若者は反抗心を“失った”のか。

2年前、尼崎で悲惨な事故が起きるまでは、4月25日という日は「尾崎豊の命日」として記憶される日だった。少なくとも自分の中では。


さまざまな評価はあるだろうが、彼が一つの時代を創ったアーティストであったのは確かで、「尾崎豊変死」のニュースが流れた時、クラスに居た“狂信的信者”たちが涙を流さんばかりの勢いで叫んでいたのが、今でも思い出される(当然、彼らは葬儀の日は欠席していた)。


だが、没後15年を迎えた今、↓のような記事が出ているのを見ると、いかに「過去は美化される」といっても、あまりにやりすぎだろう、という思いに駆られざるを得ない。
http://www.asahi.com/komimi/TKY200704190202.html

「どんな価値観の変化があるのか。香山さんは「反発したり、知りすぎたりすると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析する。他者や社会との関係で揺れ、傷つく姿を歌ってきた尾崎の歌とは対照的な考え方。彼の実人生に対しては、こんな感想さえあった。「容姿にも才能にも恵まれているのに変に反抗して、早く死んだのはバカだ」
 学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。
 尾崎の生涯を描いた著書がある作家吉岡忍さん(58)は「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触ってほしくないところに及ぶ。現状に適応してトラブルなく日々を過ごすことに価値を置くと、そこに気づきたくないのだろう」と語る。

尾崎の歌を「学校や親への反抗、自分という存在についての不安」というキーワードでくくってしまうこと自体、筆者は疑問なしとはしない*1が、仮にこれを肯定するとしても、「その曲に対して反感を抱く」ことをもって「最近の若者は・・・」とつなげるのは、いくらなんでもおかしい。


尾崎が死んだ1992年前後、続々と遺作のアルバムが売れ出し、1〜2年「尾崎ブーム」ともいうべき時代が続いたのだが*2、当時の中学生・高校生の中にも、「尾崎(笑)」というノリの人間はたくさんいたし、替え歌やコントのネタにもされてしまう程度の扱いであった。健全な生活を送っている若者の中に、“尾崎否定論者”が多いのは、今も昔も早々変わっていないと思う。


もし変わったとしたら、それは「反体制」のシンボル的存在だった「尾崎」の曲を、学校の「倫理」の教科書や天下の朝日新聞が「良い教材」として取り上げるようになってしまったことに理由があるというべきだろう。


昔の中学生、高校生にとって、「尾崎」というのは、ビニ本やドラッグと同じで、親や教師に隠れてこっそり部屋で聞くようなものだった(それゆえ「反体制」のシンボルにもなりえた)のに、それを学校の先生に「教材」として示され賞賛されたのでは、「反体制」もへったくれもない。


大体、当時の尾崎の「卒業」等の詞に比べると、今のミスチルなんかの方が、遥かに「信念を持った社会への抗い」を表現しているし、当然、それらの曲は若い世代にも受け入れられているわけで、10代、20代の人間(それにとどまらず30代、40代、・・・の人間にも)に一定の比率で反骨心を持った人間がいる、という事実は、歴史を超えて普遍的に受け継がれていくものだと思う。


若者に説教するのは、天下の朝日新聞の専売特許とはいえ、曲や詞の美しさ、と言う点で純粋に一流のアーティストだった尾崎の思想を曲解して、「今どきの若者」に対する攻撃材料に用いるのは、全くもって感心できるものではない。


・・・ということで、没後15年にちょっとした憤りをぶつけてみた次第である。

*1:個人的には、尾崎の歌を貫いているのは、一種の「ナルシズム」ともいうべき独特の“美学”であって、それがかもし出す世界の美しさは素直に評価するが、こと「反抗心」という側面から見ると、一連の曲にはリアリティが欠けている、といわざるを得ないように思う。要は、彼の曲の中での反発、反抗といったものは「戦いもがき苦しむ自分」を演出するためのツールに過ぎないように思えるのである。

*2:尾崎豊のCDのセールスは、最初に世に出たときの数字ではなく、ほとんどが没後のこの時期に積み重ねた数字である。いわば“バブル崩壊直後”の鬱屈した時代にはちょうどぴったりはまるような曲だった、ということだろう。

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