大相撲と「部分社会の法理」

あえて解説するまでもない「朝青龍・2場所出場停止処分」事件。


数日前のニュースを見ると、

日本相撲協会は1日、東京・両国国技館内で緊急理事会を開き、ケガを理由に夏巡業の休場届を出しながら無断帰国したモンゴルでサッカーに興じていた横綱朝青龍(26)=本名ドンゴルスレン・ダグワドルジ、高砂部屋=に対し、9月の秋場所と11月の九州場所の2場所の出場停止、4ヶ月の減俸30%の処分を決めた。現役横綱が罰則規定を適用され、出場停止、減俸の処分を受けたのは史上初。」(日本経済新聞2007年8月2日付朝刊・第41面)

とある。


世の中には、酒気帯びでミニバイクに乗って、運悪く検問に引っかかっただけで、年内の国際大会に出られなくなってしまった戦国武将の末裔もいるから、これまでメディア的には「散々悪行を働いてきた(とされてきた)」横綱に対する処分としては、これでも軽い、という輩は世の中に多数いるのかもしれない。


だが、現代における「大相撲」は、紛れもないスポーツ競技である。


「国技」や「伝統芸能」としての側面を否定するわけではないが、「大相撲」がそれだけのものだったら、毎場所の結果も、新聞の社会面の片隅に乗るか乗らないか、程度のもので終わってしまうだろう。


NHKが地上波で幕内の全取組を放映し、一日の結果がニュース番組や一般紙のスポーツ面で多くの時間・スペースを割いて紹介され、スポンサーの垂れ幕が土俵上をグルグル回るのは、それがプロ野球Jリーグと同じく、我が国を代表するスポーツイベントとして皆に認知されているからに他ならない。


賛否両論あるだろうが、筆者は、スポーツ競技者、特にプロ・スポーツの競技者に対する評価は、あくまで全力勝負の競技会におけるパフォーマンスで決めるべきもので、「品格」だとか、「タニマチへの貢献度」だとか、そんなもので決めるべきものではない、と思っている。


少々粗暴な振る舞いがあったとしても、土俵上の勝負でルールに則って、正当に白星を積み重ねた結果が、先場所での優勝。そして、それだけの結果を残した横綱に競技者として一体何の非があるのだろう?


「巡業」は相撲協会にとっては大事な収入源だし、それゆえ力士にとっては大事なお仕事なのかもしれない。


だが、競技者としての力士の一番の「仕事」は、本場所で結果を残すことだし、プロである以上、そこで結果を出すために調整することが何よりも一番求められることであるはずだ。


これまでだって、あれこれ理由をつけて巡業に出なかった番付上位者はいたし、万全の状態を取り戻さんとばかりに、本場所にすら長期にわたって出てこなかった横綱すら過去にはいた。


巡業をサボって、母国で心身のリフレッシュに努めることが、過去の事例に照らして、これだけの重い処分に値することなのか、筆者は大いに疑問に感じている。



今回の処分の引き金になった一件にしても、世の人々の反応から透けて見えるのは、おぞましいまでのナショナリズムである。


今回、朝青龍関は、たまたま母国で“慈善的なサッカーイベント”に出たおかげで、非難の嵐にさらされることになってしまったわけだが、もしこれが、

「ケガで休場中の日本人横綱が、故郷の新潟で慰問と復旧支援を兼ねた“サッカーイベント”に出場した姿がテレビで放映された」

という事象だったとしたら、ここまで叩かれることはなかったはずだ*1


そもそも朝青龍関の日々の“行状”に対する評価だって、色眼鏡で見たバイアスが相当程度かかっている。


土俵上でアスリートとしての闘争本能をむき出しにしただけで、やれ「品位がない」だの「伝統文化を理解していない」だの、と言われてしまうのであれば、ダグワドルジでなくても「やってらんねー」と思うだろう。


かつて、同じように土俵の中でも外でも負けん気の強さを見せ付けていた大横綱はいたが、人々は彼を「狼」とは呼ぶことはあっても、人非人扱いすることはなかった。なぜなら彼は日本人だったから・・・。



まぁ、ここでいくら叫んでみたところで、読者の共感を得られるとは思っていないし、ましてや相撲協会の処分がひっくり返るわけではないのだが、「一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する部分社会」の典型である相撲界とて、決して聖域ではないということは指摘しておかねばなるまい。


今回相撲協会が行った処分の中には、「謹慎」という名の過度な人権制約(=事実上の身体拘束に限りなく近いもの)が含まれているから、それ自体「単なる内部規律の領域を超え、市民法秩序につながる」ものといえなくもない。


そして、もし仮に今回の処分が内部規律の領域にとどまるものであるとしても、朝青龍関がそれに違反したことを理由として(例えばモンゴルに帰国する等して)、解雇処分にまで至った場合には、明らかに市民法秩序に連なる問題として、協会の処分は司法審査に服することになる。


憲法問題まで持ち出すかどうかは一種の戦略になるが、それをあえて持ち出さなくても、処分による制裁の目的とそれに照らした制裁手段の均衡が保たれているかどうか、という争点を司法審査の俎上に乗せることができれば、原告たる朝青龍関側が勝訴する確率は、限りなく高いように思われる*2


そもそも“偉い親方衆”や“大多数の人々の国民感情”に反して、処分の効力を争うこと自体、「伝統文化を理解していない」という評価につながってしまうのかもしれない(苦笑)。


だが、天の声に異を唱えることさえ許さないような、閉鎖的な「伝統」なら、さっさと壊してしまうにこしたことはない。


この先待っているのが劇的な復活劇なのか、潔い出処進退なのか、それとも永遠に続きそうな泥仕合なのか・・・、俄かには予想しかねるところではあるが、モンゴルの英雄と昭和の大横綱が法廷で対決する、という展開もそれはそれで面白い、と
筆者は思っている。


そして、その頃には、失ったものの大きさに誰もが気付いていることだろう・・・。

*1:せいぜい、某脚本家あたりから、苦言を呈される程度だろう。

*2:スポーツ仲裁のような迂遠なADR手続に乗せるより、裁判所に持ち込んだほうが簡潔明瞭な解決が可能になるはずだ。

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