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チキンレースの末に辿り着いた31年前の夏。

新型コロナ禍の真っただ中で留まるところを知らずに上昇線を描く株価チャートを見ながら、連日報じられる「29年ぶり」というフレーズに胸を高鳴らせたのは去年の暮れくらいのことだったか。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

当時も、いつまで持つんだろう、と半信半疑で眺めていた記憶があるのだが、今時代は、この頃の「日経平均26,000円台」という数字が遥か彼方に見えるくらいのところにまで来てしまっている。

本日、2月9日の高値29585円75銭、終値でも29505円93銭。

もう一度繰り返す。日経平均29,000円台」である。それも半ばを超えて。

昨日の時点で「30年6か月ぶり」というアバウトな報道がされていたので、今日の記録更新を踏まえて改めてひも解いてみると、

1990年8月3日以来*1

ということらしい。

どんな時代も、その渦中にいると「トレンド」にはなかなか気付かない。

自分にとって31年前のこの夏といえば、薄ぼんやりと影が差していた10代途中までの記憶の中では数少ない、鮮烈なカラー映像とともに蘇ってくる夏だったりもするのだが、逆に言えば、この頃の株価がどうだったか、なんてことは、当時から日経新聞には目を通していた身であったにもかかわらず、記憶のどこにも残っていない。

当時のニュースを調べて出てくるのも、「ああ、この頃、湾岸戦争イラククウェート侵攻)が始まったのだなぁ・・・」という感想くらいだ。

ただ、ヒストリカルデータは、この年、年初からじわじわと下がり続けていた株価が、この8月に一気に日経平均ベースで5,000円以上下げ、1989年の年初以来謳歌していた「日経平均30,000円台」の世界を歴史の中に葬り去った、ということを残酷なまでに示している。

逆に言えば、1990年の8月は、現代人が昨年の11月からの3か月ちょっとの間の「極めて急ピッチ」と感じていたような株価変動の幅をさらに上回るような激しさで「下げた」月でもある。


あくまで個人的な勘だけで言えば、今日の真昼頃の株価の動きなどを見る限り、そろそろ危ういんじゃないか・・・と思わずにはいられない。

いわゆる好景気銘柄だけでなく、「なぜこれが?」と言いたくなるような低迷割安株までちょっとした材料に反応して跳ね上がり、連日新しい”主役”が祭り上げられながら急上昇してきたのが昨日までの市場で、いわば、それまで打てなかった打線に急に火がついて、先発全員安打で打者一巡、代打を出してもまた長打、みたいな手の付けられない状況になっていたのが先週くらいからの流れだったわけだが*2、さすがに今日になると、よほど良い材料がなければ素直に利確売り・・・という雰囲気になっていて、全体では後場の最後の方で巻き返して帳尻を合わせたものの、これまで急上昇していたのが一頓挫し、ポートフェリオ的にはトントンくらい、という結果になった人も決して少なくなかったはず。

そしてこれを書いている時点(2月10日の朝2時くらい)で、NY市場の値動きが微妙な感じになっているのを見ると、明日はそろそろ覚悟が必要かなぁ、という気にもなってくる。

でも、そんな(ある意味”楽観的”な)予想がこれまでと同様に外れ、29,000円台どころか30,000円台の壁までこのタイミングで突き破ってしまったりしたら、歴史の扉はさらに古の方までこじ開けられ、それとともに蘇る自分の記憶もより甘酸っぱいものになっていくかもしれない・・・。


おそらく、今、誰もが思っているとおり、この現象は間違いなくバブルだし、分かっていても買い上げざるを得ない機関投資家と、イケイケで攻める個人セミプロ投資家たちが必死で逃げるタイミングを伺うチキンレースの真っただ中で、年明けくらいからふらっと飛びついてしまった気の毒な素人投資家は絶好のカモにされる一歩手前、という状況だったりもする。

それでも、早々にリスクオフして目を瞑る、という賢明な策を講ずることなく、漫然と更新され続ける高値の数字を眺めてしまうのは、自分に学習能力がないからか、それとも違う何かを期待しているからか。

いずれにしても罪な相場。そして、いつまでも消えずに心の奥底に残る記憶ほど罪なものはない。そんな八つ当たりさえしたくなる今日この頃、である。

*1:この日の終値は29515円76銭。

*2:なので、大型銘柄だけで構成される日経平均の上昇率以上にTOPIXの上昇率が目立ったのがここ1,2週の動きだった。

これは「入門書」の究極型かもしれない。

コンセプトからして購買意欲をそそるに十分で、告知が出るなり早々に予約して取り寄せた書籍がこの週末に届いた。

「入門書」ということで、読み手に優しい文章と、時にキュートさすら感じさせる挿絵の図解、そして細かく区切られたテーマごとに完結する記述のまとまりの良さと、その合間に添えられたコラムのおかげで、集中力をそがれることなく一気に読み切ることができた。

そして、読み終えた後の感想は、といえば、(実にベタだが)「これは凄い」の一言に尽きる。

手にとるようにわかる会社法入門

手にとるようにわかる会社法入門

  • 作者:川井 信之
  • 発売日: 2021/02/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

会社法の本」といえば、基本書*1はもちろん、「入門書」とうたわれていても分厚くなるのが常で、しかも用語が錯綜、シンプルに書けば書くほど記述が無味乾燥なものになりがち・・・ということで、専門家が書かれた本の中で通読できるようなものはおそらくほとんどなかった気がする。

もちろん、新書等で読み物として書かれたものは過去にもあったが、内容の濃淡は、書き手の関心に影響されるところが多かったし、「実務向け」の本だと読みやすい代わりに中身が薄すぎる、とか、記述がミスリード、というものも結構ある。

だが、本書は、「会社とは何か」というところから始まり、会社の設立、株式、機関といったベーシックな項目から、資金調達、組織再編、消滅まで、会社法の体系を満遍なくカバーしている上に、特定のテーマに引っ張られすぎることもなくバランスよく記述が配置されている*2

冒頭でも触れた通り、文章は平易だが、それは決して説明が粗いということではなく一つ一つの記述は実に丁寧だし、用語の使い方も条文に忠実。それでいて段落ごとに無駄なくコンパクトにまとめられている、というところに読みやすさの秘訣があるのだろう。

本当の初学者、初心者が本書を読めば、この分かりやすさを当たり前のように受け止めて中身に入っていけるのだろうが、これまで他の類書に接してきた者としてはかえって戸惑うというか何というか・・・ 

これを、洗練された、というのが良いのか、磨き抜かれた、というのが良いのかは分からないが、いずれにしても考え抜かれて書かれた本だな、ということは、ある程度経験のある実務者にこそわかる感覚なのかもしれない。

ちなみに、バランスの良い本ではあるが、決して没個性的ではない、というのも本書の特徴で、著者の個性は様々なところで発揮されている。

例えば、初心者を意識したと思われる「会社の従業員は、社員にはあたりません」(15頁)という一文や、会社法における『公開会社』とは一般的な意味とは異なり、上場企業という意味ではありません」(83頁)といった記述。この辺は、概説書等にはストレートに書かれていないことも多いので、概して勉強し始めた頃に違和感を持ちつつ、いつしか「そういうもの」として受け入れる、という過程をたどることが多いのだが、それを端的に書いていただいている、というありがたさが本書にはある。

また、用語の使い方への細やかさも本書の特徴で、原則は先ほども触れたように、会社法の条文に忠実に一つ一つの用語を取り上げ、その上で会社法上の正式な言い方ではありませんが」とか「一般に」といった留保を付しつつ「非公開会社」(83頁)とか「電子投票」(106頁)、「減資」(216頁)といった慣用用語を紹介する(106頁)。

入門書とはいえ、「議題」と「議案」の違いなど、大事なところは例も挙げつつしっかりと紙幅を割いて説明されている点にも注目すべきだろう(102~103頁)。

さらに、ここは読んでのお楽しみなので細々した紹介は割愛するが、ところどころに挿まれたコラムにも、著者の思いはしっかりと込められているように見受けられる。

ということで、当ブログが紹介するまでもなく、既にAmazonの売れ筋ランキングで「会社法」の1位をひた走っている(2月8日午前2時時点)状況だったりもするのだが、自分としては、本書の「入門書」としての完成度の高さに最大限の敬意を表しつつ、ご紹介させていただく次第である。

そして、著者ご本人が本書について書かれた以下のブログ記事を拝見し、本書に込められた思いの一端に触れることで、よりお勧め度合いが増す、というのも当然のことかな、と*3
blog.livedoor.jp

ということで、本書が少しでも多くの方々の手元に届くことを願いつつ、筆が完全に止まっている自分自身への喝ももう一度入れ直して、この推薦のエントリーを締めることにしたい。

*1:用途は鈍器か高枕か、というようなスケールのものも多い。

*2:さらに言えば、間もなく施行される予定の令和元年会社法改正のトピックまできちんと盛り込まれている。

*3:ちなみに、川井弁護士ご自身は、対象読者として「新任の法務担当者、会社法を学んでみようと思う会社経営者やビジネスパーソン、他業種の専門家、起業を考えている方」を挙げられているが、個人的には雑な用語の使い方をしがちなメディア関係者にも、本書をしっかり読んでいただきたいな、と思ったところはある。また、「弁護士や、法務担当者でも一定程度の実務経験のある方々は、本来的な読者としては想定しておりません」ということではあるが、経験者であればあるほど、頭を整理して分かりやすく説明する、というトレーニングが日々必要になるわけだから、実務経験者だから本書を買わない、という選択肢はないような気がする。当然ながら知識の抜けもれもあるし・・・(自分も「頭の整理」だと思って順調に読み進めていたつもりが「株式交付」の説明(250~251頁)のところで、はっ・・・!となったのはここだけの話である)

示された統計数値が意味するもの。

昨年来の実感としても何となくそうだろうな、と思うところはあったのだが、いざ出てきた数字を見ると思いのほか・・・というのが正直なところで、実に驚かされたのが↓のニュースである。

「家計の消費余力が高まっている。総務省が5日発表した2020年の家計調査によると、2人以上の勤労者世帯で収入から支出に回さなかった貯蓄額は月平均で17.5万円だった。比較可能な00年以降で最大だ。新型コロナウイルス禍による外出自粛で大幅に支出が減る一方、1人10万円の特別定額給付金で収入が増えた。コロナ禍の行方によるが、21年以降には抑えられていた需要が喚起される可能性がある。」(日本経済新聞2021年2月6日付朝刊・第3面、強調筆者、以下同じ。)

日経紙に限らず、コロナ禍に突入して以来の世の中で取り上げられるのは「消費支出の減少」ばかりで、それを切り口に、やれ景気後退だ、はたまた経済危機だ、といった感じに煽る論調が多かったから、この記事自体も何となくバツが悪そうな感じの書きぶりではあるのだが、給付金が支給される一方で支出が下がれば家計の余剰資金が増える、というのは当たり前の話。

で、昨年の秋頃からは、そうやって余った資金が株式投資にどんどん流れていき、市場が空前の高騰に湧く中でさらに資産が増えていく、というのが、日本国内に限らず、今世界中で見られる現象でもある。

もし世の中の「経済の環」が一つにつながっていたなら、最初の緊急事態宣言が出た頃、一部の「経済通」気取りの人々が唱えていたように、飲食や旅行・宿泊セクターへの消費支出の減少が他の産業にも波及して深刻な経済危機が訪れる、ということになっていたのだろうが、この1年の間に、新型コロナが教えてくれたのは、

「経済の環」は一つではない。

ということだった。

一見無関係に見えるセクターが、様々な環でつながっているのは間違いないのだけれど、全ての産業、全ての経済活動が相互に影響を与えうるわけではない、ということにどれだけの人が気付けていたか・・・。

もちろん、ダメージを受けるとあらゆるところに影響が出る、というものはあって、リーマンショックの時のように金融機関がダメージを受ければ、ほぼ例外なくすべての産業に影響は波及することになるし、大手製造業者が不況に陥るとサプライチェーンを通じて世の中の隅々にまで波及するし、そこで働く労働者を通じてあらぬところまで影響が及ぶ。

だが、今回に関しては、「直撃」を受けた産業は、決して経済の環の中心にいた産業ではなかった。

世の中の景気全体の影響を受けることはあっても、それは決して直接的な影響ではなく、金融不況、メーカー不況と言われていた時代でもある程度の耐性をもって切り抜け、むしろ不況にあえぐ業界の「受け皿」になるくらいの余裕すら見せていた・・・そんな業界だったからこそ、今回どれだけ凄惨な影響を受けても、それが全体に「逆流」することにはならなかったのだろう、ということが、かつて中にいたからこそ良く分かる*1

結果的に、一律均等に給付金やら助成金を出せば出すほど、潤うところは潤い、そうでないところには必要な援助が行き渡らないまま格差だけが広がっていった、というのが今の状況なわけで、「未曽有の危機だったから」という言い訳が通じた昨年まではやむを得ないとしても、これからの対策はそうであってはならないはず。

「家計の資金余剰急増」を伝えているのと同じ日の紙面に、

「感染拡大が続く新型コロナウイルスが、ひとり親世帯の家計を直撃している。非正規雇用の親も多く、出勤シフトが減るなどしてコロナ前と比べて6割が減収か無収入になったとの調査結果もある。緊急事態宣言の延長で窮状はさらに深刻化する恐れがあり、現場からは継続的で取りこぼしのない支援を求める声が上がる。」(日本経済新聞2021年2月6日付朝刊・第39面)

という記事が載っている現実を前に何ができるのか、ということを考えるなら、今必要なのは、非効率な一律給付型の支援策でも、「産業保護」に傾斜した間接的な救済策でもなく*2「コロナ禍被災者」にフォーカスした支援法制を最大限活用することではなかろうか。

ちょうど法律時報誌の2021年2月号で、「東日本大震災後の10年と法律学(上)」という特集が組まれているのだが*3、その中では、これまでの被災者支援法制の運用上の問題点を指摘し、改善の方向性を示した上で、「現下のコロナ禍への様々な対応の中で、いくつかの被災者支援制度が注目され、活用・応用されている」ことに言及された論稿もある*4

今、真っ先に助けなければいけないのは「人」である。

ということを考えれば、限られた予算の使い道も自ずから明らかになりそうなものだが、その思いが為政者に届くかどうか。

ついでに言えば、多くの世帯に余剰資金が生じている状況でなりふり構わない「景気刺激策」を打ち続けていれば、年の後半くらいには確実にインフレの波も襲ってくるわけで、そうなれば、コロナ禍の下で生じた経済格差がますます悲惨な帰結をもたらしかねない、ということも、念頭に置く必要がある*5

急騰し続けるリスク資産を預金に振り替えるタイミングをそろそろ考えないといけない、というのも、それはそれで頭の痛い話ではあるのだけれど、そんなことよりもずっと大事な、もっともっと考えなければいけないことがある、ということに、目を向けながら走っていかねば、と今、思うのである。

*1:もちろんその背景には、気づかぬ間にそれなりのスピードで進んでいたデジタル化が「代替」の選択肢を与えてくれたことで影響が緩和された、ということもあったわけだが。

*2:今回のコロナ禍に関しては、コロナ禍と無関係な業種と影響業種の間ではもちろん、同じ業種の中でも影響の大小がかなり色濃く出てきているので、「Go To... 」的な特定のカテゴリー丸ごと支援策では結局本当に救済が必要な事業者が救われない、ということになりかねないし、満遍なくお金が落ちる仕組みを作ったら作ったで、需要を不自然に歪め、本来なら新型コロナの影響云々にかかわらず淘汰されるべきだった事業者まで生き残らせてしまう、という困った状況を引き起こしてしまうので、このやり方には全く賛同できない、というのはこれまで再三指摘してきたとおりである。

*3:

*4:津久井進「被災者支援法制の課題」法律時報93巻2号29頁(2021年)。

*5:おそらく、資源価格や汎用的な取引財の価格高騰をきっかけに、米国、EU圏と急激な物価上昇が波及し、各国の中央銀行が火消しに走る中、日本だけが出遅れて泣きを見る・・・というパターンも想定しておく必要はあるような気がする。

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