「教養」と「現実」の狭間

8日付けのエントリー「振り回される大学教育に同情す」の中の司法研修所入所生の“気質の変化”に関するコメントに対し、『教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと』というブログの作者の方が“反論”を唱えられている*1


筆者としては、「古典を読んでいない優秀な新任判事補」を殊更に取り上げて、「豊かな人間性の根幹の揺らぎ」に結びつけようとする日経新聞のコラムを皮肉るつもりで書いたコメントだったので、

「法曹に教養は不要か?」

という次元で論じられるのは、正直本意ではない。


加藤新太郎所長の“嘆き”は、“試験には受かったが、次に何をすれば良いか見えていない受験エリート”や、“優秀だが金儲けすることしか頭にない若い法曹”に向けられているのかもしれないし、その文脈で「教養は不要か?」と問われれば、筆者としても当然「否」と答えることになるだろう*2


もともと「教養」なるものは、ないよりはあったほうが良いものであるし、法曹のような重大な責務を担う職業に就く方々であれば、なおさら必要なのは確かだ。


その意味では、筆者自身、“反論”を唱えられている作者の方の見解とは何ら変わるところはないと思っている。


もっとも、“世間”に出てから日が浅い自分でも、「教養のある人々」として括られるセクターの人々と接していると、少なからず違和感を抱くことはあるわけで*3、それゆえ、現実に社会で起きている問題を解決するために、「教養」というものがどれだけ役に立つか、という問いに対しては、いささか懐疑的な回答しか思い浮かばないのも確かなのであるが。


まぁ、そもそも「教養」の定義すらはっきりしない状況で、あまり論じても始まるまい、ということで、細かいことはまたいつか、機会があったら書くことにしたい*4

*1:http://etc-etc-etc.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_773a.html。過去ログ等も少々拝見したが、タイトルが雄弁に物語るとおり、相当志の高い法学徒の方とお見受けする。

*2:ただ、「古典」には縁がない生活を送っていても、優れた人間性を持って法曹の道に進んだ人間は、ごくごく最近でも結構いるのは事実なので、「古典を読むことが必須要件?」と聞かれれば、それも「否」と答えることになるだろうが。

*3:それが、世の中で使われている「教養」という言葉と本来備えるべき人間の素養としての「教養」との間にあるギャップによってもたらされるものなのか、それとも自分が真の意味での「教養」を知らない俗物であるがゆえの違和感なのか、は分からないが・・・。

*4:ここでいう「教養」が、大学における“ハイソな教育”で得られるレベルの知識しか指さないのであれば、それが世の中で生きてくる場面は限られるだろうし、逆に寺山修司的アングラ経験も含めて「教養」と称するのであれば、それは現実社会においても大いに役立つことだろう。自分の理想は、人並み外れた“教養”をベースに“反教養”主義を唱える、“寺山的教養人”なのである(一生かかってもたどり着くことはできないだろうが)。

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