なぜ「公立校」はかくも愛されるのか

全国高校野球選手権大会決勝で、“文武両道”で鳴らす公立普通校・佐賀北高校が名門・広陵高校を5−4で下した。


4点ビハインドで迎えた8回一死満塁から、押し出しと3番・副島選手の劇的な逆転満塁ホームランでまさかの逆転勝ち。


勝戦での満塁ホームランと言えば、94年に佐賀商・西原選手が樟南高校の福岡真一郎投手から打った一本が印象的で、今回も「佐賀県のチーム」というあたりに時代のめぐり合わせを感じたのであるが、今大会での一発には、それ以上の意味があったようである。


予選開始前に、特待生問題でもめにもめた後の大会で、爽やかに快進撃を続ける公立普通校の生徒たち。


朝日新聞的には“甲子園”の価値の普遍性をアピールする絶好の展開になっていたところで、マンガの世界のような鮮やかなフィナーレ。


勝戦をリアルタイムで見つめていたであろう新聞社の幹部連は、その瞬間、高野連の御仁ともども小躍りして喜んだことだろう。


実際、観客の多くも佐賀北ナインを後押ししていたようだし、朝日のみならず、多くのメディアも佐賀北の優勝を好意的に取り上げている。


ことスポーツ面に関しては、時に皮肉も交えた、冷静かつ客観的な姿勢が際立つ日経新聞でさえも、

「うちはプロに行くような選手はいない。チームが一つになって勝ってきた。それが高校野球だと思う」と副島。普通の公立校の、普通の生徒たちの日本一。特待生問題を改めて考えさせる大会になった」(日本経済新聞2007年8月23日付朝刊・第37面)

と、“歴史的勝利”を祝っているあたり、このフィーバーぶりを如実に表しているといえるだろう。


冷静に考えれば、どんなに野球エリートをかき集めたとしても、試合でフルに使える選手は9人+αに限られるわけで、一発勝負のトーナメント戦では何が起きても全然不思議な話ではない。


それに、地元でそれなりの格がある公立高校なら、ある程度運動神経のいい生徒*1と優秀な指導者が集まってくるわけで、その辺の真の意味で“平凡”な私立高校に比べればよほど環境的には整っているといえる。


それゆえ、本当に彼らが「普通の生徒」といえるのかどうか、突き詰めて考えれば疑問なしとはしないのであるが、そんなところには目を瞑って、「公立高校」の優勝を称えるのが今の“空気”ということらしい。



まぁ、これは高校野球に限ったことではなく、概して世間の風は“公立”に温かく、“私立”には冷たい。


特に上の世代になればなるほどその傾向は顕著で、会社のおエライさんと出身校の話をしたところで、

「君の出身高校はどこだい?」
「○○です。」
「ああ、私立ね」

の一言で終わりである*2


これが都立高や地方の公立高校の出身となれば、周囲を巻き込んで、北だの南だの一高だの二高だの、ひいては、お国自慢話だのにつながっていくのであるが、私立の場合は、運良く同窓の人間にあたったとしても、「学校の話はまた今度ゆっくり」とそれっきりで終わってしまう。


自分たちの母校の存在を地域全体の象徴としてアピールできる階層と、所詮OB・OGの間でしか母校の存在を共有できない階層との間の埋めがたい“格差”。


教育ママの世界では人気のある学校でも、一歩社会に出れば、“所詮私立”と片付けられる、それが今の世の中の実態だということは、“私立がデフォルト”時代に生きている現代の中高生といえど、よくよく覚えておいたほうが良い。


学業でもスポーツでもいいから少しでも実績を上げて生徒を集めたい、という私立学校の当たり前の経営努力を、あたかも不祥事であるかのようにバッシングする人々の多くが、名門公立高校出身のエスタブリッシュメントである辺りを見ても、この“格差意識”は社会に根深く浸透しているといわざるを得ないのだ*3



・・・とはいえ、筆者自身も佐賀北と帝京が対戦した準々決勝では、思いっきり佐賀北を応援してしまったのは事実なのだが・・・・*4


残念ながら、日本人である限り、この呪縛からは逃れられないのかもしれない。

*1:内申点も含めた総合判断で合否を判断する今の公立普通高の選抜方式による限り、上位校に進学できるのはある程度バランスの取れた生徒だけ、だと推測される。

*2:「“あの”私立ね」と定冠詞の“あの”が付くことはあるが、そこには若干の侮蔑的意味合いが含まれる。別に自分とて出身高校のようなどうでも良い話をしたいわけではないのでそれで結構なのだが、自分で話題を振っておいて、そういう態度をとるのはヒトとしていかがなものかと思う(苦笑)。

*3:もちろん、高校野球のような、島国的リージョナリズムを前面に押し出すイベントゆえ、なおさら際立って“格差意識”が出てきてしまっていることも否めないのだが。

*4:広陵高・野村投手の8回の連続四球の判定が物議を醸しているが、判定の微妙さという点で言えば、帝京高校の2度のスクイズ失敗の方がよほど“疑惑の判定”なのではないか、と筆者は思っている。