悪夢の終わり。

年をまたいで、随分と長い間、悪夢のような日々が続いていた。
ここ数週間だけでも山あり谷あり、で、想像を絶するような嵐が吹き荒れた。

いずれ落ち着いた頃、一連の経緯を活字にして世に出す日が来ることになるかもしれないが*1、今分かっていることは、新しい年度とともに、ようやく、この塗炭の苦しみからも逃れられる、ということ。

そして、目の前に広がる肥沃な大地に自由に足を踏み入れる権利をようやく手に入れることができた、ということに、ささやかな喜びも感じている。

夜明けの来ない夜はない。その言葉を信じて、これからも自分は生きていく。

*1:残念ながら、今それをするには気力も体力も失われすぎている、というのが、現状である・・・。

つかの間、ゆっくりと時が流れ・・・。

一年12カ月の中では、一番ゆったりと時が流れている気がする8月。
自分も含めて、皆が代わる代わる休暇に入っている感じで、人が揃わないから仕事のペースも何となくのんびりムードになる。

もちろん、ここで仕事が足踏みしたツケを秋以降に払うことになるのか、これまでの経験からすれば火を見るより明らかなのだけど、年がら年中、救命病棟のような仕事をしていたらそれこそ体が持たないから、せめて一年365日のうちの30日に満ちるか満たないかくらいの間だけでも、こういう時間があると嬉しい。

もっとも、時間に余裕ができたからといって、溜まっていたあれこれをサクサク片づけられるか、と言えば、なかなかそういうわけにもいかないわけで、朝から晩まで飛び込んでくる仕事に追われている時と比べると、周りのテンポが遅い分、自分の頭も体もそれにつれて思うようには動かなくなっている、という悲しさ・・・*1

どんな時でも同じように、コンスタントに淡々と仕事をこなせる人がこの世にどの程度いるのかは分からないが、少なくとも自分がその類の人間ではない、ということは、しみじみと感じずにはいられない。
そして、自分自身のこれまでの人生をなぞっても、まぁそんなものだったな、というところで、「必死に膨大な仕事と格闘していた」という期間は、自分の社会人人生の半分にもたぶん満たない*2

猛暑がいつも以上に早く日本列島を襲ってきた今年の夏が、既に早々と終わりを迎えようとしているのと同じで、物事すべからく“バランス”はあるし、最初から走り続けていようが、最初のスタートがゆっくりだろうが、どこかで帳尻は合うものだ、と自分は思っているのだけれど、自分のやりたいこと、やらねばならないことだけは、どんな状況でも淡々と継続してやり続けられるような技巧はもっと磨かないといけないな、と思う今日この頃である。

*1:このブログの更新にしても、まぁまぁ忙しい時の方が書いている記事の数も質も高くなっている、というのが現実で(さすがに数日間家に帰れないほど忙しくなると、当然更新も止まるが・・・)、会社を出られる時間も普段より2時間くらい早まっているにもかかわらず、一向に更新記事の執筆に向けるエネルギーが湧いてこない自分がもどかしい。

*2:もちろん、そういう期間が後半に集中しているからこそ、今これだけ苦しい思いをしているのだけれど。

「平成」の時代とともに葬り去られた事件史。

金曜日、突如として飛び込んできた「麻原彰晃の死刑執行」のニュース*1
そして、今朝の朝刊を見て、この執行が、元教祖だけでなく当時、新聞、雑誌等で名前を見かけない日がなかった元教団幹部たち6名に対しても同時に行われたことを知った。

法務省は6日、地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教元代表松本智津夫死刑囚(麻原彰晃、63)ら7人の死刑を執行したと発表した。一連の事件で死刑が確定した元教団幹部ら13人の中で初の執行となった。1995年の逮捕から23年。2019年5月の改元を控える中、未曽有のテロや凶悪事件の「平成」決着をにらみ、執行時期を探ったとみられる。」(日本経済新聞2018年7月7日付朝刊・第1面)

事件からもう23年。元代表の刑の確定により、裁判が事実上終結してからも、かれこれ10年くらいの月日が流れている。
元号が変わってからまだ10年に満たなかったあの頃、不幸な出来事が連鎖する時代背景の中、まだちょっとだけ残っていた新しい時代への期待感は「オウム真理教」「サリン」という言葉と共に雲散霧消した。まさに、あの事件は「平成」という時代の運命を決定づけるほどのインパクトがあった事件だったわけだが、今、あの頃の雰囲気がどれだけ正確に伝えられているか、そして、あの頃「謎」とされていた様々なことが、時代の経過とともにどれだけ解き明かされたか、といえば、何とも心もとないところがある*2

自分は決して「死刑反対派」ではない。
むしろ、故意に凶悪犯罪を犯したことが客観的に証明されていて、かつ、自省の念すら示さない者に対しては、極刑をもって処するのが当然、という思想の持ち主である*3

だから、松本智津夫死刑囚に対する執行や、未だに教祖への帰依を続けている死刑囚(実際にいたかどうかまでは承知していない)に対する執行を不当、というつもりは毛頭ないのだが、様々な出来事のディテール、特に、「事件」にならなかった教団組織内でのあれこれが必ずしも全て解き明かされていない状況で*4、今、全ての「生き証人」たちを闇に眠らせる必要があったのか・・・。

法に則った刑事訴訟の手続きが尽くされていればそれでよし、裁判上の記録に残され裁判所が判決で認定した事実が全て、という刑事司法の建前を承知しているからこそ、最後まで「周辺」からしか事件の核心に迫ることができなかったジャーナリズムの非力さを感じざるを得なかった*5

*1:もっとも翌日の朝刊にすぐに「特集」記事が掲載されたところを見ると、大手のメディアは既にこの動きを事前に知らされていたか、察知していたものと思われる。

*2:自分が8年前、当時の事件の回顧記事を見て記したエントリーが、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100320/1269231039だが、あの頃の違和感は未だ消えていないし、あの事件が「テロ」というフレーズで普遍化されればされるほど、むしろ強まっている。

*3:人間の「生命」がいかに重大な法益だとしても、自らが犯した第三者に対する法益侵害との比較衡量によって、その価値を否定されることがあるのはやむを得ない、という考えに立っている。

*4:なぜなら、これまでに「回顧」録を出している人々は、核心となる事件の最中に「本丸」にいなかったり、仮にいたとしても「周辺」からしか物事を見られなかった人たちだから。

*5:もっとも、終焉の地に移送される直前まで、彼らと接触していた人々は少なからずいたようだから、この後、一つ二つ、“肉声”で核心を解き明かそうとするメディアが出てきても不思議ではないし、そういう動きが出てきてほしい、と自分は密かに願っている。

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京大「立て看」闘争に思うこと。

今年に入ってからAIスピーカーが順調に稼働していることもあって、ここ数か月、ラジオは聞いてもテレビは見ない、ラジオもヘッドラインニュースだけ聞いて後は音楽、という生活になってしまった*1

元々、10年以上ブログをやっているにもかかわらず、ネットニュースはスポーツネタしか拾わない人間なので、そうなると、すっかり世事に疎くなる*2

そのせいか、京都の吉田寮周りで立て看板撤去騒動が起きている、ということも、その騒動の元にあるあれこれも、この週末になって初めて知ることとなった。

大学当局が看板撤去を強行し、学生が負けじと反撃の応酬。
環境重視か、表現の場の重視か、等々、大上段に構えたらいろんな議論はできるわけで、無関係の人間から見たら面白いことこの上ないネタなのだが・・・。

*1:そもそも音楽を聞く暇すらなく、家に帰ってからスピーカーと最低限の会話を交わしてお休み・・・という日がほとんどだったりもするけど。

*2:もちろん某経済紙だけは毎日読んでいるから、王道的なビジネスニュースだけは目にするのだけど、それ以外のネタにはすっかり疎くなってしまった。

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早すぎる時の流れの中で 〜7度目の「3・11」

ここ数年、3月に様々な出来事が集中していて、ブログもろくろく更新できないことが多いのだけれど、そんな中でもこの3月11日だけは必ず何か一言は残すようにしている。

ついこの前のことのように思い出されるあの日から、1年、2年、3年・・・と確実に時は過ぎ、とうとう数えてみたら「7年」。

自分の仕事は、あの頃も今も本質的に大きくは変わっていないし、身の周りの環境にも大した変化はない。
それゆえに時の流れを感じようがなかった、といえばそれまでなのかもしれないが、震災後のよもやまにいろいろとかかわってきた者にとっては、「消滅時効特例法」が可決されて「3年→10年」になった時の安堵感*1もあと3年しか続かない、ということに、少なからぬ衝撃を感じている。

毎年「被災の爪痕」を伝えてきた各メディアでも、日経紙が1面に「(被災都市が)中心部をコンパクトに再建」という記事を載せたように*2、かなり前向きなムードが前面に出ているのは確か。

忘れ去られ、消え去るよりは、前向きなニュースとして取り上げられる方が地域にとってもメリットは大きいのかもしれない。

ただ、どれだけ時が経っても、かの地には、未だ様々なもやもやが渦巻いている。
そして、そういった感情、魂の部分を抜きにしても、「災後処理」がまるで終わっていない分野がある、ということは、決して忘れられてはいけないと思っている。

金銭では取り戻せないものがある以上、どこまでいっても「完全な賠償」というものはあり得ないのかもしれないけれど、せめてそこに少しでも近づけるように。
そして、“フクシマ”という限られた地域に対してだけではなく、日本という国そのものに痛すぎる爪痕を残したあの事故の教訓を決して風化させないようにすることは、自分も含め、災後を生き続ける全ての者に課せられた義務、だと思うのである。

*1:当時のエントリーは、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20131227/1388593404

*2:個人的には、取り上げられた地域の市街地の姿(「中心部」といっても、人が暮らすために活用できるエリアは決して広くなく、昼夜に賑わっているエリアは極めて小さい)も目に焼き付いているだけに、「人口密度が増えた」といったところで統計誤差の範囲内のレベルに過ぎないでしょう・・・という溜息はどうしても出てきてしまうのだが。

「星野仙一監督」が残したもの。

新年早々追悼エントリーが続いてしまうのだが、やはり、土曜日の朝に一報を聞いて、一言触れずにはいられなくなった。

プロ野球中日のエースとして活躍し、監督としても中日、阪神楽天を計4度のリーグ優勝に導いた星野仙一(ほしの・せんいち)さんが1月4日午前5時25分、病気のため死去した。70歳だった。」(日本経済新聞2018年1月6日付夕刊・第9面)

星野仙一」という名前を聞いて何を思い浮かべるかは、人それぞれだろう。
自分などは、やっぱり、2003年のリーグ優勝で、長年耐えることしか知らなかった「タイガースファン」にようやく日の目を見させてくれた、という思いが一番なのだが、東北の人々にはまた一段と異なる思いがあるだろうし、一方で、名古屋の人にはまた異なる感情もあることだろう。そして、中日、阪神楽天のいずれの球団にもシンパシーを感じない人々には、よりシニカルな感情が渦巻いているのかもしれない。

まだ投手分業制が確立していなかった現役時代、決して盤石の体制が整っていたとは言えなかった球団で、先発にリリーフにフル回転して残した146勝34セーブ、という成績は決して悪い数字ではないし、監督になって以降の通算1181勝、という数字も、歴代上位10傑*1に入っている。

選手時代にはリーグ優勝&沢村賞投手となり、監督になってからも率いた全てのチームでリーグ優勝を達成。最後の最後では、楽天で巨人を倒して日本一にも輝いた。
不幸な解任劇の犠牲となる監督も多い中、阪神でも楽天でも退任後にフロント入りして影響力を残せる栄誉に預かり、昨年、遂に野球殿堂入りまで果たしている。
野球人として、皆が欲しがるものはほとんどすべて手に入れた、と言っても過言ではない。

もちろん、いかに追悼記事だからといっても、誉めすぎかな、と感じるところはある。

特に、あちこちで飛び交っている「名将」という言葉は、星野監督が率いていたチームの熱狂的なファンだった者であればあるほど、すんなりとは受け入れられないところがあるはずだ。

いわば「アンチ巨人」のアイコンとしてのイメージをフルに活用してメディアを味方に付け、球団幹部や支援する財界人と強力なパイプを築いて、選手補強でもコーチ陣の編成でも常に首尾よく事を運ぶ。
だから、星野監督が就任すると、あっという間に「別のチーム」に生まれ変わって、それまでの低迷が嘘のような快進撃を始めるのであるが、他球団が羨むような戦力を抱えながら、特徴のない采配で、競った試合では星を落とすことも多かった*2

「勝てる」というか「勝たないと」というムードを作り出すのが上手だったのだろう。
それゆえ、チームを勢いに乗せた時はとてつもない強さを発揮したが、そこで酷使された選手が一人、二人と戦線を離脱すると、それを跳ね返す策までは持ち合わせていない。
そして、現場の指揮官として何よりも致命的だったのは「短期決戦での弱さ」だった。

シリーズ仕様の柔軟な投手起用ができない、スランプに陥っている選手をそのまま使い続けて“逆シリーズ男”にしてしまう・・・*3
それが、北京五輪での野球日本代表(特にG・G佐藤選手)の悲劇につながったところはあるし、仙台で再度チャンスを与えられ、田中将大投手、という一人で全てを決めてしまう超人的スターに恵まれていなければ、そのまま“汚点”として残ってしまった可能性もある*4

今となっては、それも故人の“情の篤さ”の現れとして、前向きに語られることになるのだろうけど、その“情”にしても、全ての選手、コーチに対等に向けられていたわけではないような気がする*5

ということで、何でもかんでも美談にされてしまうとちょっと引き気味になってしまうのだが、それでも世の中は、残された数字と作り上げられたイメージが全て。

現場だけでなく裏側も味方に付けて、「勝てるチーム」でのべ17年間指揮を執り続けた故人の真のマネジメント能力に対し、抱くのは敬意だけである。

できることなら、これからの追悼一色のムードの中で、グラウンド上での「監督」としての姿だけではなく、「勝てるチームを自ら築いた策士」としての星野仙一氏の実像が描かれることを願ってやまない。それが、今、もがきながら“現場”を率いている中間管理職(自分も含め)にとっての一つの気づきになるように思えてならないから・・・。

*1:長嶋茂雄氏より上だろうとは思っていたが、川上哲治氏を上回る数字、というのは凄い。

*2:戦力で劣るチームに策を授けて勝たせる、という点では、阪神楽天の前任者(野村克也監督)の方が遥かに優れていたし、整えられた戦力の中でさらに選手を育てながら勝つ、という点で、指揮官としての能力は、同じ中日でも落合博満監督時代の方が遥かに高かったと思う。

*3:実のところ筆者も、2003年は「日本シリーズだけでも野村監督に采配を振るってもらえないものか・・・」と嘆いたものだった。

*4:あの2013年のポストシーズンにしても、第6戦、第7戦での田中投手の起用法は、決して誉められたものではなかった。結果的には「美談」になったから良かったものの・・・。

*5:中日時代は、選手としてもコーチとしても、小松辰雄に対してはとにかく冷淡だった印象があるし、阪神時代も重用したのは移籍組で、薮、川尻といった長年の功労者は脇に追いやられていた。楽天時代にも山崎武司選手が放出の憂き目にあっている。その意味で、若手選手の人心を掌握して育てた、という美談は、確執を起こしそうなベテランを権力を使ってスポイルする、という手管と表裏一体だったようにすら見えてしまう。

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