以前面白判決としてご紹介した
「宗教家講演等著作権事件」だが、
(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20051229/1135877661)
期待に違わず、控訴審まで行われたようである。
知財高判平成18年5月11日・著作権侵害差止等控訴事件*1。
控訴人が新たに行った主張は、
何ら裁判所の受け入れるところとはなっていないのだが、
原審が被告(控訴人)が侵害品の販売を開始した平成14年6月以降の利得を
すべて損害額算定のベースとしていたのに対し、
本判決では、
「被控訴人が著作権の信託を受けたのが平成16年8月1日であることから、損害額の推計も、平成16年8月以降の利益額に基づいて算定すべき」
として、損害賠償認容額が大幅に減額された。
(10万9809円→2万6744円)
著作権信託がなされた事実については原審も認定しているのだが、
おそらく、原審では、
控訴人側から何らその旨の反論がなされなかったために、
原告の「言い分」に従って請求が認容されてしまったのであろう。
控訴審でも控訴人はその旨の主張はしていなかったようなので、
単なる“幸運”と言えなくもないが、
まぁ、これはあえて控訴したかいがあったというものである。
ちなみに、
控訴審の追加主張が判決文に記載され、
世に伝わった、という点でも、
控訴人にとっては価値のある判決といえそうだ。
その主張とはすなわち、
「高橋信次の著作物は、宇宙界より降ろされた法であり、信仰者に伝えられるべく残されたものであるから、親族が著作権を主張すべきではない。実の著作権者は宇宙界にあり、多くの人々に伝えてこそ法である。」
何とも格調高い主張ではないか!
原審における被告の主張を「世界の宝」抗弁と名づけるのであれば、
今回の主張はさしづめ、「宇宙界降臨の抗弁」とでも言うべきだろうか。
さすが知財高裁と思えるところは、
原審と異なり、上記の独自主張に対しても、
きちんと判決で応答しているところである。
「控訴人は、高橋信次の著作物は、信仰者に伝えられるべく残されたものであるから、親族が著作権を主張すべきではない旨主張し、本件各講演等については、高橋信次の相続人ひいてはその信託を受けた被控訴人に著作権が帰属しない、あるいは被控訴人において著作権を主張し得ないことを主張するもののようであるが、本件各講演等が高橋信次の著作物として著作権の対象となることは明らかであり、その著作権が相続及び信託の対象となることもいうまでもないのであって、その著作権が侵害されたときは、著作権者において、その排除等を求め得ることは当然であるから、控訴人の主張は採用の限りでない。」
控訴人の主張を善解しつつ、
明快に切り捨てるこの潔さ、
実に美しい判決というべきであろう(笑)。
もっとも、本来、
「布教」を至上命題とする「宗教」に対して、
著作権法の規律をどのように及ぼすべきか、という点に関しては、
以前にも述べたようにいろいろと考えるべきことは多い。
「著作権の対象となる」ことは明らかだとしても、
いかなる行為を差し止めるか、ということについては、
「著作物を創作した宗教家」の意思解釈の問題として、
もう少し深く掘り下げる余地もあったように思われる*2。
たぶん、判決が出されることはないと思われるが、
とりあえず、最高裁に期待してみるとしよう(・・・爆)。