「道具」としての「肖像権」のいかがわしさ

平成17年11月10日、最高裁第一小法廷によって出された、
林真須美被告の法廷内写真、イラスト掲載をめぐる
損害賠償請求事件の判決が、様々なブログで取り上げられている。


本件は、あえて説明するまでもなく、
「肖像権の保護される範囲や、違法となる条件について最高裁の初判断を示した」*1
画期的な判決である。


だが、本件の事案に限らず、
「肖像権侵害」をめぐって争われる多くの訴訟事件には、
一種のいかがわしさが付き物である。


そもそも、「肖像権」を実質的に承認した判例として
本件判決でも引用されている最大判昭和44年12月24日(京都府学連事件)は、
デモ行進参加者を写真撮影しようとした警察官に対する
公務執行妨害罪等の成否が争われた刑事事件であり、
「肖像権」なる概念は、被告人側が公務執行の適法性を争うために
持ち出した「道具」に過ぎない*2


そして、ここで承認されている

何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう、姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。

という「肖像権」概念は、
あくまで捜査目的による写真撮影の限界を画するための機能を
果たしていたものに過ぎず、
民事訴訟において主張しうる「権利」としての性格を
認めうるものかどうかは、本来疑わしいものであった*3


本件で問題となっていたのは、
写真週刊誌「FOCUS」による林被告の法廷内写真及びイラストの掲載である。
そしてここでは、憲法21条1項と13条の調整という問題もさることながら、
「道具」として「肖像権」を用いることを認めることの妥当性も
問われているのではないかと思う。


林被告の「容ぼう、姿態」自体は、
本人が望むと望まざると、様々なメディアに“撮影”され、
“公表”されていたのは記憶に新しい。


にもかかわらず、「FOCUS」が標的とされたのは、
同誌が、

「法廷を嘲笑う『X』の毒カレー初公判−この『怪物』を裁けるのか」との表題の下に、本件写真を主体とした記事

を掲載し、そこに

被上告人が手錠をされ、腰縄を付けられた状態であることを殊更指摘する記載

があったからに他ならない*4


つまり、本件は、林被告側にとっては名誉毀損事件そのものなのであって、
ここで持ち出される「肖像権」は、慰謝料を上乗せするための「道具」に過ぎない。


人の「容ぼう」等を何でもかんでも撮影して良い道理はないし、
表現の自由」「報道の自由」を過度に強調する考え方を支持するつもりもない。


だが、自分の感情を害する記事等における肖像の使用には「肖像権」を振りかざし、
そうでない使用に対しては、不問に付す、という「肖像権」の道具的使用を、
憲法上の“人格権”として保障されるものだから」、
という理由のみによって認めて良いのかは疑問が残る。


仮に、「FOCUS」の記事が、
「権力と戦い続ける『X氏』の冤罪事件公判−疑惑は晴れるか」という表題の下に
掲載された記事であったとしたら、
全く同様の条件の下で撮影された写真であったとしても、
林被告が訴訟を提起することはなかっただろう。


そのような恣意的な“行使”がなされうる権利を
民事訴訟の場面において、正面から認めることについては、
いかがわしさを感じざるをえないのである。


名誉毀損事件とは異なり、判例の蓄積が十分になされているとはいえない
「肖像権侵害」事例の場合、
「肖像権」を振りかざすことによって、
まっとうな批判記事まで萎縮させる可能性も否定できない。
そのような弊害を避けるためには、
本件判決で定立された規範の下での“あてはめ”の積み重ねが重要になろう。


だが、この点においても、
本件判決には少なからず疑問が残る。


本件判決において、最高裁は、
「人の容ぼう等の撮影が正当な取材行為として許されるべき場合もある」
と取材行為への一定の配慮を行った上で、

 ある者の容ぼう等をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは、被撮影者の社会的地位、撮影された被撮影者の活動内容、撮影の場所、撮影の目的、撮影の態様、撮影の必要性等を総合考慮して、被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。

という規範を立てているが、
具体的なあてはめにおいては、

①社会的地位→ 社会の耳目を集めた刑事事件の被疑者として拘束中の者
②活動内容 → 被疑者として出頭し在廷していた(写真撮影が予想される状況の下に任意に公衆の前に姿を現したものではない。)
③撮影場所 → 法廷内
④撮影目的 → 刑事事件の手続での被上告人の動静を報道する目的
⑤撮影態様 → 裁判所の所定の許可を受けることなく、小型カメラで隠し撮りした
⑥撮影の必要性 → あえて撮影する必要性は認めがたい

として、撮影が禁止されていた法廷内であえて写真撮影を行ったことの
不当性を重視している(特に③、⑤)ように読めなくもない。


確かに、法廷内の隠し撮りは褒められた行為ではないが、
そのような行為に対する制裁は、
別途規則に基づいて与えれば良いのであって、
それを本件の結論に反映させるというのは、
あまり筋の良い話ではない。


一見妥当なあてはめのように見える②に関しても、
「写真撮影が予想される状況」など、
通常人にとってはあまり考えにくいのであるから、
内藤篤弁護士が危惧されているような、
「『風景の一部としてであっても肖像が写っていればアウト』という理不尽な状況」
を生み出すことにもなりかねず*5
「活動内容」の評価の仕方としては疑問が残る。


個人の容ぼう等を描写する手段として、
写真とイラストとでは違法評価の判断が異なる、
とした点については同意するが、
上記のとおり、本件判決はいろいろな問題を残していると思われる。


こと私人間での争いにおいては、
本人が明示的に容ぼう等の撮影を拒否していた場合以外は、
肖像権侵害の違法性を阻却する、といった思い切った考え方をとっても
良いのではないか、と個人的には思っている*6

*1:日経新聞2005年11月11日付朝刊42面

*2:ちなみに、90年代の末期でも、血の気の多い“学生活動家”が学部当局等と小競り合いとなった際に、カメラをもって現認しようとする当局の職員に向かって「肖像権侵害だ!」と叫ぶのは日常茶飯事であった。

*3:少なくとも、民事事件において用いられることまで想定して書かれた判決ではなかったのではないかと思う。

*4:以上、本件判決の事実認定による。

*5:内藤篤『パブリシティ権概説〔第2版〕55頁(木鐸社,2005年)』

*6:なお、芸能人写真の隠し撮りのような事案については、肖像権を持ち出すより、むしろ正面から財産権としての「パブリシティ権」で処理すべきではないか、というのが私見である。