最高裁の「良心」

連休前に出された旧長銀粉飾決算事件の最高裁判決。


10年前に、人々の“怨嗟”の声を伝え続けていた各種メディアは、手の平を返したかのように、大逆転無罪判決に好意的なコメントを寄せる。


だいぶ落ち着いてきたこの日の夕方になっても、日経新聞の夕刊コラム「ニュースの理由(わけ)」には、三宅伸吾編集委員による以下のようなコメントが掲載されていた。

バブル経済崩壊後、多額の公的資金が金融機関の破綻処理や再建に投入され、経営責任の追及を求める空気が支配した。そうした中で旧長銀の元経営陣は逮捕、起訴された。2002年、05年の有罪の報に多くの人が留飲を下げたが、「風潮をバックにした検察の動きに経済に必ずしも明るくない刑事裁判官が追従した」とみる金融業界関係者もいた。」
「全員一致で逆転無罪を言い渡した最高裁第二小法廷。その判決は生え抜き裁判官と、弁護士、行政官、検察官出身者の計4人の判事が担当した。逮捕から9年余り。多様な経歴を持つ判事が法律家として冷静な判断を下したのかもしれない。」
日本経済新聞2008年7月29日付夕刊・第2面)


最高裁が破綻企業の経営者に対して甘いわけでは決してない。


長銀と同じくバブル戦争の犠牲となった旧拓銀経営陣に対する損害賠償請求事件(最二小判平成20年1月28日)では、取締役の忠実義務、善管注意義務違反を否定した原審判決を破棄し、カブトデコム、千葉支店不正融資の2件について、いずれも取締役の責任を肯定する判決を下している(他にも、蛇の目の利益供与事件など、最高裁で原審を覆す厳しい判断が示された事例は枚挙に暇がない)。


だが、ここのところ、勢いに乗った若手経営者を叩き落とすかのように、検察と下級審裁判所が一体となって、“一罰百戒”を地で行くが如き過剰な刑事制裁を発動している現状を鑑みると、やはり今回の最高裁判決は、この国の歴史に残る画期的判決というべきなのだろう。

「公正ナル会計慣行」

という僅か8文字の文言の解釈如何によって、これほど大きな違いがもたらされる、という現実を、立場の違いを超えて、企業法務に関わるもの全てが、深く真摯に受け止めるべきではないかと考える。


率直にいえば、筆者は、当時メディアの影響を受けていた他の多くの人々と同じように、没落していく名門企業の行く末を固唾を呑んで見守り、頂点に立っていた人々の手に手錠がかかっていくたびに喝采を挙げていた人間であり、それゆえ、今回の判決を目の前にすると何ともいえない複雑な気持ちになる。


三宅編集委員のコラムの中では、最近の著名経済事件に対して地裁、高裁の裁判官が下した判決が、“市場の信認を失いかねないもの”として暗にこき下ろされているが、「司法」が国民の処罰・制裁感情を反映すべき場だとしたら、これまで村上ファンドやスティール、ホリエもんらに対して鉄槌を下してきた裁判官は、皆「優等生」として称えられるべきだということになろう。


だが、世の中で「素朴な制裁感情」ほど恐ろしいものはない。


時が経つにつれて「素朴な制裁感情」が薄れ、冷静に事件の本質を見ることができるようになった結果が、今回の最高裁判決を導いたのだとしたら・・・。


司法と民意の関係も含めて、いろいろと考えさせられるところが多い判決だった、と言ってしまって良いのではないかと思うのである。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html