山崎正和氏の勇気ある発言

もう一つ、時事ネタを取り上げてみたい。


中央教育審議会山崎正和会長の、日本記者クラブ主催会見での発言。

「価値観が多様化する中、倫理的問題は学校になじまない。道徳を学校で教える必要はないと思う」
「(妊娠中絶や、勝者と敗者を生む競争社会など意見が割れる問題を挙げ)点数を付けられるものでもなく、学校で簡単に教えられない。代わりに民法や刑法などの順法精神を教えればいい」

「我が国の歴史はこうだったと国家が決めるのは間違い」
「自国の歴史を国家が決めているのは中国や韓国だが、歴史とは永久に学問の問題だ」(以上、2007年4月27日付朝刊・第42面)

これらの発言は、実に重みのある、核心を捉えたものだといえ、筆者としても全面的に賛同したい。


翻って世の中を見ると、安倍ボンボン首相をはじめとする保守派の政治家連中の手前勝手な「倫理観」「歴史観」を教育の場に持ち込もうとする動きが日々報道されているし*1、一部のメディアにもそれに追随しようとする動きがある。


だが、山崎氏が指摘するように、自由主義社会においては様々な価値観があって当然なわけで、「倫理」や「道徳」を教えるとなった時に、何か一つ“これ”といった答えを提示できるわけではない。それは「歴史の見方」にしても同様で、過去の我が国の外国への派兵・統治を、国際政治力学に照らした合理的な選択、と解釈するか、覇権思想に囚われた愚かな策だった、と解釈するかは、学者同士で議論すべき話であって、国が統一した見解をもって生徒に教え込むようなものではないはずだ。


理想を言えば、初等教育段階から高等教育段階まで一貫して、ありのままの事実と、それに伴う様々な解釈、思想を学生・生徒に向かって提示し、本人に“考える契機”を与えられるような教育を提供する、というのが望ましいだろうが、そのような力量のある教育者は、高等教育を担っている教育者(端的に言えば大学の先生方)の中にすら、そうそういるものではなく、現在の構想されているような「道徳教育」「歴史教育」の下では、所詮“国による価値観の押し付け”につながるのがオチだろう。


それゆえ、「そのような要素は教育の場から排除すべき」という山崎氏の発言を我々はもっと重く受け止めなければならない。


世の中にあふれる多様な価値観の中から、何を選び、自らの指針にしていくかは、“誰かに教わる”ものではなく、“自分自身で選び取る”ものなのであって、学校で教えられることは「どうやって情報を取捨選択するか」というところまでなのだ、と筆者は思うのである*2


なお、山崎氏の発言にあえて噛み付くとすれば、

民法や刑法などの順法精神を教えればいい」

のくだりだろうか(笑)。


刑法はともかく、民法の根底にある思想は「順法精神」という言葉で単一的に括られるものではないだろう・・・。


まぁ、信義則と権利濫用の概念くらいは、“精神”として教える意義があるのかもしれないが。

*1:彼ら自身の政治家としての「行動倫理」のいい加減さや、本当の意味での社会経験の薄弱さを指摘するのは容易だが、その点を突っ込んでいくと不毛な議論になりかねないのでここではあえて取り上げない。

*2:筆者も含めて、人々がメディアが垂れ流す情報を鵜呑みにしてしまう傾向の強い現代において、この点に関しては、より重点的な教育がなされるべきだと思うのであるが、残念ながら最近の諮問機関等における議論の中で、そういった冷静かつ中立的な視点からの議論が行われているとはとても思えない。

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