これまでの誇りと、この先にあるもの。

折しも、地域公共交通のあり方をめぐる議論がじわじわと広がってきていたさなか、遂に”真打ち”とも言えるような、日本最大の鉄道事業者の線区別収支が公表された。

数字を足し合わせれば、これらの線区の営業赤字額は、ここ数年深刻と言われ続けてきた北海道のそれをも大きく凌駕する。
そして、この公表を受けて、”基準値”以下の線区の関係自治体は、現在の路線の存廃も含めた議論に巻き込まれていくことになるのだろう。

民営化から30年も経てば、地域の環境が大きく変わるのも当然のこと。

いわゆるマニアな人々の郷愁に寄り添うためだけに民間事業者に負担を強いるのは論外であって、地元でさえもはや不要、と判断するなら、さっさと代替の交通モードに切り替えるなり何なりで、打てる手を打ってしまった方がよいというのは、改めて議論するまでもないことだとは思う。

ただ、なぜ今なのか・・・。

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どうしようもない喪失感。されど・・・。

それは、「一つの時代が終わった」なんて簡単な言葉で片づけるには、重すぎるニュースだった。

フィギュアスケート男子の羽生結弦(27)=ANA=が19日、東京都内で記者会見し、競技の第一線を退く意向を表明した。「競技会に出るつもりはない」と話し、今後はプロとしてアイスショーなどを中心に活動する。」(日本経済新聞2022年7月20日付朝刊・第1面、強調筆者、以下同じ)

本来なら、すべての競技者がメダルの色を競う4年に一度の舞台なのに、彼だけがただ一人、別の次元で戦い、歓声を浴び続けていた今年2月の北京。

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そして「ただ一人違う世界線というのはあの大会に限ったことではなく、ここ数年、彼が滑る試合ではずっとそんな感じだった。

だから、このタイミングで「競技の第一線を退く」というのも全く意外な話ではないし、とうとうこの日が来てしまったか、というのが、彼を見てきた多くのファンの思いだろう。

ただ、自分はこのニュースを目にした瞬間から、「どんなアスリートでもいつかは…」といったありきたりな言葉では割り切れない喪失感にさいなまれているし、彼がいない2022-2023シーズンが始まれば、その思いはより強くなるだろうな、という気もしている。

思い返せば、まだ10代半ばの羽生選手が世界の舞台に飛び出してきたのを一目見て、思わずこのブログ「特筆」したのは、かれこれ12年も前のことだった。

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その時の彼のイメージは、線の細い純真無垢な表現者。だが、その翌年に東北を襲った災厄は、彼の滑りに全く異なる熱量を与えた。

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”不死鳥”の勢いが、伸び盛りの青年の成長ストーリーを神話にまで昇華させた2014年・ソチ。

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改めて自分の書いたものを眺めると、当然ながらその過程ですら一緒に並んで出てくる選手たちの顔ぶれはどんどん移り変わっているし、今現役の選手たちと見比べると、「大昔」と言いたくなるような世界ですらある。だが、その頃から時空を超えて、羽生結弦という選手は競技を代表する選手として第一線で戦い続けていたし、試合に出ているときはもちろん、出ていない時ですら、大きな「存在感」を感じさせる選手であり続けた。

報道記事的に構成すれば、彼の実績は、「2014年、2018年の五輪連覇に同年の国民栄誉賞とシンプルにまとめられてしまう。

あえてそれに付け加えるとしても、2度の世界選手権優勝、6度の全日本選手権優勝、というフレーズくらいしか出てこないのかもしれない。

だが、このシンプルな結果の行間、特に2014-2015シーズンから平昌五輪に至るまでの苦闘の道のりや、五輪を連覇した後の一種悟りを開いたかのような表現者としての姿を画面越しであれ見てきた者としては、残した結果以上に超越したアスリートだったな、という思いしか出てこないし*1、だからこそ、普通のアスリートの引退報道と同じように今回の会見を報じたメディアには、がっかりさせられたところもある。

そして、そんな中、羽生選手が残してきた演技の意義、価値を見事なまでに書き記してくれた日経紙のスポーツ面は、やはり別格だった。
特に自分の心情に見事にヒットし、涙腺を刺激したのは、以下の引用中の最後の2つの段落である。

「五輪2連覇、グランプリ(GP)ファイナル4連覇、ジュニア・シニアの主要国際大会全制覇の「スーパースラム」達成――。輝かしい戦績は他の追随を許さないが、羽生が放つまばゆいばかりの光の源泉は、毎シーズン、毎試合付加されていく起伏に富んだストーリーにこそあるように思えてならない。」
「羽生の成長と14年ソチ五輪優勝に、人々は東日本大震災からの復興の歩みを重ね合わせた。18年平昌五輪前には右足首にけがを負い、ぶっつけ本番で現地のリンクに登場。劇的な形で五輪2連覇を成し遂げた。」
「今年の北京五輪でもけがと戦いつつ、世界で誰も成功したことがない「クワッドアクセル(4回転半ジャンプ)」をテーマに定めた。着地を決めることはできなかったが、試合後は「挑戦しきった、自分のプライドを詰め込んだ五輪だった」と振り返った。」
「表彰台の真ん中は、羽生とは違うアプローチで競技にまい進したネーサン・チェン(米国)に譲った。それでも北京の地まで羽生が紡いできたストーリーに国境を超えて多くの人が没入し、最後まで主演の座は譲らなかった。」
スコアという数字で表される競技者としての力量。そして見ている者の情感を揺さぶる表現者としてのスター性この2つを高い次元で融合させてきた羽生が競技から去ることは、一つの時代の終幕を意味する。」
強いスケーターはこれからもきっと現れる。ただ、羽生が果たしてきたアイコニックな役割を代演することは困難だろう。折も折、チェンも学業優先のため競技を一時離れることを表明している。後世に立って振り返ってみれば、2022年はフィギュアスケートという競技そのものの大きな転換点になっているのかもしれない。」(日本経済新聞2022年7月20日付朝刊・第41面、木村慧氏執筆)

どんなに英雄視された名選手でも、いつかは必ずそれを乗り越える者が出てくる、というのがこの世の定めとはいえ、この先、自分が生きている間に、羽生選手を超えて心を揺さぶってくれるようなフィギュアスケート選手を目にすることができる自信は全くない。

そして、あてもなく「新しいスター」に期待するよりは、何年かの時を経て、再び羽生選手が競技者としてリンクに戻ってくる日を待つ方が、健全なことであるかのようにすら思える。

万が一、の舞台が2030年の札幌だったら、あまりに出来すぎたドラマ、ということになるのだが、果たしてどうなるか。
少なくとも微かな希望は捨てずに持っておきたい、と思っているところである。

*1:ソチ五輪以降も、フィギュアスケートの主要な大会を見る機会はそれなりにあったが、羽生選手が出ている大会は、追い立てられる者の悲壮感が切なくて文字化できないことも多かったし、逆に出ていない大会はなんか物足りなくて筆が進まない、ということが多くて、結果この競技にブログで触れる機会自体がかなり減ったような気がする。

たった一年でこんなに世の中変わるのか。

久しぶりの三連休、そして学生の皆さんはこれから夏休み、ということで、世の中には何となく浮かれたムードも漂っていた気がするが、自分は、タフな日常の疲れをとるのに約1.5日、さらに来月に迫る大きな山の準備に追い立てられて約1.5日、ということで、いつもと変わらないどころか、普段の週末以上に休日らしくない「休日」を過ごす羽目に。

振り返れば、一昨年は、初めての”コロナ自粛体験”で滅入った気分をちょっとでも紛らわすために、思い切って遠出したのがこの三連休だったし、昨年も近場とはいえ一泊の旅に出ていた。

それが、今年は家からほとんど出ることもなく、パソコンの前に向かい続けていたのだから、一年経てばずいぶん変わるものだ*1

もちろん、そうはいっても便利な世の中。今は、パソコン一台あれば、全国各地の高校野球の予選から開幕したばかりの都市対抗野球まで一歩も外に出ることなく悠々と観戦することができるし、TVerで海を飛び越えて世界陸上のLIVE映像まで眺めることができる。

画面の向こう側で派手に鳴り物を使って声援を送る観衆、競技場に押し寄せている観衆の姿を見てしまうと、連休の後半、天気も良くなったのに外に出られずにいる我が身を嘆きたくもなったのだが・・・。

*1:まぁ、世の中の日常が戻ってビジネスも催し事も、あれこれ活発になるからこそ自分の出番も来るわけで、そう考えればこの変化も全く不思議なことではないのだが。

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インフレもここに極まれり。

長く続いた新型コロナの混乱にウクライナ戦争、と様々な要因が相まって、世界中で物価上昇が続いている今日この頃。

ここ数日の記事だけ見ても、水曜日の朝刊に、

「国内の物価高が長期化してきた。6月の企業物価指数は9.2%上昇した。12カ月連続で5%を上回るのは約40年ぶりとなる。」(日本経済新聞2022年7月13日付朝刊・第1面、強調筆者、以下同じ)

と「オイルショック再来」を告げる記事が載ったかと思えば、今日の朝刊には、

労働省が13日発表した6月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比の伸び率が9.1%だった。ガソリン高や堅調な雇用環境を背景に前月より伸びを高めた。米連邦準備理事会(FRB)が大幅な金融引き締めで沈静化を図る公算が大きくなっており、急激な利上げが景気後退を招く懸念も広がっている。」(日本経済新聞2022年7月14日付朝刊・第1面)

と、米国発で今後の景気を不安視する記事も出てきて、市場も連日戸惑いを隠せずにいる。

で、そんな中、今週、日本の北の方から飛び込んできたのが、今の世の中を反映するような、”超インフレ”のニュースである。

「12日、ノーザンホースパークで行われた「セレクトセール2022」の2日目当歳馬セリが終了し236頭が上場された。2日目の売上は128億9250万円で、当歳馬セリ最高を記録、落札率は95.3%だった。最高落札価格はシャンパンエニワンの2022(牡・ドゥラメンテ)3億2000万円でレッドホースが落札。2日間の総売り上げは257億6250万円となり、連日の売り上げ増で昨年からおおよそ32億円増で過去最高の売り上げを記録した。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1e7f65cdb8541a8b3d6b7a4ab7e8267256261c01

売り上げた額の数字は前年比約14.2%増、昨今の物価上昇率をも一回り上回る。

個別の結果を眺めれば、かつてのような6億円超の巨額ディールはさすがにない*1

だが、今年のセールでは、4億9500万円の「モシーン2021」を筆頭に、どの馬の落札額を眺めても、それなりの・・・と言うか、かなりの高額になっている。

高い落札率、そしてクラブ馬主から個人馬主まで、相応の金額で札を入れて落とした結果が、セールを“史上空前”の大盛り上がり大会にした

既に個人馬主として確固たる地位を築きつつある藤田晋氏は、昨年に続いて18頭の馬を落札しその半分以上(11頭)を1億円超の馬で固め打ちする、という偉業を再び成し遂げているし、それ以外にも、まだ未知数の新種牡馬の産駒などに惜しみなく資金を投入している馬主は多い。

日々の食材や生活雑貨の値上がりに頭を抱えて「家計防衛」に走る人々の世界とは全く逆の世界線がここにはある。

今年も観客が戻って昨年以上に良い調子をキープしているJRAとはいえ、今以上にレース数を増やすのは難しいし、いかにインフレ世相といえど「公営」競技である以上、賞金額を大幅に増やすのも難しいだろうな、と思う。

となれば、これだけ全体的に馬の価格が上がってしまうと、もはやセール参加者のほとんどが、”元”を取れずに終わってしまうのではないか・・・という気がしなくもないが、そんな俗世のちまちました話を振り切ってこそ馬主

本業は大丈夫なんかい?とか、そんな野暮なことは言うまい。

そこにいるのは、日銀の総裁も大喜びする、「インフレ許容度」が極限まで高い人々なのだ。

そして、そんな方々が切ってくれた身銭のおかげで、我々は毎週末、レベルの高い白熱した戦いに浸ることができるのだから、それを感謝せずして何をか、である。

変化の激しい浮世のこと、この2日間で”持ち主”が決まった馬たちがデビューする頃(特に当歳馬たちがデビューする頃)、果たしてのどかに競馬を楽しめるような世界がこの国にあるのかどうかは分からないが、今は、この日の主役となった225頭が、一頭でも多くレーシングプログラムに載る日が来ることをただ願うのみである。

*1:ちなみに、セレクトセールの歴代高額馬上位5頭の金額を合計すると28億3950万円となるが、GⅠ級の競走を制した馬は1頭も出ておらず、中央での賞金額を合算しても2億円をわずかに超える程度である。

涙雨の後にやってくるのは変わらない日常か、それともまだ見たことのない変化、なのか。

金曜日の悲報を聞いた時に一瞬頭をよぎり、日曜日の開票速報を見ながら確信に近い感触を得ていたことが、今朝の日経紙の記事で見事なまでに裏付けられた。

日本経済新聞社参院選について投開票日の前日から7週前まで、自動音声による電話調査「世論観測」で有権者の投票意向を分析した。物価高とみられる影響を受けて低下傾向にあった自民党への投票意向は9日の最終調査で再上昇に転じた。」
「「経済対策・景気回復」を重視する層の投票先をみると、自民党は当初の45%から7月3日に38%へ低下した、その1週間後に45%へ戻った。同じ期間に変動がみられた他の政党を調べると、日本維新の会が14%から17%へ上がった後、13%と元の水準になった。
日本経済新聞2022年7月12日付朝刊・第4面)

元首相が凶弾に倒れ、突然の死を惜しむ声が飛び交うSNS上で聞こえてきたもう一つの声は、”弔い合戦”による保守系勢力の圧勝を危惧するリベラル側の嘆き。

だが、先ほど引用した↓の記事のグラフからも、実際の選挙結果からも分かるとおり、今回の不慮の事故が「革新系」政党*1に及ぼしたダメージはほとんどなく、実際に起きたのは「保守系」政党の内部での票移動だけだったように思う。

www.nikkei.com

世界が激動の波にのまれる中でも慌てず騒がず、その結果、ここまで高い支持率を維持したまま無難に乗り切ってきた与党が今回の選挙で圧勝する、というのは、最初から分かっていた話。

それよりも、ここ数回の選挙で勢いを増してきていた日本維新の会が複数区で「革新系」政党の議席を奪い、自民と合わせて圧倒的強さで参院を牛耳るようになることの方が自分は気になっていたから、いつもなら最終盤の”営業攻勢”で議席を奪い取ってきたかの党が、まさかの事件により結果的に多数の票を失い、「少し増えた」程度の結果にとどまったことで安堵したところはある*2

もちろん、こういう結果になったということは、今や「革新系」政党に引き寄せられる「浮動票」すらほとんどなくなっている、ということだから、支持する人々にとって喜べるような話では到底ないわけだが、こてこての「保守系」に二層三層固められるよりは、右から左まで混在する自民党(&それに付随する公明党)が一人勝ちする方が、まだ永田町のダイバーシティは保たれるから、個人的にはこれでよかったのではないかと思っている。

開票結果が出揃った後、勝利宣言をする与党の総裁と、沈鬱な表情の野党第一党の党首、そして悲喜こもごもの少数政党の関係者たち。メディアに流れる光景はいつもと全く変わらない。

ついでに言えば、間髪明けずに「一票の格差」訴訟が一斉に提起される、という流れまでデジャブ、である。

ただ、いつもと違うのは、本来浮かれ立つはずの与党側も、世の中も、平行して進んでいる元総理の追悼行事の真っただ中にいる、ということ、そしてこの服喪期間が明ける頃、何かが大きく動き出す予感がすることくらいだろうか。

本来なら、万人から愛されても不思議ではないくらいの一個人としての魅力を押し殺してまで、「保守政治家」としての顔を徹底して守り続けてきた元総理がこの世を去った、そのことの本当の意味に我々が気付かされるのは果たしていつのことになるのか分からないのだが、おそらく、そう遠くないうちに一つ二つ、大きな地殻変動が起きるだろうな、と自分は感じている*3

それが、この国にとって良いことなのかどうなのか、まだまだ読めないところではあるのだが、まずは今、亡くなられた方に追悼の思いを向けつつ、「次」への備えをしなくては、と思っているところである。

*1:今やかつての「保守」とか「革新」とかいう言葉が各政党やその支持勢力に当てはまる日本語ではないのは重々承知しているが、このエントリーでは、便宜上、これ以降もこれらのフレーズを使い続けることにする。

*2:一時は勝利が確実視されていた京都や愛知で議席を奪えず、関東圏でも「全敗」となれば、代表が早々と辞任を表明するのも分かるような気がする。

*3:もちろん、予想が外れて、この先もひたすら変わらない日常が流れ続ける、ということもあり得るとは思うが・・・。

投票行って外食、それがこの国の幸福。

今年の参議院選挙も終わった。

ここ数か月の情勢を振り返るなら、現首相の下で安定した政権運営が続く一方で対立軸を失った野党陣営は迷走中。
欧州での戦争勃発とそれに伴う経済混乱や、未だ評価が定まらない新型コロナへの対応、といった課題はあるものの、いずれも外在的要因によるものだから、国内で画期的な政策を打ち出して主導して・・・というわけにはいかない上に、過激な方向に走ることなく安定した対応を続けている今の政権を見れば、ますます「変化」を求める気は失せる。

・・・ということで、何が争点かもはっきりしないまま(そうはいっても任期満了だから仕方なく、という雰囲気の下)、ぼんやりと選挙戦に突入したのが今回の参院選だったように思うし、実際、街中を歩いても、ここ数回の選挙以上にムードとしては冷めていた。

最近は、投票率の低下への危機感からか、街角のポスター・サイネージ広告からSNSまで、政府広報からSNSの親切な(?)説教者まで、選挙が近くなると「投票行け行け!」というプッシュが盛んに入るようになっているし、それ自体を悪い、というつもりはないのだが、「別に今、政治に何か期待しないといけないほど困ってない」「特に変化が必要だとも思っていない」という人々にとっては、「投票に行かない」というのも立派な選択肢の一つだと自分は思っている*1

かくいう自分も、今回の選挙に関して何ら期待するところはなかった。

そもそも、最近いろんなところがやり始めた「公約」をベースとした各政党との相性度診断的なものをやっても、ぴたりと整合するような政党は皆無で、良くてシンクロ率40%程度、しかも上位に来るのがまぁまぁ極端な政党ばかり、というのが、ここ数回の国政選挙に際しての自分の立ち位置だったりするから、投票所に行ったところで投票先に困ってしまうのが実態だったりもする。

だから、世の中の約48%の人々と同様、自分もスルーと決め込む、という選択肢はあり得たのだが、それでも一応足を運んだのは、

「投票行って 外食するんだ」

という懐かしいフレーズ*2を思い出して、家族で晩飯食べに行くついでに・・・というのが8割くらい。

そして残りの2割は、6年前、慌ただしさにかまけて投票に行くことすら忘れてて*3、後で見たら、「なんでこいつが!」というタレント候補が当選してしまっていたことに気づいた時の後悔を思い出したから、だろうか。

残念なことに、6年前に1人だった某党のタレント候補は今回2人になり、支持者が適切なバックグラウンドのある候補者に投票する機会すら失われた*4

他の党を見れば、まだまだ東京の選挙区にもふさわしい人材は残っているとは思うし、かの党だって全国すべてで同じような愚を犯しているわけではない*5

ただ、ネット選挙解禁で有権者が候補者や各党の政策にダイレクトに触れる機会が増えることが期待されていたにもかかわらず、現実には候補者の”タレント化”はより進み、地道に政策を訴え続けている政党よりSNSで過激なムーブを起こした政党の方が話題になってしまう、という状況もよりエスカレートしただけだった*6

ということで、確定結果を見る前からため息しか出てこなかったりするわけだが、それでも投票後に美味い飯を食い、酒が飲めたのだから、この週末も良い週末。そして、半分近い有権者が政治に思いを託さなくても、普通に過ごせる日常があるこの国がどれほど素晴らしい国か、ということを改めてかみしめつつ、明日以降、また湧いて出てくるであろう様々な下世話な選挙ネタを、シュールな気分で眺めていこうと思っている。

*1:世界を見回せば、「投票に行かない自由」を享受できない国も多数存在していることに気づく。そしてそういう国で何が起きているか、ということを考えると、何が何でも投票所に足を運ばせる方向に圧力をかける社会になる方が、よほど反民主主義的で危うい事態だと自分は思う。

*2:モーニング娘。の「ザ☆ピース」より。

*3:正確に言うと、日本を離れている週末に投票日がある、ということに直前まで気づかず、期日前投票にも行き損ねた、ということだったと記憶している。

*4:もともとここ数年は地方選挙も含めて一切投票していない党とはいえ、こういうことをされてしまうと、もはや二度と票を投じる気にはなれない。

*5:だからこそ、東京に住む者としてはなおさら憤りを感じるのだが。

*6:ついでに言えば、世界中でいろいろと叩かれて懲りているはずなのに、某メタなSNSがサジェストする記事のバイアスのかかりっぷりは想像を超えていて、これまたいかんな・・・と思わざるを得なかった。

住宅地図の著作権侵害をめぐる地裁判決より。

事柄としては5月に遡る話だが、先月に判決が公表され、それをしばらく経ってから読んでみたらいろいろと示唆に富む争点も潜んでいた、ということで、住宅地図の著作権侵害をめぐる事件の判決を取り上げてみる。

www.zenrin.co.jp
リリース全文はhttps://www.zenrin.co.jp/information/public/pdf/220530.pdf

「地図」といえば、著作物の中でも広く便利使いされやすいコンテンツ、ということもあって、どうしても無断使用、不正使用の温床になりやすい。
自分がかつて作っていた著作権に関する「コンプライアンスチェックリスト」の中にも、地図に関する項目は必ず入れるようにしていたし、にもかかわらず、あれれ・・・と言いたくなるような事象は定期的に起きていたと記憶している。

もっとも、「著作物」として著作権法で例示されているもの(法第10条第1項第6号)でありながら、その機能性の高さや表現の幅の限界ゆえに、侵害訴訟では必ずしも権利者が意図した結論が導かれないことがある、というのもこの分野の難しさ。

特に住宅地図の分野では、富山地裁昭和53年9月22日が、

「特定市町村の街路及び家屋を主たる掲載対象として、線引き、枠取りというような略図的手法を用いて、街路に沿つて各種建築物、家屋の位置関係を表示し、名称、居住者名、地番等を記入したものであるが、その著作物性及び侵害判断の基準については、基本的には先に地図一般について述べたところと同様である。ただ、住宅地図においては、その性格上掲載対象物の取捨選択は自から定まつており、この点に創作性の認められる余地は極めて少いといえるし、また、一般に実用性、機能性が重視される反面として、そこに用いられる略図的技法が限定されてくるという特徴がある。従つて、住宅地図の著作物性は、地図一般に比し、更に制限されたものであると解される。」

という説示から、原告の請求を棄却した*1という古い話が結構尾を引いていたところもあったような気がする。

実際には、たとえどれだけ著作物性が乏しくてもデッドコピー(あるいはデッドコピーに極めて近いもの)であれば侵害を認めて差し支えないはずで、実際の民事、刑事の運用もそうなっていたはずなのだが、こと民事に関しては、意図的にデッドコピーをした事業者がわざわざ敗訴判決をもらうまで争う、という事態は通常考えにくいので、結果的に裁判例は蓄積されず*2、いつまでも富山地裁の判決が先例的に残っていた、というのがこの分野の状況だった。

だが、それを明確に塗り替えたのが、今回出された東京地裁の判決である。

東京地判令和4年5月27日(令元(ワ)26366号)*3

原告:株式会社ゼンリン
被告:有限会社ペーパー・シャワーズ、A(被告会社の代表取締役

被告会社は、長野県内を中心に、広告物の各家庭ポストへの投函等を業とする「まかせてグループ」や、住宅購入相談を業とする「すまいポート21飯田」等を運営する有限会社、ということだが、ここで問題とされたのは、被告会社が、原告の作成及び販売に係る住宅地図を複写し、これを切り貼りするなどしてポスティング業務を行うための地図を作成し、同地図を更に複写したり、譲渡又は貸与により公衆に提供したり、同地図の画像データを被告会社が管理運営するウェブサイト内のウェブページ上に掲載したりする、という行為である。

判決の中では、被告会社が、

「各家庭に広告物を配布するポスティング業務を行うために、ゼンリン住宅地図を含む住宅地図を購入し、これを適宜縮小して複写し、配布員がポスティングを行う領域である配布エリアごとに、複写した複数20 枚を切り貼りした上、集合住宅名、ポストの数、配布数、交差点名、道路の状況、配布禁止宅等のポスティング業務に必要な情報を書き込むなどした地図(以下「ポスティング用地図」という。)の原図を作成した。」
「配布可能部数、空き家・廃屋の別、新築物件、新たに設置された道、家屋の入り口やポストの位置等の情報を更に得たときは、随時、ポスティング用地図の原図にこれらの情報を書き加えた上、この原図を複写して配布員に渡していた。 」(以上5~6頁)

という形で原告地図を利用したことも認定されているのだが、これを読む限り、被告は少なくとも原告地図の「地図」としての部分は何ら加工することなく利用している、といわざるを得ず、被告側は本件訴訟において、もともとかなり厳しい状況に置かれていたといえるだろう。

そして、裁判所も、お約束のように被告側が争った原告地図の著作物性に関し、

「一般に、地図は、地形や土地の利用状況等の地球上の現象を所定の記号によって、客観的に表現するものであるから、個性的表現の余地が少なく、文学、音楽、造形美術上の著作に比して、著作権による保護を受ける範囲が狭いのが通例である。」(PDF27頁、強調筆者、以下同じ。)

と、機能的著作物であるが故の限界を認めつつも、

「しかし、地図において記載すべき情報の取捨選択及びその表示の方法に関しては、地図作成者の個性、学識、経験等が重要な役割を果たし得るものであるから、なおそこに創作性が表れ得るものということができる。そこで、地図の著作物性は、記載すべき情報の取捨選択及びその表示の方法を総合して判断すべきものである。 」(PDF27頁)

と地図の著作物性の判断要素を示し、結論としては、

「本件改訂により発行された原告各地図は、都市計画図等を基にしつつ、原告がそれまでに作成していた住宅地図における情報を記載し、調査員が現地を訪れて家形枠の形状等を調査して得た情報を書き加えるなどし、住宅地図として完成させたものであり、目的の地図を容易に検索することができる工夫がされ、イラストを用いることにより、施設がわかりやすく表示されたり、道路等の名称や建物の居住者名、住居表示等が記載されたり、建物等を真上から見たときの形を表す枠線である家形枠が記載されたりするなど、長年にわたり、住宅地図を作成販売してきた原告において、住宅地図に必要と考える情報を取捨選択し、より見やすいと考える方法により表示したものということができる。したがって、本件改訂により発行された原告各地図は、作成者の思想又は感情が創作的に表現されたもの(著作権法2条1項)と評価することができるから、地図の著作物(著作権法10条1項6号)であると認めるのが相当である。」(PDF29~30頁)

と原告地図の著作物性を肯定した。

こうなると、後は結論までの一本道。

裁判所は原告地図の著作者は誰か?という争点における被告の主張*4や、「被告地図において原告地図の個性が埋没している」という主張*5を次々と退け、実に「96万9801頁」にわたる複製がなされたことを認定した上で、被告会社に複製権侵害の故意、被告Aにも悪意による取締役としての任務懈怠を認め、黙示の許諾等の抗弁もことごとく退けて、結果、

2億1296万0200円

という巨額の損害額を認定した*6

主張自体は認められても、戦の勝ち負けとしては・・・という事案も少なくない中、権利者にとっては胸のすくような「完全勝利」の判決だけに、原告が冒頭で紹介したような思いのこもったリリースを出したことも容易に理解できるところだし、本件の解決としてはこれでよいのではないかと思っている。


なお、個人的には、被告側が繰り出した様々な抗弁のうち、以下の抗弁については、おっ、と思うところもあった。

争点8(被告らによる原告各地図の利用に対する著作権法30条の4の適用の可否)について
「 配布員は、被告各地図の背景となっている原告各地図の表現を知覚したとしても、原告各地図における家形枠又はその記載方法(家形枠の線の太さ及び長さ、家形枠内に記載された居住者名等のフォント等)を鑑賞する目的ではなく、あくまで被告各地図に記載された配布エリア、配布数、空き家・廃屋の別、新築物件、新たに設置された道、家屋の入り口やポストの位置等の情報を享受する目的で、被告各地図を使用するものである。したがって、被告各地図にその下図である原告各地図の何らかの思想又は感情が残存していたとしても、被告らの利用方法はこれを享受することを目的とするものではないから、「当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合」(著作権法30条の4柱書)に該当し、被告らは、いずれの方法によるかを問わず、原告各地図を利用することができる。 」(PDF23頁)

争点9(零細的利用であることを理由とする原告の被告らに対する著作権行使の制限の可否)について
重量のある住宅地図の書籍を持ちながらポスティングを行うことは非現実的であり、配布員が原告各地図を下図とする被告各地図を持ち歩くことについて、それが原告の著作権を侵害する結果となったとしても、零細的利用として、原告の被告らに対する著作権の行使は制限されるというべきである。」(PDF24頁)

裁判所はそれぞれ、以下のように述べてバッサリと被告の主張を退けている。

「しかし、前記前提事実(4)のとおり、被告らは、各家庭に広告物を配布するポスティング業務を行うために、原告各地図を複写し、これらを切り貼りしてポスティング用地図である被告各地図の原図を作成し、ポスティングを行う配布員は、上記原図を更に複写したものを受け取り、これに記載された建物の位置、道路等の情報を基に、ポスティングを行ったものである。したがって、被告会社は、原告各地図に記載された建物の位置、道路等の情報を利用するために、原告各地図を複写の方法により複製したものであるから、被告会社による複製行為は、原告各地図に表現された思想又は感情を自ら享受し、又は配布員に享受させることを目的としたものであることは明らかである。」(PDF50頁)

「原告各地図に係る原告の著作権の行使が制限される法的根拠は明らかではないが仮に被告らが原告による権利の濫用を主張する趣旨であったとしても、前記3(2)のとおり、被告会社は、本件改訂以降に発行された原告各地図を合計96万9801頁も複製したものであり、本件全証拠によっても、そのような被告会社に対する原告の著作権行使が権利の濫用であるとの評価を根拠付け得る事実を認めることはできない。」 (PDF51頁)

「非享受利用」も「零細的利用」も、ここ数年、著作権法の世界でじわじわ使われるようになっているトレンドワードとはいえ、本件の文脈で被告が主張するのはいささか苦し紛れにすぎるように思われるところもあるし、これらのあっさりとした判断からは裁判所も同様の受け止め方をしたことは推察される。

ただ、「零細的」という言葉を使うにはあまりに量・質ともに複製のボリュームが多すぎた「争点9」の方はともかく、「争点8」に関しては、真面目に掘り下げて考えれば、今回東京地裁が指摘した、

「原告各地図に記載された建物の位置、道路等の情報」

を、「地図の著作物において表現された思想又は感情」といってしまうのはちょっとミスリードのような気もする*7

本件の被告側の行為の筋の悪さにかんがみれば、一審判決の細かい書きぶりにあれこれケチをつけたところで、結論は変わらないまま高裁で微修正されてそれまで、ということになるのは必定だろうが、もう少しきわどい機能的著作物をめぐる事案になれば、訴えられた側がこれらの抗弁を選択肢として使う可能性、そしてそれによって結論が動く可能性も皆無ではないと思えるだけに、もう少し状況を見守っていきたいと思うところである。

*1:原告は、「被告が原告の地図をトレースして住宅地図を作成した」と主張して損害賠償を請求していた。

*2:「土地宝典」に関する東京地判平成20年1月31日などは、地図の著作物性と保護範囲を考えるうえで、創作者が援用しやすい判断になっていると思うが、これも純粋な「住宅地図」というカテゴリーからは外れてくる。

*3:第29部・ 國分隆文裁判長、https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/250/091250_hanrei.pdf

*4:被告は、原告が地図作成にあたり調査を調査員や外部の会社に委託していること等を指摘して著作者性を争ったが、裁判所は「原告各地図は、原告の発意に基づき、原告の業務に従事する従業員及び業務受託者がその職務上作成したものであり、原告が自己の著作の名義の下に公表したものであるから、著作権法15条1項により、原告各地図の著作者は原告であると認められる。」(PDF33頁)とシンプルな著作者認定を行っている。

*5:裁判所は、「被告各地図は、原告各地図を適宜縮小して複写し、これをつなぎ合わせたものである以上、両者の創作的表現が同一であることは明らかであって被告各地図において、付票が貼付され、配布エリアを構成する部分が太線で囲まれており、原告各地図と比較して1枚の地図で表現する範囲が異なっているとしても、それらの点のみをもって、原告各地図の個性が埋没していると評価することはできない。 」(PDF39頁)としてこの主張もあっさりと退けている。

*6:原告は損害額6億4444万3240円と主張していたため、判決が認めた損害額はその3分の1くらいにとどまっているが、実際の訴訟上の請求は一部請求3000万円となっているため、結果的には満額認容判決、ということになっている。

*7:ここでは、あくまでどういう情報を地図上に表現するか、という選択に思想、感情が認められているだけで、情報それ自体に表現としての保護が与えられているわけではないはずである。もちろん、本件のようにデッドコピーした上での利用ということになると、原告側の「選択」にもただ乗りしていることになるから、「非享受」という抗弁は成り立ちえないように思われるのだが。

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