桜舞う入学式の季節に想う

それぞれの道を選び ふたりは春を終えた 
咲き誇る明日(みらい)は あたしを焦らせて
小田急線の窓に 今年もさくらが映る 
君の声が この胸に 聞こえてくるよ
♪「SAKURA」詞・水野良樹

桜満開の週末、通りがかった駅の前で入学式帰りと思しき親子連れの姿を見かける。


初めての東京、といった人々も多いのか、至るところで記念撮影なんぞをしていたりして。


新生活に向けての不安もないわけではなかろうが、多くの人にとっては期待の方が遥かに大きいこの季節。


今が盛りと咲き誇るソメイヨシノが、そんな晴れやかな一日に彩りを添える・・・。



4月という季節を自分が一番苦手にしているというのは、ちょうど一年前くらいに書いたはずだ。


周囲の浮かれた笑顔やざわめきが痛かった季節。


ちょうど1×年前、満開の桜に見送られてくぐった武道館の入り口で、誰とも顔をあわせたくなくて、誰にも声をかけられたくなくて身を潜めていたあの頃の記憶が、桜を見るたびに自分の胸を締め付ける。


それまでだってコミュニケーションなんてほとんどとれていなかったけど、血がつながっている分、それでもほんの少しはつながっている何かがあるだろう、と思っていた、そんな家族の絆という幻想が打ち砕かれた季節。


日本で一番の学校に行けば、今まで以上に精神的にレベルの高い環境で4年間過ごすことができるはず、という期待が失望に変わった季節(別の意味で精神的には鍛えられたが・・・(苦笑))。


式が終わった後で早々に引き上げ、九段下の駅を通り過ぎて、あてもなく彷徨い、気が付けば中央線沿線のどっかの駅の喫茶店で、安いコーヒー一杯、タバコふかしながら、これから4年間、何を励みに生きていけばいいのか、と暗澹たる思いに駆られていた・・・。



新社会人ならまだしも、多くの新入学生は、おそらくそんな憂鬱な感情とは無縁に過ごせることだろう(少なくともあと1ヶ月くらいは)。


精神的な「挫折」が人間性を創るなんて嘘っぱち。大概は心を蝕んで、最後には徹底的に感情を破壊するだけで、そんなものは味合わない方がいいに決まっている。


日が落ちて、それぞれの家に帰っていくであろう人々の背中を遠目で見送りながら、高名な先生の講義がどんなにつまらなくても、上級生のバカ騒ぎがどんなに愚かしくても、周囲の低次元な会話のレベルにどんなに幻滅しても、そしてそれ以上の予期せぬ出来事に襲われたとしても、大志を抱く未来ある若者たちには、早春のココロザシそのままに、強く生きてほしいとただただ願った・・・。



ちなみに、かすかに描いていたキャンパス・ライフの青写真も、“一流大学のエリート像”に抱いていた憧憬も崩れて、自分自身の進路転換を余儀なくされた代償に自分が手に入れたのは、「仲間」という言葉では括りきれない、「家族」と「マイホーム」だった。


4年間、変わらなかった環境の中で自分が感じた温かさは、それまでの20年近い人生の中では決して味わえなかったものだったし、そういったものに巡り合わせてくれた運命の悪戯には今でも感謝している。


だが、その後流れた歳月の中で、そんな「家族」も一年に一度集まれば御の字、の仲になってしまった。


咲き誇った後、一瞬で短い命を散らすサクラのハナビラのように、あっけなく「家族」を失って再び彷徨い出した自分の思い出は、日毎に書き換えられていく。


・・・それでも、まだ絆は残っているのだろうか?
弱々しい自分の心をどこかで支えていてくれるのだろうか?

さくら ひらひら 舞い降りて落ちて
春のその向こうへと歩き出す
君と 春に 誓いし この夢を
強く 胸に抱いて さくら舞い散る
♪「SAKURA」(再掲)


(追記)
深夜のメールで、東京から遠く離れた奥地で働くかつての朋友の結婚の知らせを聞いて、今一番大切にしなければいけないものに改めて気付かされた。

「失ったものは、新しく作り直せばいい。」
「貰ったものは、違う誰かに返せばいい。」

「家族」への恩返しも満足にできないまま、「マイホーム」を去ることを悔やんでいた自分に、かつて朋友がくれた言葉。今でも感謝してる。


そして、心から「おめでとう」を捧げたい。

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