謝罪文化

今朝の日経新聞「春秋」欄を見て、思わず苦笑。


「誰か必ず見てるゾ」の防犯ポスター標語から始まって、最近の世の不祥事を辛らつに批判した挙句、「人目のいかんは問わず悪はなさぬが道理」、「そんな道理が通用しなくなった時代をポスターは映している」と、“ジャーナリスティックな”苦言を呈するあたりまではまだ分かる。


問題は最後の段落で・・・

「ぺこぺこ頭を下げるばかりでなく、たまには経営者から「こちとらお天道様に恥じない商売をしてるんだ。ひと様に四の五の言われる筋合いはない」と、啖呵の一つも聞きたいと思う。」
日本経済新聞2007年11月13日付朝刊・第1面)

ときたもんだ。


いや、世の経営者ならずとも、記者会見の場でこう叫びたいと思っている方々はたくさんいると思うけどね(苦笑)。


なぜ、そうせずに頭を下げるか、と言えば、自分に責任があろうとなかろうと、「社長以下勢ぞろいで頭を下げた絵」を撮らせてあげればメディアの騒ぎが早く収まるから、に過ぎない。


カメラの放列向けて人様に頭下げることが仕事のような今のメディアから、「頭下げてばっかりじゃ情けない」なんて言葉が飛び出すなんて、どの口が言ってるんだよ、おらーーーー(以下略)


といった気分である。


こういうのは別に今に始まったことではなく、すぐムキになって根拠のない正義感を振り回すのは、世紀を超えた「大衆メディア」の本質的“持ち味”になっているし、実際叩いて正解・・・という事例もないわけじゃないから、一概にメディアばかりを責めるのも良くないのは承知の上(一番悪いのは、それを鵜呑みにして煽りに乗っかってしまう我々だというのは、今さら説明するまでもないのだ・・・)。


だが、実際には犯罪でも何でもない行為をあたかも「悪いこと」のように報じてみたり、その会社や糾弾されている人物がそれまでに世の中で果たしてきた貢献に比べれば些細な落ち度を、あたかも「極悪非道な行為」であるかのように報道してみたり・・・


と挙げていけばキリがない。


もちろん、何らかの騒ぎを生むようなインシデントがあったのなら、それなりの説明責任は果たすべきだが、どんなに真摯に説明をしても、土下座しないと「法令順守意識欠如」という烙印を押されてしまうのが今の世の中の現実。


酷いものになると、90分の会見のうち、80分費やした説明には何ら言及されず、5分に満たない「土下座」が延々とテレビで流されたり、記事スペースの半分以上を埋め尽くしたりする。



もちろん、会社という組織に関していえば、根本的なところで間違いを犯していなければちゃんと生き残れるようになっているのだが、その過程で取り返しのつかないような大きな傷を負ってしまう“組織人”もいるわけで、そういったところの反省の弁もないまま、朝から能天気な講釈読まされてもなぁ・・・というのが率直な気分なわけだ。



まぁ、間違って自分がどこかの会社の社長になって、しょうもない国策捜査の犠牲にでもなりかけた暁には、目の前に座っている(かもしれない)日経の記者に向かって、

「こちとらお天道様に恥じない商売をしてるんだ。ひと様に四の五の言われる筋合いはない」

くらいのことは言うかもしれないが(笑)、少なくとも自分が法務・コンプライアンス担当者の立場で、あるいは(仮に)社外の専門家の立場で、社長に同じようなことをしろ、とアドバイスできるかと言えば、答えは「No。」である。


哀しいことではあるが、「謝罪文化」にはちゃんと理由があるのだ。

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