欅の向こうに一瞬だけ見えた1998年の幻。

昨年、エフフォーリアがダービーからの直行でこのレースを制したインパクトがあまりに大きかったから、なのか、今年は春のクラシックを沸かせた3歳勢が揃って同じ路線を選択し、そこを英国帰りの前年ダービー馬・シャフリヤール&札幌記念組が古馬を代表して迎え撃つ、という形となった今年の秋の天皇賞

上位5頭は単勝10倍を切るオッズとなり、「混戦模様」という言葉がしっくり来るレースとなった。

概して、こういう時は人気馬がお互い牽制し合って、淡々とレースが進むことも多いもの。

だが、そこで、そんな”予定調和”をぶち壊したのが、「世界の矢作」が育てた稀代の逃げ馬、パンサラッサである。

馬柱を見ただけでも、有力馬のジャックドールから、ノースブリッジ、バビットまで、重賞タイトルを持つ同型の馬たちがずらっと揃っていた中で、ノースブリッジとの先行争いを早々に制し、第2コーナーから向こう正面にかけて徐々にリードを広げていく。

さらに、最初の1000mのラップの「57秒4」という数字にざわつく人々を横目に小気味よく11秒台のラップを重ね、3コーナーを廻る頃にはもはや一人旅。
4コーナーを廻って直線に向いたときに後ろに広がっていたのは、まさに異次元のリードだった。

秋の天皇賞の舞台で、大欅の向こうを単騎で通り過ぎる馬影、といえば、往年のファンが思い出すものはただ一つしかない

まさかコンマ以下の数字まで同じだったとは見ていた瞬間は気づかなかったが、「57秒台」という数字と、あの「絵」を見ただけで「スズカ」の勝負服が蘇るのは、「神話」と同じ時代を生きた者の特権でもある。

www.nikkansports.com

ただ、自分は、最後の直線、残り400mの標識を過ぎてもまだ”セーフティ”に見えるリードを保ちながら走っているパンサラッサを眺めつつ、嫌な予感に駆られていた。

そのまま先頭でゴールを駆け抜けてくれるなら良いけど、もしこれで後ろから来た馬に差されたら、皆が20年以上見続けてきた夢はどうなってしまうのだろう、と。

そして、その嫌な予感は見事なまでに的中してしまった

今年のGⅠで何度となく繰り返された「届かないルメール騎手の差し」はこんな時に限って見事にハマり、敗れ続けてきた1番人気馬もこんな時に限って勝つ。

もちろん予想的には、追い込んできた2頭の3歳馬の方をしっかり押さえていたから、本当なら展開ハマって嬉しい!ということになるはずだし、レース自体、純粋に「見事」なものだったはずなのだが、ゴールの瞬間の興奮の後にどことなく感じた気まずさや如何に・・・。

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34年越しの残滓が消えた日。

それは思いがけないサプライズだった。

音楽教室のレッスンでの楽曲演奏が、日本音楽著作権協会JASRAC)による著作権使用料の徴収対象になるかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は24日、JASRAC側の上告を棄却した教師の演奏に対する著作権使用料の徴収を認める一方、生徒の演奏は徴収対象にならないとした二審・知財高裁判決が確定した。」(日本経済新聞2022年10月25日付朝刊・第43面、強調筆者)

9月に弁論まで開かれた上告審。

一審では原告だった音楽教室側の上告受理申立てが早々に退けられた、という情報は事前に耳にしていたし、最高裁が、JASRAC側が争っていた「生徒の演奏の演奏主体」の論点だけを拾い、しかも、(通常は高裁判決を逆転させる場合に行われることが多い)弁論までわざわざ開いた、ということになれば、「音楽教室側の全面敗訴」という結果を予測するのも当然のこと。

ましてや、事件が係属していたのは、悪い意味で”サプライズ”に乏しい第一小法廷である。

だから、高名な著作権法の先生方の批判もむなしく、再び、利用主体認定にかかる過去の最高裁判決(クラブキャッツアイ事件最高裁判決、ロクラクⅡ事件最高裁判決)が呼び起こされ、「生徒の演奏であっても演奏主体は音楽教室だ」という結論で締めくくられることになるのだろう、と諦念していたのは、決して自分だけではなかったと思う。

だが、そこで最高裁が放ったのは、驚くほどシンプルながら事実上歴史を塗り替えるようなインパクトを持つ、そんな矢だった。

最一小判令和4年10月24日(令和3(受)1112)*1

公表された判決PDFは、わずか2ページ。

そして、歴史を塗り替えたのは、その中の、たった一つの段落だった。

演奏の形態による音楽著作物の利用主体の判断に当たっては、演奏の目的及び態様、演奏への関与の内容及び程度等の諸般の事情を考慮するのが相当である。被上告人らの運営する音楽教室のレッスンにおける生徒の演奏は、教師から演奏技術等の教授を受けてこれを習得し、その向上を図ることを目的として行われるのであって、課題曲を演奏するのは、そのための手段にすぎない。そして、生徒の演奏は、教師の行為を要することなく生徒の行為のみにより成り立つものであり、上記の目的との関係では、生徒の演奏こそが重要な意味を持つのであって、教師による伴奏や各種録音物の再生が行われたとしても、これらは、生徒の演奏を補助するものにとどまる。また、教師は、課題曲を選定し、生徒に対してその演奏につき指示・指導をするが、これらは、生徒が上記の目的を達成することができるように助力するものにすぎず、生徒は、飽くまで任意かつ自主的に演奏するのであって、演奏することを強制されるものではない。なお、被上告人らは生徒から受講料の支払を受けているが、受講料は、演奏技術等の教授を受けることの対価であり、課題曲を演奏すること自体の対価ということはできない。 これらの事情を総合考慮すると、レッスンにおける生徒の演奏に関し、被上告人らが本件管理著作物の利用主体であるということはできない。 」(PDF2頁、強調筆者、以下同じ)

最初に来るのは、「規範を書け」とやかましい一昔前の司法試験予備校の採点者が見たら大目玉をくらわすんじゃないか、と心配したくなるような薄さの判断枠組み。それに淡々としたあてはめが続き、最後に出てくるマジックワード、「総合考慮」。

でも、これを最高裁の裁判官が書けば、立派な「事例判決」となる。

果敢にも債務不存在確認を求めて東京地裁に提訴し、5年越しで争ってきた原告に対して、これを「勝利」と言ってしまうのは何となく申し訳ない気分になるが、それでも「生徒の演奏の演奏主体は生徒」という、ごくごく自然な解釈が最高裁でも是認された意義は決して小さくないはずだ*2

さらに、最高裁がこの判断を下す過程で、34年前のクラブキャッツアイ事件判決はもちろん、ロクラクⅡ事件の判決すら引用しなかった、ということは、これから他のジャンルで「著作物の利用主体性」が争われた場合の様相をがらりと変える可能性を秘めている

思えば、録画ネット、まねきTV、選撮見録、そしてロクラクⅡ、と事件が花盛りだった時代から今日に至るまで、我々は著作物の利用主体性の判断に際して、「分かりやすい規範」を求めすぎていたのかもしれない

どこかで線引きしてほしい、という思いは分かる。裁判上の規範から適法なビジネススキームを考えたい、というニーズも未だに残ってはいるだろう。

だが、裁判所の本来の仕事は、目の前に置かれているあれこれをいかに片付けるか、ということに尽きるわけで、抽象的な「規範」を立てて(あるいは過去の「規範」を追求して)論じたところで、本件の解決としてはそこまでの意味はない。

そう考えると、まさに目の前の問題を片づけることに徹した今回の最高裁の姿勢は十分評価されるべきものではないか、という気がしている。

おそらくこれから調査官解説が公式に出るまでの間、今回の短い判旨をめぐって様々な解釈が飛び交うことになりそうだし、それまでの間、「利用主体性」をめぐって一戦交えようとしている当事者にとっても手探りの時期が続くことになりそうだけど、それも過渡期の宿命。

そして、この先「利用主体」の認定をめぐってどれだけ激しく争われることになったとしても、「昭和」の時代の判決が安易に持ち出されることはないと信じて「総合考慮」の土俵の上で戦えることの意味は、実に大きいのではないかと思う。

最後に、これまで”勝ち戦”しかしてこなかった管理団体に自ら戦を仕掛けることでこの国の著作権法の歴史に大きな足跡を残した一審原告に改めて敬意を表しつつ、これまでの歩みとして以下のリンクをご紹介して、本エントリーを締めることとしたい。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com
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*1:第一小法廷・深山卓也裁判長、https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/473/091473_hanrei.pdf

*2:おそらくは、今後、JASRACが徴収しようとする使用料の料率の妥当性や個々の音楽教室にそれを当てはめたときの金額の妥当性について、さらに激しいネゴが行われることが予想されるが、その際には、常に今回の最高裁判決が引き合いにだされることだろう。

父の数字に並んだ日。

快調だった夏競馬から一転、様々な雑音の影響もあってか、勝利からしばらく遠ざかってファンをハラハラさせた時期もあった今村聖奈騎手。

だが、10月10日、約1カ月ぶりの勝ち星を挙げ、翌週から三場開催のローカル場所に戻ってからは再びの勝ち星量産体制。

そして土曜日、22日に藤田菜七子騎手の持つ「女性騎手年間最多勝」に並んだかと思えば、翌23日には2勝を挙げ、一気に記録を過去のものとした。

これまで度々玄人観戦者たちを唸らせてきた彼女の騎乗技術とここまでの勢いを考えれば、「女性騎手」というカテゴリーで括られる記録などを目標に差せるのも失礼だろう、と思っていたし*1、実際、デビューしたのが3月だったにもかかわらず、8カ月目にして通年の記録をクリアしているのだから、結果的には「43」という数字などただの通過点に過ぎなかった。

ただ、同じ週末に「45」という数字まで勝ち星を伸ばしたのを見て、ふと思ったのは、「ああ、これでお父さんに並んだのだなぁ」ということ。

1997年にデビューした今村康成騎手が引退するまでの15年で重ねた勝利数は「45」。

競馬学校騎手課程13期生。派手なデビューを飾った武幸四郎元騎手はもちろん、秋山真一郎騎手、勝浦正樹騎手、といった個性あふれた腕利きたち*2が揃った代、しかも福永騎手、池添騎手といった将来を有望視された若手騎手たちが凌ぎを削っていた当時の栗東で騎乗機会を確保することは容易なことではなかったのだろう。

途中からはハードル専門騎手のような位置づけになっていたこともあって、メインレースで姿を見かけるような機会もほとんどなかった。

そんな父の騎手引退からちょうど10年経った2022年、愛娘は快進撃を続けている。

戦績の数字だけ見れば、親子の差は歴然。1年目の騎乗機会が僅か100鞍で1勝も挙げられなかった父に対し、娘は既に470鞍に騎乗。夏には初重賞タイトルを手に入れ、人生通算の勝ち星にまで並ばれた。

でも、それが実力の差か、と言われれば、そうではないこともまた明らかだろう。

父親が騎手として、そして引退後は調教助手として、築き上げた環境の下で育ってきたからこそ発揮できる力はある。

そこにあるのは、武幸四郎騎手や秋山騎手が1年目から白星を積み重ねたのと同じ構図。

今村聖奈騎手の凄さは、まだシーズンを2カ月以上残す現時点で、他のほとんどの「厩舎関係者二世」たちの1年目の数字に追いつき、追い越してしまったことにあるのだが、だからといって、父親まで追い越せたとは、本人も全く思っていないはず。

彼女がこのまま大きなアクシデントなく勝ち続ければ、歴代の新人騎手の勝利数上位者の記録も視野に入ってくるだろうし、メディアも当然、その数字が近づくたびにより報道を過熱させることだろう。

三浦皇成騎手の「91勝」は、今見ても「神が下りてきてたのか?」というレベルの数字だからさすがに厳しいだろうし、武豊騎手の「69勝」も、これまでのペースからは相当ストレッチしないといけない数字ではあるが、福永祐一騎手の53勝は既に射程圏に入っている。

そして、年が変われば、次に追いかけるのは女性騎手の歴代最多勝記録から、重賞、GⅠ勝利の記録まで、常に様々な記録に追い掛け回されるのもこの世界の常ではある。

だが、そんな記録を超越したところにあるのが、親と子の関係・・・。

父・今村康成騎手は勝利数こそ少ないが、現役時代に挙げた唯一の重賞勝利がGⅠ、それも最低人気馬で中山大障害を制する、という偉業を成し遂げている。

だから、本当の意味で「父の記録を超えた」というには、まだまだ時間がかかりそうだし、仮に今村聖奈騎手が近い将来GⅠタイトルまで手に入れたとしても、父の背中に追いつけた、と思えるようになるまでには、さらに長い時間がかかるだろうけど、騎手としてのキャリアと父親と同じくらいの年数積み重ねた時、彼女の口からどんな言葉が聞けるのか、ということを楽しみに、この長い長いドラマをもう少し眺めていくことにしたい。

*1:実際、6月の時点でそんなことを書いていた。新人騎手の快進撃が止まらない。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*2:そして、武士沢友治騎手、松田大作騎手、と今でも現役で頑張っている騎手が多い世代でもある。

地上の星より輝いた薔薇。

春の牝馬クラシックで二冠に輝いた今年の一番星、スターズオンアース

オークスの後、一頓挫あったと伝えられていたが、何とか秋華賞には間に合わせて、春から直行での三冠チャレンジ。

元々、何となくきれいな名前の馬だな、と思っていたのだが、この週末、馬柱をぼんやり眺めながらふと気づく。

この名前、意訳すると地上の星ではないか・・・。

いわずもがな、中島みゆき様の稀代の名曲。「プロジェクトX」とともに蘇る最強のイントロ。

桜花賞は7番人気、オークスは3番人気。自分も2回続けてノーマークだったこの馬が、今回1番人気に支持されたのも、多くの人々が馬名に隠された真意に気づいたからだったのかもしれない。

だが、今年のGⅠに関して言えば、「1番人気」は即、敗北に直結する

スタートで大きく出遅れながらも、最後の直線で馬群を縫いながら繰り出した上がり33秒5の末脚は実に見事・・・でも3着。
今年の平地GⅠ1番人気馬の宿命と、今年国内重賞はわずか2勝、GⅠもこの馬で取ったオークスだけ、というルメール騎手の勝ちきれない騎乗を見事に体現するようなレースになってしまった。

そして、二冠馬に代わって主役に躍り出たのは、華麗なる薔薇一族4代目ローザネイ起源)のスタニングローズだった。

2歳時から牡馬に混じって力走を続けていたこの馬。
3歳になって牝馬路線に転向してからは、オークス2着を除いて負けなし。前走の紫苑Sも勝って、大本命に名前が挙がっても不思議ではなかったのに、なぜかレース前、ナミュールの後塵すら拝する状況だったのは、悲劇の血筋を受け継ぐ者だったからなのか・・・。

第1回秋華賞のロゼカラーは、それでも人気薄で3着に飛び込んできただけ良かった。

気の毒だったのは、力走を続けながら最後までGⅠに縁がなかった弟・ロサードに、牝馬三冠もエリザベス女王杯もあと一歩届かなかった2代目・ローズバド

3代目になって、ローズキングダムが2歳GⅠでようやく念願のタイトルを奪ったものの、クラシックでは惜敗続き。そして、ジャパンCではブエナビスタ降着事件により優勝馬として名を刻むも後味は実に悪かった。

そういえば、あれからずいぶんと長い間、GⅠの舞台で「薔薇一族」の名を聞く機会には恵まれていなかったし、自分自身、あまり意識することもなくなっていた気がする。

実際、このスタニングローズ、という馬は2歳の最初の重賞の時からずっと見ているが、血統表に懐かしいロゼカラー、ローズバドの名が刻まれていることを意識したこともほとんどなかったのだ。

上位馬の実力が拮抗する中、坂井瑠星騎手の手綱に導かれ、先手先手で主導権を握った末に、1,2番人気を封じて先頭でゴールに飛び込んだ瞬間から、この馬の血のドラマも急に騒がれ始めた気がする。

懐かしい馬名が飛び交い、平成の、いや20世紀の競馬に逆戻りしたような感覚にすら襲われる。それが競馬の面白さであり醍醐味であることは否定しない。
ただ、そんな喧騒にオールドファンとしての心地よさを感じつつも、まずは今日のレース、この馬のレースが全てだよな、と思ったのも事実なわけで、「一族」よりも目の前の一輪のバラをまずは讃えなければならないだろう。

かつては”小柄”が代名詞だった薔薇一族*1も、世代を重ねて今や488kgの立派な馬体の牝馬を輩出するに至った。それをもって「薔薇一族らしくない」といってしまえばそれまでなのだけれど、個人的にはここから始まる新しい”薔薇”の歴史に期待を込めてみたいと思っているところである。

*1:ロゼカラーは426kgで秋華賞に出走、ローズバドも422kgでの出走だった。もっというと、ロサードの3歳春時点の馬体重は410キロに満たないくらいだったし、ローズキングダムですら450~460㎏のボリュームでGⅠを連戦していた。

何のための、誰のための政策か。

夏の参院選で盤石の地位を固めたか、と思いきや好事魔多し。ここに来て、様々な角度から現首相への批判が噴き出している。

それでも政策に関して言えば、長きにわたる安倍・菅時代と比べれば遥かにマシ*1というのが自分の率直な印象だったりもするのだが、この岸田政権下においても首を傾げたくなる政策が全くないわけではない。

その一つが、↓である。

岸田文雄首相は12日、5年間で1兆円を投じる「人への投資」について3本柱で進める方針を示した。転職者や副業する人を受け入れる企業への支援制度の新設や、働き手のリスキリング(略)に取り組む企業への助成拡大などを挙げた。成長産業への労働移動を促す。」(日本経済新聞2022年10月13日付朝刊・第1面、強調筆者)

ことこの発言については、「日経リスキリングサミット」というシンポジウムの中でのコメントのようだから、善解すれば、所詮は”リップサービス”ということもできるだろう。だが、昨今の報道を見る限り、現総理は、本気でこの施策を「柱」の一つにしようと考えているようだし、間もなく公表される予定の「総合経済対策」に盛り込まれる可能性も高い、ということが報じられている。

となれば、ここで出てくるコメントは一つしかない。

正気か?

「転職者」云々に関して言えば、これは視点の置き所が完全に間違っていて、元々、世の中全体を見回せば、「転職を一度も経験したことがない」という就業者の方が圧倒的に少数派だ。

これまで流動的な雇用市場が形成されてきた中小企業はもちろんのこと、今世紀に入ってから創業、上場したような会社では、相当な規模の大企業でも、今や中途採用者が当然のように要職を占めるようになっているわけで、今の若手社員たちのマインドを考慮しても、この先、雇用市場の流動性が高まることはあっても低くなることはあり得ない。

そもそも、多くの新興企業では、若手人材から管理人材まで慢性的な人不足が続いているわけで、そういう会社(数にすれば圧倒的多数)は、誰から頼まれるまでもなく、他社人材の引き抜き、受け入れに奔走している。

にもかかわらず、「受け入れる企業への支援」などと言われてしまうと、現政権の関係者は、財界に未だにこびりついているオールドトラディッショナルな企業の人々としか会話をしていないのか?と訝しがられても文句は言えないだろう。

また、より訳が分からないのが、最近はやりの「リスキリング」

人間は、好奇心を失わない限り、いくら年をとっても新しいものには興味を示すものだし、環境が変わればそれに順応するために、いろいろ工夫して”学び”を得ようとする生き物だと自分は思っている。(自分も含め)そういう人々にしてみれば、国だの会社だのがお膳立てを整えるまでもなく、自ら必要な知識を仕入れ、身に付けていくことに何の抵抗もないし、そもそもそんなにお金をかけなくても学べる機会はどこにでもある。

逆に「自ら学ぼう」という気持ちを失った人に、どれだけ手間暇かけて投資をしたところで、身につくことなどほとんどない、というのは、企業内で「人材育成」に少しでもかかわったことのある人なら、容易に気付いていることのはずだ。

それなのに、なぜ「国策」で、しかも「企業に対して」助成する、という迂遠な方法で、貴重な財源をばらまこうとするのか・・・。

この1年くらいの間に、名だたる大企業が「全社員を対象に『DX』の基礎を学ぶ研修を実施」といったニュースを見かける機会が増え、そのたびに、底知れぬ違和感に襲われた。

全員がソフトウェアエンジニアになれるようにコードの読み書きから教えるにしては、各企業が費やしている時間は明らかに足りていないように思われるし、いかに「DX」の時代だからといっても、社員全員を開発エンジニアにする必要などあるはずもない。

おそらく、実際に行われているのは、かつて一時期はやった「知財教育」とか、今でも様々なところで行われている「コンプライアンス教育」のように、通り一遍の知識を眺めて終わり、というレベルなのだろう。そして、受講する側はもちろん、実施させられている側も「なんでこんなことやらないといかんのだ」と愚痴りながら、経営幹部層に「やってます」とアピールするために泣く泣く教育の準備をしている、そんな構図さえ目に浮かぶ。

そこに「助成」をぶち込むというのだから、今の政権はなんとお人よしなことか・・・。

巷で語られているような「人的資本の強化」が、今も昔も経営の最も重要な要素の一つであることは疑いようもないし、自分をそれを否定するつもりは全くない。

ただ、そのために誰がどのような役割を果たすべきか、ということに関して言うと、”ただの雇い主”に過ぎない企業側にできることなどたかが知れていて、唯一できることとしては、仕事に必要なスキルを正しく身に付けた者を適切に評価し、処遇する、ということくらいしかないだろう、と自分は思っている*2

だから、そういった本質的な議論を前面に出さずに、あたかも「所属企業に教育の機会を与えさせる」という極めて不効率な手法にこの国の「人的資本」の将来を託そうとしているかのように見えてしまう現状に接すると、嘆かわしい気持ちにしかならない。


もちろん、この政策が実現すればそれで喜ぶ産業は必ず存在するわけで、そういった産業の関係者にしてみれば、これはまさしく天から降ってきた賜物以外の何物でもないのだけれど、そういった人々を喜ばせるだけの政策に貴重な財源を投入する、ということに関しては、これまでの議論を何度読み返しても、腑に落ちないところが多い。

時の首相が言い始めてしまった以上、すぐに路線変更ということにはならないのかもしれないが、過ちを改めるに遅すぎる、ということはない。
今はこう言っていても、どこかで軌道修正されることを信じて、発足1年ちょっとの今の政権を温かく見守ることにしたい。

*1:こと内政に関しては、あの10年弱の”八方美人”的政策がこの国にもたらしたダメージは果てしなく大きい。現首相に対しては「何もしない」といわれるが、「民」が「民」の世界で解決すべき事柄については「何も手を出さない」というのも立派な政治姿勢だと自分は思っている。

*2:それができていないからこそ、歴史のある大企業から若手、中堅社員が次々と離脱し、穴を埋められずに苦しむ、という事態が続出することになるわけだが・・・。

久しぶりに、震えた。

昔々、贔屓球団の勝ち負けが自分の生活の中心を占めていた時代があった。

始まりは、「勝てば嬉しい、負ければ悔しい」という単純な話だったのだが、そのうちあまりに負け続ける姿を見すぎたために、下手に勝ったりするとかえって落ち着かず、夢じゃないかと一晩中全局のスポーツニュースを見まくって寝不足になり、間違って優勝争いに絡もうでもしようものなら、それこそ全てを放り投げて東京ドームやら神宮球場やらに駆け付ける(当然応援するのはアウェーのチームである)、なんて時代もあった。

学生を経て社会人になり、その辺の熱は多少は冷めてきたとはいえ、それでも自分の前で無防備に在京セ・リーグ球団を讃えるのは長らくタブーだったし*1、2003年、星野仙一監督が奇跡のリーグ優勝を遂げたときは、直前まで歓喜の渦に混じる気満々で、道頓堀の近くに一週間ステイしていたくらいだった。

だが、どんな思いもいつかは醒める。

他の強豪球団と同様に運営会社が真面目にチーム編成を考え始め、毎年「そこそこ勝てる」チームになってしまったことは、長年染みついた”判官贔屓”的感情には決して良い方向に作用しなかったし、生粋の虎戦士だった名将・和田監督に代えて指導経験の乏しい金本を監督に据えた結果チームが迷走した、というのも、かなり決定的な出来事ではあった。

そのうち、球場に足を運ぶことはもちろん、リアルタイムの映像で試合を見る機会もなくなり、テレビのスポーツニュースさえ見なくなって、気が向いたときにネットの速報をチェックして淡々と結果を知るだけの日々に。

もちろん、ペナントレースが終盤に差し掛かり、CSシリーズが始まる頃になれば、普段よりは結果を凝視するようになる。

でも、それも毎年の勝った負けたの世界。もともとリーグ優勝が決まった後に、おまけみたいなシリーズをやるのはどうなんだろうな、と思っているところもあって、どこかしらか引いてみていた。

それなのに・・・

*1:特に相手が「巨人ファン」を公言した時は、相手が上司だろうが社長だろうが追従するなんてとんでもない、露骨に不愉快な表情でチクチク嫌味を言いだしかねないので、そういう話題になりかけたときは、とっさにオリンピックからサッカー日本代表の話題に変えてしまうのが自分の得意技だった。

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時価総額だけが「価値」じゃない。

新型コロナ禍はようやく終息に向かいつつあるものの、欧州の戦火は止まず、この2年の間の「経済対策」とサプライチェーンの歪みが世界的なインフレを招き・・・と、依然として落ち着かないのが各国の金融、株式市場。

そして、まさにその犠牲、とも言えるような話が、今週の日経紙で報じられている。

東京証券取引所が「プライム」「スタンダード」「グロース」の3区分に市場を再編した4月4日から半年が経過した。焦点となってきたのが上場基準を満たさぬまま経過措置として新市場に上場した549社の「暫定組」だ企業価値向上の取り組みを進め、うち約1割が基準を超えた。暫定組全体は6割が時価総額を減らしており、投資家の目はなお厳しい。」
「4月時点で、基準を満たさないままの企業は3市場で549社あった。東証によると9月末までに、うち約1割にあたる65社が基準を超えた。」
日本経済新聞2022年10月4日付朝刊・第3面)

東京証券取引所は7日、東証株価指数TOPIX)の算出方法を見直して493社の構成比率を引き下げると発表したTOPIXを構成する旧東証1部上場の2168社のうち2割強が対象になる。流通時価総額が100億円を下回った企業で、プライム市場は205社、スタンダード市場は288社対象企業はTOPIX運用の資金流入が減り、株価の下押し要因になる。」(日本経済新聞2022年10月8日付朝刊・第7面、以上強調筆者、以下同じ)

まず、昨年からさんざんこのブログでも取り上げている「新市場区分」の話で言うと、4日付の日経紙の記事は間違いではないが、今起きていることを正確に伝えきれているとはいえない

基準をクリアした会社が一定数あるのは事実*1、計画書を更新した会社の多くで流通時価総額が減少しているのも事実だが、それ以上に今問題になっているのは、

「21年6月末の段階では基準をクリアしていたのに、この一年の相場低迷で基準を割り込んでしまった会社が出てきている」

という事態だからだ。

既にこれまでに「基準不適合」を新たに公表した会社だけ見ても、プライムで12社、スタンダードで9社、グロースで3社。

目下の相場の低迷状況を考慮すれば、これから9月、12月・・・と決算期を迎えるたびに、新たに「計画書」の公表を余儀なくされる会社が出てくることは疑いようがないし、来年の3月期を迎えたときにどうなるか、ということは容易に想像がつく。

加えて、それに輪をかけるような東証TOPIX外し」

それでもプライム上場会社であれば、恥を忍んでスタンダード市場に鞍替えすればよいだけの話だが、スタンダード市場の上場企業で基準をクリアできない、となれば、あとはどこかにTOBしてもらうなり、MBOで自ら退場するなり、といった出口を探すほかなくなってしまう。


永遠に続く市況低迷はない。

楽観的なシナリオの下、世界中のお金のめぐりが良くなって、相場が活況を呈するようになれば、今決して少なくない会社が抱えている「基準適合」に向けられた悩みもいつしか雲散霧消するのかもしれない。

ただ、問題なのは、そういった自らではコントロールできない相場環境による株価の上下動、という事態に、企業経営者が一喜一憂しなければならないことではないかと自分は思っている。

机上でしかものを考えない学者の視点でみれば、「良い経営をして資本効率を向上させ、利益率を引き上げれば自然に株価は上がる」ということになるのかもしれないし、自ら事業を営まない証券業界関係者も同じことを言うのかもしれないが、長く投資をしていれば、現実の市場の株価がそんな単純な理屈で動いていないことはよくわかるはずだし、何より、上記のような「教科書的な経営」が常に企業とそのステークホルダーに幸福をもたらすわけではない、ということも数々の歴史が証明している。

オフィシャルな存在に見えて、その内実は一民間機関に過ぎない、というのが「証券取引所」というプラットフォームだから、その上場基準をどう設定しようが自由、といわれてしまえばそれまでなのだが、それでも日本を代表する「市場」として、この国の企業文化をどういう方向にもっていくのか、特に、社会を下支えしている中堅企業の経営者たちに、何を目標に「経営」をさせるべきなのか、ということは、よくよく考えていただきたいな、と思う次第である。

*1:もっとも、流通時価総額を引き上げてクリアした会社はほとんどなく、多くは大株主の売却や自己株式処分による「流通株式比率」の基準クリア事例だったりする。

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