予定調和的違和感

本来は、最高裁が破棄自判してもおかしくなかった事件だけに、判決の結論そのものに対しては違和感はない。


だが、そこに至るまでの(メディアの報道等も含めた)プロセスが穏当なものだったといえるのかどうか、検証されるべきことは多いと思う。

山口県光市で1999年に母子が殺害された事件で、殺人や強姦致死などの罪に問われた元少年の被告(27)の差し戻し控訴審判決が22日、広島高裁であり、楢崎康英裁判長は無期懲役とした一審・山口地裁判決を破棄し、死刑を言い渡した。」
日本経済新聞2008年4月22日付夕刊・第1面)

そもそも最高裁が、

無期懲役は甚だしく不当。特に考慮すべき事情がない限り、死刑を選択する以外にない」

とまで言ってしまった時点で下級審に過ぎない高裁がとりうる選択肢は限られていた。


仮に、差戻し後1年近く被告人がひたすら法廷でわび続けたとしても、結論がひっくり返った保証は全くないわけで、本件を取り巻く状況を考えると、差戻し控訴審における大弁護団の方針がよりスタンダードなものだったとしても、結論が変わったとは考えにくい。



・・・にもかかわらず、このニュースを聞くたびに感じざるを得なかった違和感を、自分は未だに拭いさることができない。


ほとんどの人が、見たことも言葉を交わしたこともないにもかかわらず、いつのまにか形作られていく「元少年」のキャラクター。


公益的見地から課されるべき刑罰が、あたかも被害者を慰謝する道具であるかのように位置付けられることの不可解。


多くは一方的に情報を垂れ流したメディアの側の問題なのだが、それに接した我々の受け止め方にも問題はなかったか。


本件については、「犯罪被害者の地位向上に貢献した」、「少年犯罪の厳罰化に影響を与えた」というマクロな視点からの論評がなされることが多いのであるが、報道等を見ているとむしろ、

「一人の異常犯罪者とその弁護人に対する壮絶な私刑(リンチ)」

と言った様相すら感じさせる。


さすがにここに来て、弁護団の活動への理解を求める識者の声も報じられるようにはなってきたとはいえ、予定調和的な結論に違和感を感じざるを得ない理由は、おそらくこの辺にあるのだろう。


以前にも述べたように、本件では被告人が人を殺害している以上、故意さえ認められれれば殺人罪として死刑が課されても何ら不思議ではなかったのであって、裁判所は本来持っていた裁量の幅の中で結論を出した、と解釈するのが妥当だと思う(現に裁判所は、「永山基準」を踏襲する姿勢自体は崩していない)。


にもかかわらず、あたかも「被害者(及びそれを支える世論)の努力が結論を変えた」というような捉え方をすることは、長い眼でみれば、裁判所、加害者、被害者全てにとって、プラスにはならないように思えてならないのである。

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