「労働契約法」の時代

昨年12月にひっそりと公布された労働契約法。


今年の春、施行されるのは間違いないと思われるのだが、今のところ、世間の注目はさほど集めていないようである。


そんな中、東京学芸大学の野川忍教授が書かれたショートコメントがNBL新年号に掲載されているのを発見した*1


標題は「これからの労働契約−労働契約法制定後の展望」。


詳細については、直接ご覧いただくことをお勧めするが、自分が一番印象に残ったのは以下のくだりである。

「これまでの雇用社会では、ともすれば「労働者は、企業という組織に従業員という身分で組み込まれるのであり、企業に屈従する」という誤解が蔓延してきた。集団主義的な人事管理や年功制賃金制度もそれを助長してきたといえよう。しかし、労働契約法の成立により、今後は「雇用は契約である」という理念を現場でも徹底させざるを得ない。」(27頁)

野川教授ご自身も認めておられるように、今回成立した労働契約法は、本則規定が「わずか17条」しかないものであり、それをもって「労働基準法労働組合法とならぶ「新しい労働三法」と位置付けるのは、いささか気が早いようにも思えるのであるが、時間が経つ中で、今回制定された法の理念が浸透していけば*2、我が国の“異常な”労使間契約の慣行も改まってくるのではないかと思われる。


特に、上記コメントの中で言及されている、

「労働者の処遇にかかる事項は可能な限り書面化することにより、近い将来に、一人ひとりの労働者と使用者とによる「労働契約書」を日本の雇用社会全体に普及させる方向を目指す必要があろう。それがグローバルスタンダードである。」
「また、就業規則による集団的管理のカバリッジをできるだけ限定して、個別労働契約による透明で明確なルールを拡大する努力も不可欠である。」
(28頁)

といった点については、早急に働いている側からアクションを起こしていかなければならないだろう*3


有期雇用契約を締結している社員が「契約社員」という不可解な俗称で呼ばれていることからも分かるように、これまで、会社と働く者との関係が「労働契約」で規律されている、という事実に対して、我が国の人々はあまりに無自覚であったといえるだろう*4


「契約」というと一見ドライな印象を与えるが、法原則に則って考えれば、それは強い拘束力を有するものなのであって、当事者となった以上は「必ず守らねばならない」ものである。


それがどうだろう。

「会社に入ってみたら採用の時に聞いていた条件と全然違う」
「○○の仕事をやらせてくれる、と言っていたのに全く希望と違う職種に回された」
「当面転勤はない、という話だったのに、急に転勤辞令が出た」

“人事の口約束”ほど、当てにならず、あっけなく反故にされるものはない。


勇気を出して文句の一つでも言おうものなら、すかさず「就業規則には・・・と書いてあるでしょ」、「全ては会社の人事権に則って決めたことです」と、悪質なキャッチセールスも真っ青になるような回答が帰ってくる。


組合も所詮は「企業内組合」の枠を脱しきれないから、この種の「包括的人事権」「会社の裁量の範囲内」という言葉には弱いのであって、解雇事案や就業規則の不利益変更事案にでもならない限りは、沈黙されてしまうのが関の山である。


だが、そんな時代もやがては終わりを迎えることだろう。


野川教授は次のように指摘する。

「使用者も、「人事権」という茫漠とした包括的権限から脱却し、個々の労働者との間の権利義務関係を踏まえた明確で適切な対処が求められるようになろう。」(28頁)


かつてのように、紙の上の人事台帳に手書きで社員情報を書き込んでいたような時代ならまだしも、多くの大企業ではIT化が進み、社員情報・人事情報もシステム上で管理できるようになってきているのだから、「個々の社員ごとに条件が異なると管理しきれない」といった類の旧来の“弁解”は、もはや通用しない。


一般的な定型条件から変更したところだけフラグを立てておけば、5秒もあれば識別できる話なのだから、今後は、人事サイドでも全社員と個々に契約交渉を行うような心構えで臨んでいただかなければ困る*5


それでも、従来どおりの集団的な枠組みに固執するのであれば、それはもはや“人事のメンツ”を守るためだけの頑迷な時代錯誤的抵抗というほかない。



もちろん、契約によって労働条件を明確化する、ということになれば、働く側としても、自らの(そして自らの家族の)ニーズを的確に把握し、労働条件の設定に際して適切な選択をしなければならなくなるから、それだけ慎重な判断が求められる、ということにもなってくるし*6、全ての働く者に、対等な立場で冷静に人事と交渉せよ、というのもいささか酷な話なのは事実であろう。


ゆえに、従来の就業規則法理(不利益変更に関する法理等)の枠組みをある程度維持したまま、希望者のみ交渉で個別条件を設定する、というのが当面は穏当な策なのかもしれない。


だが、そうそう簡単にはいかないにしても、人それぞれ、ライフスタイルや仕事に対するスタンスが異なる以上、みんながみんな同じ労働条件で拘束される、という異常な“労使間秩序”は、いずれ破壊されなければならないだろう。そして、今後、企業間の労働力(特にホワイトカラー)争奪戦が繰り広げられていく中で、先進的な企業からこの点も少なからず改善されていくことになると思われる。


労働契約法第3条1項、

「労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする。」


は、単なる精神規定ではない。


法律が施行される前に、我々は、そのことの意味をもう一度、深く考えておく必要があると思うのである*7


なお、野川教授の最近の著作として、以下の二点をご紹介しておくこととしたい。


一つ目は、労働契約法の本格的な解説本としていち早く出された感があるし*8、二点目の概説書は、全体的にコンパクトに纏められて読みやすいものだと思う。


わかりやすい労働契約法

わかりやすい労働契約法

労働法

労働法

*1:NBL872号27頁(2008年)。

*2:具体的には、最近出たところでジュリスト1347号(2007.12.15号)の菅野和夫「雇用システムの変化と労働法の課題」6〜8頁、荒木尚志=土田道夫=中山慈夫=宮里邦雄「新労働立法と雇用社会の行方−労働契約法・労基法改正・パート法改正」12〜22頁などが、分かりやすくかつ参考になろう。

*3:労働契約法第4条2項では、「労働者および使用者は、労働契約の内容(期間の定めのある労働契約に関する事項を含む。)について、できる限り書面により確認するものとする。」と定められている。

*4:言わずもがな、であるが、いわゆる「正社員」とて、“期限の定めのない”(つまりは一方が申入れをすればいつでも解約できる(注:もちろん労基法18条の2や、解雇権濫用法理の適用は受けるが)契約を会社と交わしている者に過ぎないのであって、有期契約をしている社員だけが“契約”に規律されているわけではない。

*5:少なくとも、採用時点と、採用後一定期間経過後、定期的に行う必要があると思う。

*6:もっとも、これは労働契約法の法理から“新たに”生じた、という性質のものではないし、従来「包括的人事権」の笠に隠れて、一方的に「条件」を押し付けられていたことを考えると、働く側にとっては大いなる前進ということができるはずなのだが。

*7:なお、蛇足ではあるが、くれぐれもメディアの皆さんには、今回の「労働契約法」に「一億総契約社員化法」などという、わけの分からないレッテルを貼らないようお願いしたいものである。

*8:ただし、直前の国会での修正等がどこまで反映されているかは自分も確認していないので、買うにはもうワンテンポ遅らせた方が賢明かもしれない。

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