格安DVD事業者に勝ち目はないのか?

以前、チャップリン映画の格安DVD販売差し止めをめぐる記事を簡単にアップしたところ、多数のブックマークをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20080229/1204328696


それだけ多くの人が関心を持っている、ということなのだろうが、判決をあらためて読むと、思っていたほど「解釈が固まりつつある」わけでもなさそうだ。


裁判所が行った「著作者」の認定プロセスや、控訴人側が新たに控訴審で繰り出した主張に対して裁判所がどのように応じたのか、といったあたりを眺めつつ、この種の訴訟の今後の行方を占ってみることにしたい。

知財高判平成20年2月28日(H19(ネ)第10073号)*1

控訴人:有限会社アートステーション、株式会社コスモ・コーディネート
被控訴人:ロイ・エクスポート・カンバニー・エスタブリッシュメント


裁判所は、本判決において、著作権の存続期間が争われていた映画9作品の著作者の認定について、以下のような興味深いアプローチを採用している。

ア「サニーサイド」
証拠(略)によれば,「サニーサイド」は,1919年(大正8年)6月に公開されたチャップリン独特の社会風刺の喜劇映画であり,チャップリンは,つけ髭,山高帽等の特異なスタイルで自ら主役を演じたものであること,同作品は,同月4日,米国著作権局において,著作者を「チャールズ・チャップリン」,原著作権請求者を「ファースト・ナショナル・エキシビターズ・サーキット」として登録されたこと,映像の冒頭には,映画の題名として「'SUNNYSIDE' Written and Produced by CHARLES CHAPLIN」との表示があって、チャップリンの原作でチャップリンが制作したことが示されていること,上記作品は,その発案から完成に至るまでの制作活動のほとんどすべてをチャップリンが行っているところ,その内容においても,チャップリン自身の演技,演出等を通じて,チャップリンの思想・感情が顕著に表れていることが認められる
イ「偽牧師」
(以下略)
(12-13頁)

上の例から分かるように、裁判所は個々の映画作品について、チャップリンが製作にどのように関与しているのかを個別に認定した。


そして、

「一般に,映画の著作物の場合,その製作において,脚本,制作,監督,演出,俳優,撮影,美術,音楽,録音,編集の担当者など多数の者が関与して創り出される総合著作物であり,その中に,関与した多数の者の個別的な著作物をも包含するものであるが,映画として一つのまとまった作品を創り出しているのであるから,旧法においても,映画著作物の全体的形成に創作的に寄与した者が映画著作物の著作者であるというべきであり,この者が旧法3条の「著作者」に当たるものと解すべきである。」(20頁)

という規範に基づき、

「前記(1)認定のとおり,いずれも,チャップリンが原作,脚本,制作ないし監督,演出,主役(「巴里の女性」を除く。)等を1人数役で行っており,上記作品は,その発案(「殺人狂時代」を除く。)から完成に至るまでの制作活動のほとんど又は大半をチャップリンが行っているところ,その内容においても,チャップリン自身の演技(「巴里の女性」を除く。),演出等を通じて,チャップリンの思想・感情が顕著に表れているものであるから,映画著作物の全体的形成に創作的に寄与した者はチャップリンでありチャップリンが旧法3条の「著作者」に当たるものというべきである。」(20頁)

と認定した上で、旧法3条の「著作者の死後30年間」という著作物の保護期間を適用したのである。


また、争われている9作品の中には、「独裁者」や「殺人狂時代」のように、

米国著作権局の登録において,それぞれ「チャールズ・チャップリン・フィルム・コーポレーション」,「ザ・チャップリン・スタジオ・インク」,「セレブレイテッド・フィルムズ・コーポレーション」が著作者とされており,法人名義の著作者登録となっているので,旧法6条の適用があるか否かが一応問題となる。」(21頁)

ものも存在したのであるが、裁判所が、旧法6条を「自然人の実名義での公表、無名又は変名での著作物の公表に当たらない場合」と位置付けた上で、

「独裁者」、「殺人狂時代」及び「ライムライト」は、公表された画像において、チャップリンが上記各映画著作物の全体的形成に創作的に寄与したものであることが示されている以上、旧法3条の実名による著作者の公表があるものと認めるのが相当である」(21頁)

と控訴人の請求を退けている。


これまでのチャップリン事件の原審や、黒澤明映画事件など、これまでの判決においては、存続期間が「公表時点から起算される」のか、それとも「著作者の死後から起算される」のか、という点の争いが最大の関心事になっており、権利者側が権利存続期間算定の基礎としている「自然人」(チャップリン黒澤明監督)が本当に各映画の「著作者」といえるのか、という点についての認定判断が必ずしも十分とはいえなかったように思われる。


だが、本判決においては、簡潔な記述ながらも、その点にまで踏み込んで実質的に認定する姿勢を示しており、その結果、どう見ても「団体名義」で公表されている作品についても、「実質的な著作者は誰か」という理屈で、「自然人名義」のものという認定が押し通されることになった。


ことチャップリン映画に関しては、「一人○役」のチャップリンが「全体的形成に創作的に寄与」したことに何ら疑いはないから、本事案の結論としては妥当だといわざるを得ないが、このようなアプローチを貫いた場合に、果たして旧法下の全ての作品について、都合よく「死後33年間経過していない映画監督」を「著作者」とすることができるのか、疑問も残るところである。


戦前に作成されたような映画について(中には監督が「撮らされた」だけの国策映画だってないとはいえない)、いちいち製作経緯を遡って調べないといけないのだとしたら、権利者にとっても、利用者にとっても煩雑なことこの上なく、権利関係を不安定にすることは容易に予想されるところだが、果たして裁判所の思いはそこまで至っていたのだろうか。

控訴人側の積極的主張に対する判断

控訴人側は、旧法における「映画の著作者」の解釈について、「映画製作に創作的に関与した者の共同著作物である」という考え方だけでなく、「映画会社、プロダクション等の単独の著作物である」という考え方も存在していたことを指摘し、さらに、共同著作物であっても、

「その利用が円満に行われるためには、多数の著作者の権利主張によってその利用が阻害されないことが必須」

であるとして、

「旧法の適用又は法解釈としては、団体著作権に係る旧法6条によって、一律に公表から30年ないし33年を保護期間とすべきである」

と、(シェーン事件の東京地裁判決にも触れつつ)主張していた。


「利用の円滑化」という観点からの上記のような主張には、一理あるところであり、それゆえ、裁判所がどのようなリアクションを示すか注目されたのであるが、

「旧法において、「団体」の著作物に関する規定を置いていない以上、原則に戻って、自然人が映画著作物の著作者となるものと解すべき」(23頁)

という立場を堅持する裁判所は、

「旧法6条は、団体著作を認めた規定といえない上、共同著作物である映画の利用が円満に行われる必要性があるという政策的な問題があるからといって、このような政策論から、直ちに、旧法6条の適用に結び付けるのは、論理の飛躍であり、失当である。」(24頁)

と控訴人の主張を一蹴し、さらに、

「上記判決において,映画「シェーン」が,米国法人の著作名義をもって公表された著作物であるとして旧法6条を適用されていることは,当裁判所に顕著である。しかし,前記(4)イ認定のとおり,本件9作品は,いずれも,チャップリンが映画著作物の全体的形成に創作的に寄与した者であって,チャップリンが旧法3条の「著作者」に当たるものというべきであり,しかも,団体の著作名義をもって公表された著作物であるともいえないから,映画「シェーン」の場合とは事案を異にするものであって,これと同列に論ずることはできない。」(24頁)

と片付けてしまったのである*2


前者に関しては、「法律の文言解釈の限界」といってしまえばそれまでなのだろうが、仮に旧著作権法下での映画作品をめぐって、映画会社と「著作者」の間に争いが生じたような場合であっても、同じ理屈が適用されるのだとしたら、ちょっと危うい。


また、後者についても、「実質的な著作者」が誰かについて議論されていない「シェーン」事件について、あっさりと「事案を異にする」と言い切ってしまって良いのか、という疑問が残る。


「シェーン」の場合、米国著作権登録が団体名義で行われていた、という事情もあったと記憶しているが、先述したとおり、それは「チャップリン」の一部の作品についても同じだから、両者の違いは作品における「自然人による全体的形成への創作的寄与の度合いの違い」にある、といわざるを得ないことになる。


だが、「シェーン」の「監督」に「全体的形成への創作的寄与」が認められないのだとすれば、他にも「監督」が著作者と認められない映画作品は山ほどあるように思えてならない*3


いずれにせよ、「監督」として名前が出ているから「著作者」になる、という単純なアプローチではなく、本判決のように個々の作品について「実質的な著作者」は誰かを追求するアプローチをとることになれば、個々の事案によって、「監督の死後33年間」という旧法下のルールが適用されるかどうか、もまた変わってくることになるだろう。


一律に保護期間が“延長”されることを阻める、という点ではそのほうが望ましいのかもしれないが、それは同時に、裁判所の判断を経ないとパブリックドメインにあるのかどうか、という点に関して結論が出せない、ということをも意味するから、「円滑な利用」の観点からは、いかがなものか、といわれても仕方ないように思えてならない。



なお、上記のように旧法の解釈をめぐって複数の学説等が対立していたことから、控訴人側は、

「控訴人らに映画の著作権の所在を判断する点に注意義務違反(予見可能性、回避可能性はない)があるとするのは余りにも不可能を強いることになり、不合理かつ酷である。」

と、控訴人らに過失が存在しない旨の主張も行っていた。


この点につき、裁判所は、

「控訴人らは、旧法及び昭和45年改正法を独自に解釈し、しかも、被控訴人の警告書における説明に対して、専門家の意見を聞くなどといった格別の調査をした形跡もないのであるから、控訴人らには少なくとも注意義務違反の過失があるものと認められる」(31頁)

とあっさり片付けている。


裁判所の認定によれば、控訴人らは、

「本件9作品に旧法の適用がなく、直ちに昭和45年改正法54条1項の適用があると誤信」

していたようであるし、公表後50年基準ならとっくの昔に著作権が消滅していたはずのチャップリン映画の場合、権利者側の警告文書の中にも、旧法の解釈に基づく何らかの記載があったと推測されるから*4、結論としては妥当だと思われる。


だが、今争われている著作物、特に1953年公開作品の中に関する警告文書の中には、今般最高裁によって明確に否定された「現行著作権54条1項」の解釈のみを根拠として発せられたものがあっても不思議ではない。


そして、「公表後50年」の解釈をめぐって応酬がなされた後に、「旧法下の著作物の権利存続期間」を根拠に訴訟が提起されたような場合にまで、DVD販売業者側の「過失不存在」の主張が排斥されるのか?という点については、一考の余地もあるように思われる。

小括

このように、結論だけ見れば固まりつつあるように見える、旧法下の映画著作物の権利存続期間に関する解釈も、よくよく判決内容を精査すれば、作品そのものの中身に左右される微妙な判断の上に乗っかっているものに過ぎない、ということがよく分かる。


果たして、チャップリンや世界のクロサワ以外に、紛争の種になるようなクラシック・シネマコンテンツが存在しているのかどうかは分からないが、権利者としても、今後、同種の事案が生じた時に、安易に結論に飛び乗るのは危うい・・・ということだけは言えるのではないかと思っている。

*1:第1部・宍戸充裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080304135652.pdf

*2:ここでも先に述べた「著作者」の実質的認定が効いている、といえるだろう。

*3:個人的には、「シェーン」事件においては、単に権利者側が「旧著作権法の解釈論」を主張しなかっただけで、何ら事案を異にするわけではないと思っているのだが、裁判所としては、シェーン事件原告代理人の弁護過誤責任につながりかねないような説示を行うことに躊躇いがあったのかもしれない。

*4:もっとも判決文の中で、権利者側が示した「根拠」は明らかにされておらず、実際には「戦時加算」等、異なる理屈を立てて警告していた可能性もある。

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