王貞治監督の“勇退”のニュースに続けて、「ON時代の真の終わり」だとか、「これでますますプロ野球も危ない」などというフレーズを語るメディアに接すると、どうしようもないほどの違和感を抱く。
まぁ確かに自分より一回り上の世代の方に言わせれば、「王貞治」は“世界のホームラン王”なのだろうし、引退後も王監督と何らかのかかわりを持って接してきた関係者の方々にとっては、“素晴しい人格を備えた人物”ということになるのだろう。
だが、自分が物心付いたときには、王貞治という人物は、物心付いたときには既に“助監督”を名乗っていた。
しかも、幸か不幸か大人になってからも球界とはさっぱり縁がない(笑)筆者にとって、「王監督」の姿は、テレビ画面を通して見るものでしかなかった。
ビッグマネーで選手をかき集めながら、14年間でリーグ優勝わずか3回(日本一はたったの一度)という平凡な戦績に、“ピッチャー鹿取”に象徴される単調な采配*1
長嶋茂雄と並んで、グラウンドでの指揮官としての能力は疑うほかない“0”が、選手生活を引退して四半世紀たってもなお、“時代の象徴”の如く称されるのかが、筆者には不思議でしょうがなかったのである。
選手としての「実力」は、数字で測れるが、監督としての「実力」は数字で測れるものだけではない。大矢監督のように「育成」手腕が評価されることもあれば、根本監督や星野仙一監督のように「GM的手腕」が評価されることもある。
「世界の王」のブランド力で優秀な選手とファンを呼び寄せ、かつ、選手やフロントと大きな軋轢を起こすこともなく10年以上の長きを乗り切った、そのことだけでも監督としては評価されて然るべきなのかもしれない。
だが、各メディアのステレオタイプな惜別の辞の中には、選手時代の実績と混同してしまったかのような、グラウンド上の指揮官としての“過剰評価”も少なからず混ざっているように思われる。
王監督を遥かに凌ぐ実績を残しながらも、一部の愛好家の間でしか、“指揮官としての能力”を評価されることなくグラウンドを去っていった人々が決して少なくないことを考えると、どうにも腑に落ちないものが残る。
なお、“星野の砦”が陥落した今になって、再びWBC監督に「世界の王」を担ぎ出そうとする動きもあるのかもしれないが、個人的にはどうかなぁ・・・と思う。
大体、優勝という結果だったから皆忘れているのかもしれないが、あの大会でJAPANが頂点に至るまでの道のりを波乱万丈なものとした原因の一つは、短期決戦に決して強くない、王監督の煮え切らないベンチワークにもあったのではないか?
せっかく「ON神話」や「星野仲良し三兄弟」のくびきから解き放たれたのだから、ここは堂々と、短期決戦の采配を委ねるにふさわしい指揮官としての「実力」で選ぶ、という発想があっても良いと思うのであるが・・・・*2。