「専門職」軽視のツケ

天下りバッシング”など、ここに来て、上級職国家公務員に対する風当たりが一段と強くなっているが、それに対する“救済策”のつもりなのか、政府が考案した非常に奇天烈な新制度の案が報道されている。

「政府が公務員制度改革の一環として、国家公務員の幹部に「専門職」を新設することが27日明らかになった。次官や局長らのライン職とは別に、特定の知識や能力を有する人材を定年まで処遇する。兼職を容認するなど勤務も弾力化し、天下り抑制につなげる狙いがある。2008年の通常国会に提出予定の国家公務員制度改革基本法案に制度導入を盛り込む。」(日経新聞2007年4月27日付夕刊・第1面)

一見すると、キャリア選択の自由度を増やしたかのように見えるこの制度だが、記事によると、「専門職への移行対象は、特定分野の業務経験を積み重ねた30歳代後半から50歳前後の課長補佐や課長級」とのこと。


技官の方はどうだか知らないが、少なくとも法律職で霞が関入りした人間が、30歳後半まで「特定分野」でみっちりと業務経験を積んだ、なんて話は早々聞くものではないし、ましてや50歳前後ともなれば・・・というのが率直な感想である。


要するに、「専門職」に移行するのが遅すぎるのだ。


筆者の会社もそうだが、日本の古典的な組織には、どうしても“ゼネラリスト崇拝”的な風潮が強いから、入社何年かは特定の専門分野を担当していても、その後のローテーションの中で、地方の出先機関や人事・総務的な仕事(役所で言えば昔の官房秘書課・文書課あたりか)を代わる代わるやらされるハメになる(そして、それらの仕事をソツなくこなす人間が“優秀”との評価を受け、40歳前後から出世街道を邁進していくことになる)。


いかに目の前の仕事が興味を引く中身であったとしても、何年か経てば必ず後釜が来て淡々と引き継がれていくことが分かっていれば、そして、自分自身が次にどんな仕事をやらされるか予測が付かない、という状況であれば、目の前の仕事に対する適性強化や専門的な勉強よりも、社内(省内)での人脈作りにうつつを抜かすようになるのは自明の理である。


そして、若い頃からそういう仕事(生活)習慣が身に付いた人間に、50歳近くになって「専門職」というポストを与えるとなれば、

「次官レースから外れた幹部らの事実上の「雇用の受け皿」となる恐れもぬぐえない」

という危惧が出てくるのも、当然のことと思える。


「鉄は熱いうちに打て」という格言に素直に従うならば、「専門職」になるかどうかの選択は、早ければ20代後半、遅くとも30代前半までにはさせておくべきではないのだろうか。


もちろん、俗世の民間企業と違い、一流官庁で仕事をしている若いスタッフの方々は短い在任期間の中でも自分の担当業務に対して非常に熱意を持って取り組まれているし、極端な話、民間人が4,5年かかって身につけるような特定分野の専門知識を半年も経たないうちにカバーしているような方も決して珍しくはない。


それゆえ、役所であれば上記のような「専門職」が機能しうる、という仮説も一応は成り立ちうるだろう。


だが、そうだとしても、次のくだりはいただけない。

「専門職は管理職手当が付かないため、給与水準はライン職より低くなる。」

記事の中では、「局長や審議官らのように国会答弁に備えた待機などは不要となり、勤務体系を柔軟化できる」「空き時間を使って大学の非常勤講師などを兼務する道が開ける」などというフォローもなされているが、あまりフォローにはなっていない。


一般的な原則に従うなら、「普通の人にはできない仕事をやっている」というところに、給料の格差を付ける理由があるはずで、マネージメント能力を期待してライン職管理者の給与を高めるのであれば、専門能力に期待して「専門職」のスタッフにも然るべき手当をつけるのは当然のことだと思う。


にもかかわらず、カテゴリカルにライン職と「専門職」とで給与水準に格差を付ける、というのでは、そもそも「専門職」の意義など認めていない、という“経営者”の“本音”が表明したに等しい結果となるし、「専門職」に“回された”人々の士気も当然下がることになる。


結果として、現在報道されているような形で「専門職」制度が導入されることになれば、優秀なキャリア官僚の方々にとっては、実に無意味な制度、ということで片付けられてしまうことになるだろう。



一寸先の見通しすら立てにくい今の時代、かつてのように「ゼネラリスト」としてグルグル社内を回って、キャリアステップを駆け上がっていく、という“王道”に魅力を感じる人間は徐々に減りつつあるように思う。


働く側としては、多かれ少なかれ、(自分の所属する組織が潰れても)メシを食い続けていけるだけの「専門性」を身につけたいと考えているわけで、従来どおりの人事運用に固執するがゆえにその欲求を満たせない組織は、遅かれ早かれ愛想をつかされることになろう。


学生の人気が衰えてきたとはいえ、民間に比べれば未だやりがいのある(ように見える)仕事も多く、身分保障も手厚い(ように見える)中央省庁のこと。今日明日に愛想をつかされることになるとは思わない*1


だが、人材の「専門性」を軽視したツケは必ずどこかで回ってくる。


これからの時代を生き抜こうとする組織の運営者は、常にそのことを心に留めておくべきなのではないかと思うのである。

*1:社員や潜在的な社員たる学生に愛想をつかされるとすれば、筆者の会社の方がずっと早いだろう(もう愛想を付かされている、というべきかもしれない・・・)。

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