薬害C型肝炎訴訟の行方

阪高裁の和解協議が事実上決裂、と報じられ、どうなるかと思っていたら、突如として「一律救済」のニュースが・・・。

福田康夫首相は23日、薬害C型肝炎訴訟に関し、被害者全員を一律救済する方針を表明した。自民、公明両党が今国会に議員立法で救済法案を提出、野党にも協力を呼びかけて早期成立を目指す。原告・弁護団は同日、「大きな一歩であると評価し、解決につながることを期待する」との声明を発表した。」
「政府はこれまで血液製剤の投与時期などで救済対象を区切り、原告側が求める一律救済に消極的だったが、和解協議の事実上の決裂を受け、政治決断で早期収拾を図ることにした。」
日本経済新聞2007年12月24日付朝刊・第1面)

個人的には、先日出された政府側の和解骨子修正案は、国としての合理的な判断の範囲でなしえる最大限の譲歩だったのではないか、と思っていて(特に金銭的な面で)、そこであえて「責任の所在」に固執して案を蹴飛ばした原告側の姿勢は、正直言ってあまり感心できるものではない、と思っていたのだが、各メディアが「すべては官僚の抵抗のせい」(苦笑)という時流に乗って、徹底した対政府バッシングを繰り広げたことで、更なる大幅譲歩を引き出したのだから大したものだ。


だが、冷静に考えれば、今回のような処理を手放しで評価することは本来できないはずである。


薬害被害者の視点から見れば万々歳、な話であっても、このような事例で「国が責任を認め金銭を支払う」ということは、最終的には国民全体に責任と負担を課すことに帰する。


ゆえに、政治決断をするにしても、今後の同種の問題に与える影響力を勘案しながら慎重に行う必要があるのはいうまでもないことなのだが、今回“世論に押し倒される”形で政治決断を迫られたことによって、今後別のところで国民生活に悪影響が出ないとは限らない。


投薬、のみならず医療行為全般が必然的にリスクを伴うものである以上、(現実的な損害の填補の問題はともかく)、国が負うべき「責任」については、当の行為が行われた時点のリスク状況に応じて柔軟に判断していかないと、かえって硬直的な薬事・医療行政をもたらすことにもなりかねないように思うのだ*1


一方当事者の利益を重んじれば、もう一方の当事者が足枷をはめられることになる、という紛争の基本的な構図は、一般的な民事訴訟だろうが、国家賠償訴訟だろうが、異なるものではない。


後者について、「公共の利益」などという大上段に構えた議論を展開するつもりは毛頭ないが、かといって、嵩にかかった後付けの議論で行政行為の裁量性を全否定するような流れに持っていくのも考えものである・・・。



なお、人身に対する被害が回復不可能な、甚大なものであることを考えると、自分とて、現在罹患している人々への救済の必要性を否定するものではない。


だが、それは「国家賠償」のスキームではなく、あくまで中立的な「国家補償」の枠内で行われるべきものと考える。


故意に都合の悪い事実を隠蔽するような悪質な事案でない限り*2、責任の所在を問うことなく、公的補償によってダメージを受けた患者を救済する、そしてそのような制度を、製薬会社、医療機関、国そして医療行為を受ける全ての人の、公平な拠出に基づいたものとして設計していく・・・。


労力のかかる訴訟に時間を費やすことよりも、目の前で苦しんでいる罹患患者や、それによって一家の大黒柱を失った家庭の生計を迅速に担保する方策を打ち立てることのほうに、より注力すべきではないかと思うのは筆者だけだろうか。

*1:当局の思惑はどうであれ、新薬の承認に際して過度に消極的になったり、未承認薬を利用した医療行為を回避させるような制度設計(混合医療をめぐる問題にそれが端的に現れている)に向かうことへの口実を与えることにもなりかねない。

*2:今回の事案がこのようなものに該当するかどうかの評価は、自分自身訴訟資料に触れたわけではないので、ここでは差し控えることにしたい。

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