“タリウム少女”の日記

今週の週刊文春に、
静岡の“タリウム毒殺未遂(?)”事件の被疑者である
少女のブログの一部が掲載されている。


確かに母親の病状に関する記載もなされているのだが、
その部分と、いわゆる“実験”レポート的な記述の部分とは、
明確に分けられており、
あの内容をもって“観察日記”というのは、
スリード的な報道というべきだろう。


また、感情を押し殺したような冷静な筆致で綴られている反面、
ところどころに感性の鋭い十代特有の感情の発露も垣間見ることができ、
このブログの筆者を、
報道されているような“異常な犯罪者”というイメージで捉えるのは、
適切ではないように思われる*1


報道されていることが、大筋において事実なのであれば、
彼女が犯した罪は確かに大きい。


しかし、生じた結果の大きさゆえに、
当該犯罪行為の“異常性”を強調することは、
得てして、背景分析を誤らせる元となるのではないだろうか。


彼女の感性は、他の同世代の高校生と比べて、
“鋭敏”に過ぎたのかもしれない*2
普通の生活をしていれば決して手に入れることのない
化学薬品にアクセスできる環境にいた、という点での特殊性もある。


だが、本人の思考過程は、常人が推測できないほど、
“異常”なものでも、“特殊”なものでもないように思われる。


少年少女の“凶悪犯罪”がニュースになるたびに、
繰り返される同種の“分析”を見ると、
その犯罪の重さよりも、
“大人社会”の“想像力”の欠如の方が気になって、
暗澹たる思いになる*3

*1:少なくとも、文春に掲載されていたコメンテーターの“評論”には同意できない。

*2:何も事件を起こさずに、平凡に日々を過ごしたとしても、社会的には“少数派”としてくくられるマインドの持ち主であることに、変わりはなかっただろう。

*3:ちなみに、60年代、70年代の新聞の社会面を見ても、同種の“凶悪犯罪”の記事が載っていることは決して稀ではない。今起きている“凶悪犯罪”が現代の若者の“特殊性”や“時代環境”に起因するもの、と思い込むのは、単なる錯覚でしかない。通常の思考過程からほんの少し外れただけで、とてつもない重大犯罪を招く。人間とは、かくも弱い生き物であるし、それはいつの時代でも変わらないものだと思う。

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