そりゃないよ・・・の巻。

少し前の雑誌の記事をいろいろ眺めているうちに目にした、
高名な先生方のご見解の中に、
「ちょっと待てオイオイ・・・」と言いたくなるようなものが
いくつかあった。


最初は、全部取り上げようかと思ったのだが、
夜が更けてきたので、ここでは一点のみ取り上げてみることにする。
そりゃないよ・・・シリーズ、宇賀先生の巻。



宇賀教授は、『法学教室』の「時の問題」コーナーで、
個人情報保護法の解説をされているのであるが*1
ここで腑に落ちないのが、
「第三者提供の制限」をめぐる現状と課題を取り上げる節での以下のくだり。

「他面において、「過剰反応」という言葉の一人歩きの危険にも留意する必要がある。従前当然のように行われてきたことが個人情報保護を理由にできなくなったことに不満をいだく者が「過剰反応」という言葉を濫用するおそれがあるからである。たとえば、同窓会名簿が作成しにくくなったことなども、個人情報保護法への「過剰反応」といわれることがあるが、同窓生への配布であるからといって、本人の同意なしに、卒業年度、勤務先、自宅の住所・電話番号を掲載した名簿を作成することは個人情報保護の理念に反するものであり、本人の同意を得た範囲の情報のみを掲載することは当然のことである。これまで、本人同意を求めていなかったが個人情報保護法全面施行後に同意が求められるようになったとすれば、それは、個人情報保護法への「過剰反応」ではなく、個人情報保護法の成果として肯定的に評価すべきである。」(前掲・18頁)

確かに、程度問題として、自分の知らない間にここまで載せるか・・・?
というような事象もままあったのは事実だが、
今、世の中で問題になっているのはそういう次元の話ではないはずだ。


同意の有無を確認しようにも確認するのが困難な、
学校や企業を離れて年月が経った“同窓生”の情報を掲載すると
法に触れるのではないか、という強迫観念ゆえに、
“同窓生”をつなぐ数少ない絆であった名簿そのものの発行が
できなくなっている、という実情こそが、
問題とされているのだろう。
これを「過剰反応」といわずに何と言おうか。


そもそもの問題の発端は、
個人を特定できる情報は何でもかんでも「個人情報」にしてしまう、
という立法者の安直な“定義”の立て方にあるのであって、
プライバシー保護だとか、自己情報のコントロール権だとか、
といった法が守ろうとしている根底的な理念を否定するつもりはない。


だが、多くの善良な市民が、
安直な“定義”を杓子定規に受け止めてしまった結果、
「明示の同意を取らない限り何にもできない」といった風潮に
なってしまっていることに、問題の核心があるように思う*2

「また、個人情報保護法により、私立学校の緊急連絡網等の様々な有用な名簿が作成できなくなり支障をきたしているという意見もあるが、本人同意さえあれば従前と同様、名簿の作成は可能であり、仮に1%の者の同意が得られなければ、99%の者の名簿を作成すればよいのであり、名簿の作成自体を断念する必要はない。本来、学校からの緊急連絡は学校の責任において行われるべきであり、緊急連絡網はそれを各家庭に代替させているのであるから、緊急連絡網に電話番号等を掲載することを望まない家庭には、学校から直接連絡をすれば足りよう。このような場合、同意しない少数の者を協調性に欠けると批判して完全な名簿を追求するのは悪しき集団主義であり、個人情報保護法3条が基本理念として掲げる「個人の人格尊重の理念」とは相容れない発想といえよう。」(前掲・18頁)

まず、ここで考えるべきことは2点。
「同じクラスの人間にすら電話番号を教えたくない」という貧困な発想を、
「人格尊重の理念」の下に正当化できるのかどうか、という点が一つ。


個人情報保護法の悪しき側面の一つとして、
「大して意味のないものまで隠したがる」風潮が生まれてきていることに、
ここでは留意しなければなるまい*3


もう一点は、上記のような風潮が蔓延した結果、
1%どころか、過半数の者が同意しなかった場合には、
“緊急連絡網”が担うべき機能自体が破綻する、という現実である。


このような事態に陥る前に、
電話番号を載せたくない、という者の人格を尊重するだけでなく、
きちんとした名簿を作って欲しい、と願う者の人格もまた、
尊重されねばならないだろう。

「逆にいうと、個人情報保護法への「過剰反応」という言葉がやや濫用ぎみに使われている現状は、「個人の人格尊重の理念」が十分社会に浸透していないことを示している。」(前掲・18頁)

宇賀先生に言わせれば、筆者などは下の下の部類に属する落第生だろうが、
少なからぬ者が違和感を抱いているような世の風潮を、
「人格尊重の理念」だけで片付けるのもまたおかしな話であろう。


本来、個人情報の保護というのは、
様々な環境を想定しつつ、どこまでが保護されるべき情報なのかを検討する、
という、個人の人格と他の考慮要素との緻密な比較衡量の上に
成り立つものだと筆者は考えている*4


ただ一律に網をかければ、個々人が幸福になれるというものではない、
そう思うからこそ、ここは「ちょっと待って・・・」と
言いたい気分なのだが、
そう思ってしまうのは、筆者がK教授の行政法の授業しか、
受けたことがなかったからなのだろうか・・・(苦笑)。

*1:宇賀克也「個人情報保護法の施行状況と今後の課題」法教311号14頁以下(2006年)。

*2:個人的には、自宅の住所・電話番号はともかく、卒業年度だの勤務先だのは個人情報としての要保護性を欠くと思っているし、仮に個人情報に該当するとしても、黙示の同意を推認して掲載を継続すべきだと思っている(積極的に自分のルーツとの縁を切りたい、という者の情報だけ除外すれば足る話である)。もちろん、現行法の解釈論として無理があるのは承知の上だが。

*3:個人的には、職場や学校といった“親しき間柄”でさえ、住所や電話番号を公開したくない、という我がままが許されるのは、芸能人と同居しているヤツくらいだと思う。ネット上に個人情報を晒すのとは訳が違うのだから・・・。

*4:もちろん、ガイドライン等による細かい線引き作業を行う余地はあるが、所詮ガイドラインガイドラインに過ぎず、法律を超えるものではない。萎縮効果に起因する“過剰反応”を鎮めるためには、法の抜本的改正が欠かせないだろう。

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