“アカデミズムの危機”を憂う。

新年度の始まりは、憂鬱な契約交渉の季節の始まりでもある。


ここ数年、大学との共同研究だの委託研究だのをめぐる契約交渉が
各企業の知財契約担当者を苦しめているのは、よく知られている話だが、
特に、交渉スタッフの層の薄さを
ネームバリューを使ったパワープレーで切り抜けている卑怯な会社(笑)に
身を置くものにとっては、
そういう力関係のごまかしが通用しない相手と“戦う”のは、
極めて骨の折れる作業となる。


もっとも、大学とガチンコ交渉をやるようになった当初は、
「何て理不尽な要求をしてくるんだ」と腹を立てるだけだった自分も、
何度か交渉を積み重ね、大学側の“窮状”に触れるにつれ、
次第に同情すら感じるようになった。


“何たらかんたらサイクル”といった美しい建前論の下、
やれ成果を出せ、特許をとれ、と外野から旗が振られる一方で、
現実には特許の出願費用の原資にすら事欠くありさま。


ある大学との交渉で、
あまりに膠着した状況に業を煮やした企業側の担当者が、
「そんなにゴタゴタ言うなら、特許なんぞいらん。全部公知にしてやる」
といったところ、
血相を変えた大学側担当者が、
「それは困る。今は特許の数で大学の研究の質が評価される時代なのだ!」
と叫んだ、という、まるであべこべの笑い話すらある。


大学が産業の発展に寄与するための努力をするのは、決して悪いことではないが、
あまりに目先の俗物的な発想にとらわれすぎるのはいかがなものか。


理性的な企業人なら、特許は研究開発に伴って生まれる“副生物”に過ぎず、
特許をとるために研究開発を行う、という発想は本末転倒な考え方であることを
十分に理解しているはずである*1
ましてや、純然たる研究機関たる大学をや。


大学の教授や研究員が、研究にいそしむべき貴重な時間を割いて、
特許の明細書の作成に没頭したり、企業からの金集めに奔走したりする姿が、
本来あるべき姿なのか、問い直されて然るべきであろう。


最高裁の裁判例情報ウェブサイトを見ていたら、
東工大の教授が、特許の出願をめぐって、
大学と共同研究パートナー企業を訴えたという事案が掲載されており*2
その中では、教授と大学の産学連携本部の知財部門等との生々しいやり取りが
記載されていたりもするのだが、
こと「研究」という側面から見れば、こういったやり取りは、
実に不毛な作業に過ぎないように思われる。


アカデミズムを侵食する“実利主義”の波。


わが愛すべき法学の世界に目を転じても、
法科大学院の創設を契機として、“アカデミズムの危機”が叫ばれて久しい。


望むと望まざると、各大学が自ら手を挙げて「法科大学院」を設置した、
という事実は厳然と存在しているのだから、
ローの学生や法科大学院制度そのものを厄介者扱いするような論調を
当該大学関係者が展開するのは愚かな矛盾行動と言わざるを得ないが*3
かといって、多くの論者がいうように、
“実利主義”的法曹養成課程の存在がアカデミズムの喪失につながる、
という状況が現に生まれているのだとすれば、
それはやはり看過することができない事態というべきだろう*4


神戸大の大内教授の法学教室の連載コラムに、
以下のようなコメントがなされている*5

法科大学院は、いかに高邁な理念をかかげようが、多くの大学にとって最も大事なことは、最初の新司法試験で高い合格率を得ることである。さもなければ、法科大学院間の苛烈な競争に生き残ることができないからである。結局、法科大学院での授業は、学生を試験に合格させることを至上命題として、教育一辺倒にならざるをえない(いや教育といえるかさえも疑わしい)。教師は「哲学」にふけるというような悠長なことはやっていられない。まさに限られた時間と資源の中での効率的な教育が望まれているのである。」

と、大内教授は、「効率性や実用性と距離をおくことができる研究者の特権」
が失われつつあることを嘆かれているのであるが、
こういった現象は、多かれ少なかれ、どこの大学でも見られる現象のはずであり、
そのことの是非は、問い直されて然るべきであるように思う。



誰が言ったか忘れたが、
「学問とは壮大な無駄の積み重ねである」なんていう言葉があった。


その理に従うなら、大学なんぞ、さしづめ「無駄」の集積場とでも言うべき存在、
ということになるのだろう。


だが、「無駄」のない世界ほど、息苦しいものはない。


贅肉がそぎ落とされつつある今の世の中において、
アカデミズムの香り漂う「大学」という“無駄の集積場”は、
あたかも、地上に残された最後の楽園のようなもの。


大学の先生方が、あくせく特許の明細書に手を入れることなく、
チマチマした受験指導なんぞにいそしむこともなく、
「学問への愛」*6に忠実に生きられる環境が
保たれ続けることを、自分は願っている。


何よりも、そんな「学問への愛」の果実を何かにつけ享受しているのが、
筆者自身なのであるから。


ちなみに、“楽園”を守るためなら、
なけなしの給料からいくら税金を差っ引かれても惜しくはない、と
言いたいところであるが、
なけなしの給料から引かれる税金などたかが知れているから、
全額をつぎ込んだとしても、一日分の光熱費で消えてしまうのがオチ、
という悲しい現実は、この際忘れねばなるまい・・・(涙)。


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*1:もちろん業界によって差異はあろうが、研究開発の目的が「製品開発」そのものにある、ということには変わりはないだろう。大学において「製品」に相当するものが何なのか、ということに思いを馳せたとき、「特許」にこだわることの滑稽さが浮き彫りになるはずだ。

*2:東京地判平成18年3月23日・H17(ワ)第18051号特許出願取下手続履行請求事件。事案そのものは、特許を共同出願した被告大学・被告企業と、発明者である原告との間に出願取下げの合意が成立していたかどうかが争われた(原告は当該発明につき「被告企業の寄与がゼロである」と主張し、同じ発明を自らの単独発明として追って特許出願していた)という他愛もないもの(結論は合意の成立否定)なのであるが・・・。

*3:こういう趣旨の話は、以前のエントリーでも書いた(ような気がする)。

*4:もっとも、本当に“法曹養成”と“アカデミズム”の理念が両立しえないものなのかどうか、ということは、疑ってみる必要があるだろうし、現に両立させようとしている学校も一部にはあるだろうから、一概には言えないだろうが。

*5:大内伸哉「アモーレと労働法(3)−学問へのアモーレ‐」法教307号8頁(2006年)。余談だが、このコラム、法教に連載されている趣旨はイマイチ不明なのだが、内容そのものはなかなか興味深く、毎回楽しませていただいている。もっとも、前記の記事の後半に書かれている「真のフェミニスト」論には、俄かには賛同しがたいものがあるが・・・(笑)。

*6:大内教授の前掲コラムをご参照のこと。

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