そして、伝説は生まれた。

9日の日経夕刊の記事を見て思わず失笑した・・・。

法務省9日までに、2007年度旧司法試験の最終合格者248人を発表した。(以下略)」(2007年11月9日付日経新聞夕刊・第18面)

昔なら合格発表翌日の朝刊に発表シーンの写真入りで出ていたような記事が、社会面の片隅に、“あたかも地球の裏側の小国のクーデター報道”のようなトーンでひっそりと乗っている。


つい2ヶ月ほど前の、新司法試験の合格発表の時の記事の大きさと比べてもそのギャップは歴然としているわけで*1、つい数年前まで“資格試験の中の資格試験”と言われた伝統の面影も、それに対する敬意も、ここから見て取ることはできない。


「これも一つの時代の流れさ・・・」と無関心を決め込むのは容易いが、そこに看過できない落とし穴が潜んでいないか・・・。


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ちょうど一年前、本ブログで取り上げた著名旧試験受験生のブログから*2吉報が届いた*3


年を経るごとに半分ずつ減っていく残酷な椅子取りゲーム。
決して半端じゃない社会人経験を経てからのチャレンジ。
そして、スタートラインに立ったときには、生まれてからそれなりの歳月が過ぎていたというある種のハンディキャップ。


この季節になると毎年のように「継続」と「撤退」の間で葛藤を見せていた「ぷーさん」が、最後まで逃げずに大きな成果を掴んだ、ということに、我々凡人としては素直に賞賛の声を送らねばなるまい。



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筆者は、法科大学院→新司法試験という今の法曹養成システムそれ自体に致命的な欠陥があるという立場はとっていない。


最低限必要な知識や技巧を共有化し、「法曹」という資格を持った人々の均質化を図る、という点では、現在のシステムの方が、従来よりもふさわしいものだと言えるだろう。


ただ、みんなお行儀よく、2〜3年机を並べて、同じようなプログラムで学んでいく、というルートが確立された時代には、「ぷーさん」のような“独学で勝ち上がっていく誇り高き異端児”が勝ち上がっていく余地は確実に減るだろう。


そして、そのことが「法曹」の世界にもたらす影響は、決して小さいものではないように思われる。


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今、一線で活躍されている弁護士の先生方は、良きにせよ悪しきにせよ、概してプライドが高い。


そして、そこには、現在の社会的評価もさることながら、人並み外れた努力をして自力で高いハードルを飛び越えてきた“異端児”、としての、自らのバックグラウンドに対する意識も大きく寄与しているはずだ。


プライドの高さは、時に前向きな変革を拒む障壁として機能することがある反面、些細な世事にこだわらず、自らの職業に対する高い使命感と倫理意識を持ち続ける「強さ」を与えることにもつながる*4(もちろんプライドが逆方向に作用する輩も当然出てくることにはなるだろうが、少なくともこの国に関して言えば、法曹の方々の使命感や職業意識は概して高いと思う)。


組織においてどんなにステータスの高い人間だろうが、面と向かって「あんたは間違っている」と言わねばならない、あるいは、周囲の同僚や地域の住民がみんな逆の考え方を持っている中でも主張すべき権利は主張しなければならない時が必然的に出てくる「法曹」という職業において*5、そういった「プライドの高さ」が、“まっとうな仕事”を貫く上での原動力となっていたのは間違いないし、現にそういった「強さ」を持つ先生方も、これまでの仕事の中でたくさん見かけてきた。


クライアントと同じ目線に立って、相手の感情を思い遣ることは、プロとして当然の流儀だとしても、「近所のおじちゃん、おばちゃん、お兄ちゃん・・・(以下略)」的な心持ちで仕事に携わっていたのでは、決してプロとしての仕事はできない・・・筆者はそう思っている。



どんなにシステムが変わっても、必ず「異端児」という存在は出てくるものだから、そういった人種が絶滅することはないだろう。


だが、基本的に学生は放置プレイだった“大学”という大草原(さらに学生の身分を失った後の大海原)で培われた異端精神と、(学費に見合う中身かどうかはともかく)ある程度の知識が授けられ、一定の身分*6も与えられた“法科大学院”という環境で培われた異端精神とでは、そもそものスケールが異なる。


“守られた時代”が長く続くことによって、優秀、かつ人当たりもよいが、プライドに裏打ちされた信念を守ろうとする「強さ」に関して物足りなさが残る「法曹」が世に多数輩出されることになったとしたら、筆者ならずとも「それはちょっとどうなの?」という思いを抱く人は決して少なくないはずだ*7


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元々、「ぷーさん」のような方は、旧システム下の受験生の中でも稀有な存在だったのだろうし(それゆえブログがあれだけの話題になった)、今だって同世代の新卒学生の中で「法曹」を目指している人の数などたかが知れているのだろうから*8、とりたてて“影響”なるものを気にするのは、一種の杞憂というべきなのかもしれない。


だが、環境が整えば整うほど失われるものもある、ということは、心のどこかに留めておいた方が良いのはまちがいない。


これは単に、劇的なドラマが見られなくなることへの哀しさ、という感傷的な次元の問題に止まる話ではないのだから・・・。




「ぷーさんの受験日記」は、2007年11月8日に一つの「伝説」へと昇華した。


さらにこれから、2年後のホロコーストに向けて、「ぷーさん」を超える新たな“伝説”が生まれることもあるのかもしれない。


願わくば、そんな“伝説”のハッピーエンドが、「法曹」という“良い意味でも悪い意味でもシンボリックな職業”の終焉の始まりにならないことを、筆者はただただ祈るのみである*9

*1:それでもニュースになっただけマシ、という噂もある。

*2:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20061014/1160887759#tb参照。

*3:http://highway-star.cocolog-nifty.com/pooh/

*4:「合理的経済人」しか念頭にない“市場万能主義者”は、こういった発想を鼻で笑うのかもしれないが、人間というものがそんなに単純なものでない、というのもこれまでの歴史の中で散々示されてきていたはずである。

*5:前者については、プロとしての「法曹」に限らず、法務なり企業コンプライアンスなりに携わる多くの人間が持っていなければならない「覚悟」のはずであるが、“アマチュア”としての身分の不安定さが実際に行動に移すことを躊躇させるのも事実であって、そんな時には「プロ」の力に頼らねばならないのが現実である。

*6:あくまで公然と司法試験の勉強に専念できる、というレベルの身分保障に過ぎないが(笑)。

*7:もちろんそういった“クセのない”法律家は、こういった人々を「道具」として使おうとしている一部の勢力や、足元を脅かされたくないと考えている(既存の)法律家たちにとっては好都合かもしれないが、「法律のプロ」に課された社会的使命を考えると、そのような状況を手放しで肯定することはできないように思う。

*8:その意味では未だに彼/彼女たちは「異端児」というべきなのかもしれない。

*9:なお、筆者個人としては、「他人の人生を羨む前に、今自分にできることをしろ」という言葉を噛み締めて、前に進むのみである。

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