終戦記念日に一冊。

5年を一区切りと考えれば、節目の年に当たる今年の終戦記念日だが、例年以上に静かに過ぎ去っていってしまったような気がする。


これが時の流れ、といえばそれまでなのだが、せめて年に一度くらいは思いを巡らせてみる必要があるだろう、ということで、8月に入ってからこの日に向けて、浅田次郎氏の↓の最新刊を読んでいた。


終わらざる夏 上

終わらざる夏 上


終わらざる夏 下

終わらざる夏 下


浅田氏はあくまで小説家であってノンフィクション作家ではないから、上記作品も、ルポルタージュでも“戦史”でもない、ただのフィクションに過ぎない、ということは最初に断っておかねばなるまい。


そして、本作品が、「背景設定のある程度の部分までは、丹念な取材に基づく(であろう)細かいディテールが描かれていても、途中から作者の強い思い入れが前面に出て、最終的にはフィクション&ファンタジーの世界に落ち着くことが多い浅田氏の作風」を象徴するような作品であることにも留意する必要はあろう。


小説の手法としては有効なこの手の手法も、使われている素材がセンシティブなテーマの場合には、読後感を微妙なものにするのは否めないわけで、本作品に関しても、上巻の終盤から下巻にかけて、“ファンタジー色”のあまりの強さに当惑せざるを得なかったのは事実である*1


終戦間際で、大戦の勝敗の帰趨もほぼ見えていた時期、という特殊な時代設定があるとはいえ、登場するすべての人物に(結果的に相対することになるソ連兵にまで)、“厭戦””反戦”的な感情を露呈させ、行動させているあたりは、これを“ファンタジー”と言わずに何と言おう・・・*2

*1:この辺りの評価は、Amazonの書評欄に書かれている評価に激しく共感する。多彩なエピソードを取り込み過ぎて主題がぼやけた、等々の評価についても。

*2:この辺りは軍部指導層=「悪」、それ以外の国民=「被害者」という戦後の歴史観の顕れかな、と思ったりもする。

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改正臓器移植法初適用事例に思うこと。

臓器移植法改正をめぐって、党派を超えた議論が繰り広げられたのはもう一年前のこと*1


結局、法案は可決成立したものの、その後の政権交代等もあって、大きな議論が湧き上がることもなく静かに施行日(平成22年7月17日)を迎えていた。


そして、一昨日くらいから、「本人の書面による意思表示がなくても、家族の承諾で脳死判定し、臓器を摘出することができる」という改正法のキモを初適用した“画期的事例”が、あちこちで報じられている。

日本臓器移植ネットワーク(東京・港)は9日、20代の男性患者が病院で脳死と診断され、家族の承諾のみで臓器提供を実施すると発表した。関係者によると病院は関東地方。男性は家族に口頭で提供の意向を示していたが、意思表示カードなどはなく、7月17日に施行した改正臓器移植法に基づく初のケース。」(日本経済新聞2010年8月10日付朝刊・第1面)

一応、改正法の内容を確認しておくと*2、従来、

第6条第1項 
 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる
第3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。

とされていた規定を、

第6条第1項
 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
第1号
 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
第2号
 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
第3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
第1号 
 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないとき。
第2号
 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合でありかつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき。

と改めたのが昨年の改正であり、従来死亡した者の明示的な意思がなければ決して成し得なかった臓器移植を、「移植のために臓器を提供する意思がないことを表示している場合(及び「脳死判定に従う意思がないことを表示している場合」)」を除いて「家族の承諾だけ」でできるようにした、というのが、改正の趣旨であることが分かる。

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20090623/1245774330など参照。

*2:エストロー社が提供している現改比較表が分かりやすいので、挙げておくことにしたい。http://www.westlawjapan.com/laws/2009/20100717_83.pdf

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「1人1票実現国民会議」への疑問

以前日経紙上で升永英俊弁護士が予告していた“運動”が遂に立ち上がって、活発な活動を始めたようである。

「1人1票実現国民会議」(http://www.ippyo.org/index.html

上記ホームページに飛んで行くと、

衆議院選挙と同時に行われる「国民審査」という制度では、
最高裁判所の裁判官を信任するかどうかを、有権者ひとりひとりが決定できます。
ここで、今の「一票の不平等」を「合憲」と判断している裁判官に対して
多くの人が「不信任」の意思を示せば、裁判官が考えを変えることも十分に考えられます。
次の国民審査で審査の対象となる裁判官のうち、
「一票の不平等を定める公職選挙法は合憲である」(2007年最高裁判決)
という意見の裁判官は、以下の2名です。
那須弘平裁判官、涌井紀夫裁判官
あなたは彼らを信任しつづけますか?
http://www.ippyo.org/question1.htmlより引用、太字筆者)

という、相当印象的なフレーズが掲載されていたりするし、日経紙の7日夕刊のコラム(「ニュースの理由」)では、上記団体の言い分を全面的にバックアップするような形の記事が三宅伸吾編集委員によって書かれていたりもする*1


なので、もしかすると、この動きがこれから8月末に向けての新しいムーブメントになるかもしれないのであるが・・・

*1:紹介されているコメントが、国民会議のそれに加え、久保利英明弁護士、川本裕子早大教授、と同会議メンバーのものだけで埋め尽くされている、というのは、冷静な日経紙(笑)にしては、極めて珍しい出来事だと思う。

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「エリート」は「没落」したのか?

CX系の土曜深夜ドラマ枠に、今クールから堂本剛主演の「33分探偵」というドラマが登場したのだが、いろいろとぶっ飛んでいてなかなか面白い*1


この先どうなるか分からないが、初回のストーリーで出てきていたこのドラマのキモを簡単にまとめると、

「明らかに犯人が分かっている事件であるにもかかわらず、主役の探偵が荒唐無稽な推理を連発することによって、ドラマの時間枠いっぱいまで「解決」を先延ばしする。それゆゆえに「33分(ドラマの時間枠)探偵」。」

ということのようである。


で、見ていてふと思ったのが、いわゆる社会科学系の学問、特に“社会学”と称される学問分野において、最近展開されている議論の中にも、同じようなパターンで展開されているものがあるんじゃないか、ということ。


もちろん、「科学」を冠する学問である以上「当たり前の結論」であっても、それを導くために実証データを踏まえた丁寧な議論が求められるのはいうまでもないことで、そのような過程の存在をもって、“迂遠だ”と批判するのは適切ではないだろう。


それに、新聞・雑誌記事や新書、ブログでのコメント等、我々が身近なところで触れることができるこの種の議論においては、掲載スペースに制約があったり、一般人向けの分かりやすさが重視されていたりするから、議論の展開に説得力を持たせるために必要となる丁寧な議論やデータが省略されていることも多く、そのような“ダイジェスト版”のみを見て学問そのものに批判を加えるのは失当、というべきなのかもしれない。


だが、“素人”であるがゆえの失礼を承知で言えば、やっぱり何でもかんでも「社会」のあり様に原因を求めて、本来は単純に解決できそうな問題を延々と本一冊分論じてしまうような議論を見かけると、「33分探偵」ならぬ「330頁学者」(大体単行本一冊だとページ数はこれくらいだろうから・・・)なんて揶揄したくもなるものだ。

*1:この辺は好き嫌いが激しく分かれるところだと思うが(笑)。

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「より働き、より稼ぐ」

というわけで、フランス大統領選はサルコジ氏の圧勝となったわけだが、ある意味、自由資本主義社会では当たり前のはずの冒頭のフレーズが選挙のキャンペーンになってしまうあたり*1、現代のフランスの病理を感じるかなぁ、といったところ。


労働時間を減らしてワークシェアリング、とかのたまっているこの国の論者の方々にも、これからのフランスの変わり様をしっかり見ていてもらいたいものだと思う。


まぁ、元々そんなに好きな国ではないので、サルコジ流の改革がうまくいこうがいくまいが、自分にしてみればたいした話ではないのだけれど*2

*1:もっとも、日本語訳が稚拙なだけで、原語ではもっと深い意味が込められているのかもしれないが。

*2:学部時代に仏語を選択したのは、おそらく自分の人生の三大失敗の一つに挙げられると思う・・・。

「憲法記念日」に思う。

昔、自分が生きている間には決して改正されることはないだろう、と思っていた憲法だが、ここに来て国民投票法案の制定など、一気に“改憲”の可能性が高まって来ているようだ。


ちょうどこの日発表された日本経済新聞世論調査によると、

「現憲法を「改正すべきだ」との回答が51%を占め、「現在のままでよい」の35%を上回った。現憲法の問題点を複数回答で聞いたところ、よい環境を享受する環境権や個人情報の自己決定などのプライバシー権の創設を念頭に置いた「時代の変化に対応した規定がない」が29%で最多。「戦争の放棄を定めた9条が現実に合わない」は22%だった」
日経新聞2007年5月3日付朝刊・第1面)

改憲賛成派」は2年前の調査に比べて3%減った、ということで、記事では「改憲が現実味を帯びてきたことで有権者の見方がやや慎重になってきたようだ」と分析されているが、この程度の数字であれば、誤差の範囲内といっても良いだろう。


冷静に考えれば、憲法96条にきちんと改正のための規定が盛り込まれているにもかかわらず、それを実現するための手続法が存在しなかった、というのはおかしな話だし、「憲法改正」というと半ば脊髄反射的に「憲法第9条」の争点だけが俎上に挙げられていた、というのもおかしな話だったのであって、「改憲」という言葉のイデオロギー性が薄れつつある今、憲法改正に向けての建設的な議論を始めることは、決して間違ったことではないと思う。


・・・もっとも、憲法第9条をめぐる改憲派の主張(特に集団的自衛権に関するくだり)は、諸外国(特にアメリカ)に対して“見得”を張りたいがゆえの主張としか思えないし、環境権やプライバシーのように現行の条文からも解釈で無理なく導ける“権利”をあえて規定する意味も大して感じられない。


憲法改正の発議要件自体の見直しも俎上に上がっているようだが、“改正限界説”をとるのであれば、硬性憲法性を危うくするような改正そのものを肯定できるか疑問だし、そういう立場を取らないとしても、時の政権の気まぐれで頻繁に国民投票が行われるような世の中になってしまうとしたらそれはそれで迷惑千万、各種資格試験の受験生にも気の毒なことこの上ない(笑)*1


前文を書き換えて「歴史や伝統的な価値観」などを表現しようとする動きもあるようだが、そもそもこの国における「歴史や伝統」って何なのだろう?


素直にこの国の歴史を眺めるなら、良きにつけ悪しきにつけ、特定の宗教や価値観、イデオロギー固執することなく、様々なものを取り入れてきたことが、ここまでの発展につながってきたと評価すべきなのであって、いわゆる“日本的文化風土”や“伝統的価値観”といったものは、明治以降の主権国家を生成していく過程に(あるいは戦後の高度成長期に)、一種政策的に捏造されたものに過ぎない、と解するのが妥当だろう。


だとすれば、真実に合致しない特定の思想の押し付けを、憲法の前文を使って行うなんてことが許容される道理はない。


そもそも「前文」は改正する対象となりうるものなのだろうか?


本のはしがきと同じで、改訂版が出たら(改正されたら)新たに付け加えていく、という類のものではないのか・・・?


ということで、少なくとも現在出されている改正案だけ見れば、どれに対しても「反対」票を投じざるを得ない、というのが筆者の率直な心情である。


個人的には、今の憲法には“継ぎはぎ感”があるのは否めず、特に前半の人権部分のシンプルな書きぶりに比して、後半の統治部分が必要以上に詳細な定めになっているというところになんともいえない違和感を抱いているので、そのあたりのバランスをキレイに整えていただければ、と思っていたりもするのであるが、条文が少ないゆえに一言一句に憲法学者怨念魂が込められている憲法典のこと。会社法のような大胆な改革を期待することには無理な相談、と半ばあきらめている・・・。

*1:法律系の資格試験で憲法が試験科目に入っていないものを探す方が大変である。

これが経営だ。

目先のチマチマした利益を追い求める風潮が強い世の中を、嘲笑うが如く出されたJR東海の報道発表。

東海旅客鉄道JR東海)は26日、2025年に首都圏と中京圏を結ぶリニアモーターカーの営業運転開始を目指すと発表した。東海道新幹線の輸送能力が限界に近づいていると判断、代替輸送機関に位置付ける。着工時期や具体的なルートなどは今後詰める。」(2007年4月27日付け朝刊・第1面)

記事にもあるように、建設費が数兆円にも上ると予測される中、「資金の手当てなど課題は山積」している状況だし、仮に開通したとしても、既に「東海道新幹線」という大幹線が存在している現状では、それは「東京−名古屋(大阪)間のバイパス」的な位置づけとなるものに過ぎない。


「長期債務残高約3兆4000億円」「純現金収支の黒字が2000億−3000億円程度」という内容の会社が、「慎重な姿勢を崩していない」国土交通省のバックアップが期待できない中で、果たしてこの壮大な構想を18年後に実現できるのか、現実主義的な視点で見れば、“無謀”とのそしりは免れない話だろうと思う。


だが、短期的なコミットメント、それも「売上高営業利益率」だの「総資産利益率」だの、といった、ちまちました指標を追い求めることにしか目が向かなくなった世の経営者たちに対して、

「本来、企業とは何をすべきなのか」

という経営の真髄を問いかけたことの意義は大きい。


思い返せば、今ある「新幹線」だって、当時は無駄な投資といわれたものだ。だが、あの時、無謀といわれながらも“弾丸列車”構想を現実化するために情熱を注いだ、そんな人々がいなければ、今の日本は存在しない、といっても過言ではなかろう。


その辺りのコンサルタントやアナリストの安易なご託宣に乗っかって小銭を稼ぐだけでは、何のために会社で仕事をしているのか分からない。それは経営者でも一担当者でも同じことだ。


誰にも予測できないことを大胆に成し遂げて初めて、人が仕事をする意味というのが出てくるわけだし、そのような大胆さを集積し、コントロールできる人物でなければ、本当の「プロ」とはいえない。


これは鉄道の世界に限らず、全てに共通する理だと自分は思うのである。

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