ホワイトカラー・エグゼンプション制度を説明しようとした参院厚生労働委員会での発言(らしい)。
「工場労働というか、ベルトコンベヤーの仕事、もう労働時間だけが売り物ですというような、そういうところでなく働いている方々の現実に着目した労働法制を作ることが課題」(2007年2月20日付朝刊・第2面)
これに対して、民主党の川内議員や共産党の市田書記長が噛みついているのだという(苦笑)。
まぁ、揚げ足とりをしたがる輩はどんな世界にもいるもので、特にマシーン発言で一挙一頭足が注目を浴びている厚労相の場合、人一倍発言には気を使うべきだったのは確かだろう。
前回の“失言”の時にも感じたことだが、この方は分かりやすく喋ろうとして墓穴を掘る典型的なインテリタイプの政治家なのだろう。
本来は、“工場労働”とか“ベルトコンベヤー”だとかといった、“分かりやすい”単語を使うまでもなく説明できる話。それをあえて比喩を使ってこなれた喋りにしようとしたがゆえに、反対勢力に付け入る隙を与えた。その意味では脇が甘かったといわざるを得ない。
一部の話術の天才を除けば、「“比喩”を交えつつ愉快な喋りをする」ためには、相当の努力と経験を積み重ねる必要があるのであって、“民の水”にしか浸かっていない筆者自身でも、いまだに難しさを感じているのだから、長年霞が関で育った人がそうそう上手にできる分野ではないはずで、意地悪な見方をすれば、そこであえて手を出そうとするから結局こういうことになるのではないか、という言い方もできよう。
もっとも、柳沢厚労相の発言が、「働く人に失礼」だとは思わないし、ましてや「人間観」が問われるほどの発言か、と言えばそれも大いに疑問。
望むと望まざるとにかかわらず、世の中で働く者の多くは、時間に縛られ、時間によって評価され、時間だけを売って生きている(筆者自身も例外ではない)。どんな成果を出したかなんてことは二の次で、人々は自分が“たくさん働いている”ことを誇り、それに応じた賃金が支払われていない、と嘆く*1。
いかに“成果主義”が強調されるようになっても、この国の社会に深く根付いた基本的なところは変わっていない。それゆえ、柳沢厚労相の上記発言は至極正当なものであるし、それに反発する者がいるとすれば、それは“本当のことを指摘されたから”という子供じみた反抗に過ぎない。
むしろ、柳沢厚労相の発言に問題があるとすれば、「労働時間だけが売り物」という箇所ではなく、「働いている方々の現実」云々というところだろう・・・(苦笑)。
仕事時間に応じて評価され、賃金が支払われる世の中が続いていく限り、人より上に行きたいと考える人間は、ただたくさん働き続けるしかないのであって、自分の時間をキープしつつ、世の中でそれなりのポジションを得たい、と考える者にとっては、時間よりも成果によって評価される世の中の方が望ましいのは間違いない。
だが、人々は絶対的な本人の能力値に左右されやすい“成果”で評価される人生よりも、ただ仕事をするという意欲=“労働時間”だけで評価される世を実のところ望んでいるように思え、そういった深層心理がホワイトカラー・エグゼンプションという制度そのものを葬り去ろうとしている。
ゆえに厚労相としては、「現実に合わせた」などというより、「現実を理想に近づけるために」とでも言うべきだったのだ(笑)*2。
いずれにせよ、こんなピント外れな“いちゃもん”に振り回されているかぎり、“理想的な”労働環境など、永遠に実現されそうもないように思えるのであるが・・・。現実はかくも醜い。