オシムは神様じゃない。

アジアカップに挑んだオシム・ジャパンは、準決勝、3位決定戦と続けて敗れ、次大会出場権すら確保できないまま大会を去ることになった。


結果だけ見れば、決勝トーナメントに入ってから120分以内では1勝もできずに敗退したことになる。


いかに新チーム間もない時期の、調整的意味合いが強い大会とはいえ、この結果に不満を漏らすむきも多いことだろう。


だが、点をとってもとっても突き放された準決勝・サウジ戦、1人多い状況で攻め立ててもゴールが遠かった3決・韓国戦と、続けざまに見せつけられた“悲劇”は、オシム監督が目指そうとしているサッカーの方向性が間違っていない、と主張するための裏づけ的材料になるものではあっても、その逆ではない、と筆者は思っている。


嵩にかかって攻めるべきところでの弱さ。
しっかり守らないといけないところでの脆さ。


たぶん、この辺は日本人の民族的特性(苦笑)に由来するもので、トルシエの時代にもジーコの時代にも見られた傾向。


監督が変わったくらいで、そうそう簡単に変わるものではない。


仮にオシム監督に、トルシエ的な狂信的カリスマ性やジーコ的強運がなかったとしても、元々そんなものを期待して彼を監督に招いたわけではなかろう。



正直、3位決定戦の負け方はお世辞にも良かったとはいえないから、当初礼賛一辺倒だったメディアの風向きが変わってしまうことも十分に考えられるわけだが、筆者としては、先日も書いたとおり、フル代表としてはアジア初見参だったオーストラリアを“決勝トーナメント序盤で葬り去った”こと、だけでも今大会の意義は十分にあったと思っているから、今になってごちゃごちゃ言っている声を聞くと、

「グダグダ騒ぐな、ボケェ!」

と思ってしまうのである(笑)。


我らがジェフが悲惨な状況に置かれている今、パパオシムが解任されてチームに戻ってきてくれるのであれば(あるいは、そのまま別の国に息子を連れていってくれるのなら)、それはそれで良いことなのかもしれないが、日本は、まだ、そんな贅沢なことを言えるような“サッカー先進国”ではない、というのも、また事実なのだ・・・。

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