混迷の11年。

結果はおよそ見えていたのだけど、
あらためて決定が出ると、これで一つの時代が終わったか、
という気分になる。

地下鉄サリン事件などで殺人罪などに問われた元オウム真理教代表、松本智津夫被告(麻原彰晃、51)について、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は15日、控訴を棄却した東京高裁決定を支持し、弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。一審・東京地裁の死刑判決が確定した。27人もの命が奪われた一連の事件の「首謀者」を巡る裁判は、1996年4月の初公判から10年5ヶ月で終結した。」(日経新聞2006年9月16日付け朝刊・第1面)

公判が始まってから実に10年5ヶ月、
地下鉄サリン事件が起きてから11年と半年近く。


気が遠くなるような年月だが、
それでも、事件直後には
“一生終わらない”訴訟だと言われていたことを考えれば、
随分早く決着した、という方が適切だろうか。


逮捕後、数十回の公判を経て、今回の決定に至るまでの姿を
見慣れた方々にとっては、松本被告など、所詮、
嘲笑、失笑の対象でしかないのかもしれない。


だが、結構昔から“麻原彰晃”を見ていた自分にとっては、
あのカリスマもついに・・・という思いの方が強い。


朝まで生テレビ』で大川隆法を論破した姿とか、
衆院選に立候補して、街頭で吠えていた姿などが、
ただの“ペテン的宗教家”とは違う“オーラ”を
醸し出していたのは確かだし、
当時から、そういった姿が一種の“ネタ”として
受け止められていた事実はあったにしても、
単なる新興宗教を超えた、独特の存在感を発揮していたのも確かだ。


実際には、当時から教団は犯罪に手を染めていたわけで、
彼のカリスマ性は、結局は負の方向に極大化して
世に晒される結果となってしまったわけであるが、
皆が声を揃えて合唱するほど、
「入信した信者が理解できない」という時代状況でも
なかったような気がする*1


例の事件の後、
今も昔も変わらない週刊誌のゴシップ記事垂れ流す攻勢に混じって、
いくつかの雑誌は、オウムがなぜ人を惹き付けたか、や
オウム内部の権力構造について、興味深い連載を続けていたのを思い出す。


筆者自身、「世俗の価値観に共感できずに入信した人々」が、
「教団という俗世を離れたはずの空間で」、
なにゆえに「世間と同じようなヒエラルキー」を求めたのか*2
ということについては関心があり、
当時はいろいろと周囲で議論することもあったのだが、
結局、長引く裁判の混乱の中で、
「まともに分析するだけバカバカしい」という風潮が強まり、
背景を掘り下げていく動きも消えていってしまったように思う*3


だが、今でもオウムを承継した教団が、
それなりの数の在家、出家信者を抱えて活動を続け、
新たに扉を叩く者も一定数要る状況、
そして、それに対して背景事情への探究を経ることなく、
単に「信じられない」といった趣旨の大合唱で片付けようとする
メディアの姿を見るたび*4
個人の刑事責任に問題を矮小化することなく、
教団の本質に対する“総括”を
きっちりと済ませておくべきだったのでは?
という気持ちに駆られるのは否定できない。


教祖の死刑が確定した今、
次に大きな事件がおきるまで*5
それが果たされることは決してないのであろうが・・・。


一つの時代の終わりであるのは確か。
だが、油断すれば、いつか必ず同じ歴史を繰り返すことになる。


そんな気がしている・・・。

*1:「マインドコントロール」という言葉が当時流行っていたが、何人かによって“コントロールされていた”という表現は、彼・彼女達を免責するための言い訳としては有用かもしれないが、正確な表現といえるのかどうかは疑わしい。

*2:強制的に組み込まれて抜け出せなかった、という見方もあろうが、積極的にヒエラルキーの上位を目指して活動していた者もいたのは確かで、前記のような見方は一面的に過ぎるだろう。

*3:筆者自身、風化していく記憶とともに関心を失ってしまった、というのは言うまでもない。

*4:テレビ向けコメント、という意味合いもあるのだろうが、自分はそういったコメントを見聞きするたび、コメンテーターたちの想像力の貧困さを嘆かざるを得ない。

*5:それを引き起こすのがオウムの後継者たちなのか、それとも別の宗教団体なのかは分からないが。

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