サヨナラの向こう側

3月といえば卒業のシーズンだが、
会社の中で生きている人間にとっても、
人が動く季節であることに変わりはなく、
今年も、お別れの挨拶回りに送別会、という
例年どおりの光景が繰り広げられていた。


学生の頃と違うのは、
年がら年中、人が会社の中のどこかしらで動いている、
ということで、
特に自分の会社の場合、相当頻繁に人が動くこともあって、
「定期異動」というイベントも
そんなに大きな感慨をもって受け止められることは少なく、
皆、淡々と辞令を受け止め、
淡々と送り出していく。


中には、単なる異動で職場を離れるのみならず、
会社そのものから離れていく人間もいる。


それでも、皆、表立っては衝撃や憤りを表現することもなく、
淡々と“円満な”退社を“演出”して去っていく。


あたかもそれが大人の流儀である、と言わんばかりに。



だが、自分はそんな空気が好きではない。


以前、法科大学院に「去られた」側の感慨を述べたことがあったが、
周囲から完全にスポイルされていたような特殊な人々を除けば、
「組織から人を失う」というのは、
本来、大きな衝撃をもって受け止められるべきできごとであり、
現に、大きな衝撃を受けている者もいる。


なぜ、組織を去ろうと思ったのか、
なぜ、組織を去らねばならなかったのか、
なぜ、引き止めることができなかったのか、
なぜ、引き止められても心が動かなかったのか、


お金のためでもなく、栄達のためでもなく、
ただ、理想と情だけで動いていた学生の時分、
それは、同僚や後輩に去られるたびに、
ひとり考え、あるいは仲間と議論し続けていたことであった。


表面を取り繕うことは簡単。
物分かりの良い人間のフリをするのも簡単。


だが、失ったものを失った理由を真剣に考えない限り、
その者を去らせた原因は依然として残り続けることになり、
やがて、第二、第三の離別を生じさせることになる。


そして何より、去られた側の感情は、
整理されぬまま、空しく漂い続けることになってしまう。


それゆえ自分は、物分かりのいい空気、
そして大人の流儀を憂い、恨むのである・・・。


ちなみに、今回去っていった人間の経験値と、
残された自分以外の同僚の経験値を見比べれば、
4月から自分の仕事が大幅に増加するのは一目瞭然。


自分自身の経験値を高めることを考えれば、
それ自体は決して悪いことではないのであるが、
組織の力が物をいうはずの法務の世界において、
特定の個人のテクニックに依存する、というのは
本来あるべき姿ではない。


さて、どうしたものか・・・。

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