商標出願審査の実務において、稀に行われるテクニックとして“借り腹”というものがある。
「自社で出願中の商標が、出願審査時に第三者の既登録商標に抵触する(商標法4条1項11号の拒絶理由があるとされる)可能性がある場合に、当該第三者と合意の上、「出願商標を一時的に第三者名義にする」、あるいは、「既登録商標の名義を一時的に自社名義に書き換える」ことによって、拒絶査定を免れる
というものであり、自社の出願担当弁理士が、問題になりそうな商標を持っている第三者の出願担当弁理士と懇意だったりする場合には、この方法を勧められることも多い。
「特許庁の杓子定規な審査によると形式的に撥ねられてしまうが、実際に誤認される可能性は限りなくゼロに近い」というケースは結構あるから、審判等に余計なコストをかけるより手っ取り早く効率的な手段なのは確かである。
筆者自身は、“ちょっと怖いなぁ・・・”という思いがあって、「第三者」が自社の系列企業であるような場合を除けば基本的に遠慮しているのだが、会社によっては結構多用しているところもあるようだ。
だが、今回ご紹介するような事件を見ると、やっぱり“借り腹”は怖い、と言わざるを得ない。
東京地判平成21年2月5日(H19(ワ)30807)*1
原告:アイティティ国際電電株式会社
被告:株式会社ウィルコム
本件は、「I=PHS」という商標の商標登録を受けようとしていた被告が、原告に対し、原告保有の「アイピッチ/i-PHS」という商標(登録第4398047号)を無償で一時譲渡するよう持ちかけたことに端を発している。
そして、被告・ウィルコムは商標を出願したその日(平成19年2月19日)のうちに原告代表者に連絡を取り、
第1条(目的)
本契約は、乙〔判決注・被告,以下同じ。〕が商標登録を受けようとする商標(I=PHS)の出願に、甲〔判決注・原告,以下同じ。〕が協力することを目的とする。
第2条(本件商標)
甲は、本契約有効期間中、以下に表示される甲の商標(以下、「本件商標」という。)を無償で乙に一時譲渡することに同意する。
(1)登録番号:商標登録第4398047号
(2)称呼:「アイピッチ」
(3)商品及び役務の区分並びに指定商品:第9類簡易携帯電話機
第3条(譲渡手続き及び返却)
乙は、前条に基づき甲から一時譲渡された本件商標を遅くとも本契約有効期間の満了日までに甲に返却するものとする。
2.前条並びに本条前項に基づく本件商標の移転登録に必要な一切の手続きは別途甲より提出される譲渡証書及び単独申請承諾書に基づき全て乙の費用負担で行うものとし、甲はこれに協力するものとする。
3.第1項に基づき乙が本件商標を甲に返却しようとするときは、乙はその旨を甲に書面で通知し、甲が返却手続き開始の同意を書面で乙に通知することにより、乙は返却手続きを開始するものとする。
第4条(契約有効期間)
本契約は、2007年3月1日に有効となり、2009年2月29日を以て終了する。ただし、契約期間の満了を待たず乙が前条各項に基づき本件商標を甲への移転登録を完了した場合は、当該移転登録の日をもって本契約は終了したものとみなす。
2.〔省略〕
3.〔省略〕
第5条(禁止権不行使)
甲及び乙は、現在並びに将来、自己の商標権の使用について相手方より異議申し立てを受けないものとする。
2.前項は、本契約有効期間満了後も有効とする。
という内容の「登録商標一時譲渡契約書」を平成19年3月9日には締結、と、ここまでは順調に進んでいた。
だが、原告が「名義を移転するなんて聞いてなかった」「受けるべき見返りを受けていない」等と契約の錯誤無効や詐欺取消を主張したことで話がややこしくなる。
判決では、
「原告は,本件契約の締結にあたり,Aらから,真実は,本件契約に基づき本件商標につき移転登録をするつもりであるのに,その意図を秘して,本件契約書は「特許庁に対する単なる疎明資料である」,「名義の移転はないが,『I=PHS』の商標登録申請を行うにあたり,社内稟議決裁を得るための補足資料として必要である」,「ITTに対してネットワークの協力を行うにあたり,上司や組織内部で有利に説得展開を図るために必要である」にすぎず,移転登録をすることはない,との虚偽の説明を受け,原告において,上記書類がそのような目的にのみ使用され,移転登録はされないものと誤信して,本件契約を締結したと主張し,原告代表者の供述や陳述書(略)中には,上記の主張に沿った趣旨の供述部分や記載部分がある。しかしながら,前記1で認定したところによれば,(1)本件契約の条項は簡潔で明確であり,被告商標の登録の便宜のため,本件登録まで予定したものであることが容易に読み取れること,(2)原告代表者のBは,本件契約書について,押印する前に,2度にわたり条項の修正を求め,これらの修正が本件契約の条項に反映されていることからみて,本件契約書が原告の主張するような単に被告の社内での説明の便宜上作成されたにすぎないものとは考え難いことに照らすと,上記の各部分は,たやすく信用することができず,他に原告の上記主張を裏付ける証拠はない。」
「原告は,本件契約の締結にあたり,Aらから,真実は,原告がその次期商品である3次元動画伝送サービスを行う際,被告がそのネットワークを原告に全面的に開放,利用させ,協力する意思がないにもかかわらず,その意思がある旨の説明を受け,原告において,そのような協力が得られるものと誤信して,本件契約を締結したものであり,原告のこのような動機は被告に表示されて本件契約の要素となっている旨を主張し,上記原告代表者の供述や陳述書には,上記の主張に沿う部分があるものの,上記供述及び記載部分は,証人Aの証言及び乙第7号証〔Aの陳述書〕に照らし,採用することができない。前記1で認定したところによれば,原告における実現可能性は措くとしても,原被告間において「三次元画像配信サービスの検討」のための秘密保持契約の締結に至っており,原告における3次元画像配信サービスの構想について,本件契約の締結を契機として,一応の検討がされたことは認められる。しかしながら,本件契約書に被告による協力義務を定めた条項はなく,原告において,本件契約の際,本件契約書に被告による協力を条項化するように求めた形跡もないこと,原告の提供する上記サービスについて原告から具体的資料の提示等はない上,被告による協力の内容について,上記の検討を行った以外に当事者間で具体的な進展があったことが窺われないことに照らすと,原告において3次元動画伝送サービスを行う際に被告がネットワークを原告に全面的に開放,利用させ,協力することが本件契約の要素となっていたと認めることはできない。したがって,原告が被告から期待するような協力を得られなかったとしても,本件契約の要素の錯誤とはならないというべきである。」(8-9頁)
と述べて原告の錯誤無効の主張を退け、続いて詐欺取消の主張も退けた。
名義が移転するのは契約書を見れば明らかだし、たかが商標の一時的名義移転ごときで、事業上の協力を約束するなんてことは考えにくいから、原告の主張は単なる思い込みか、意図的な“悪意ある攻撃”と理解するのが素直だろう。
だが、余計な手間を省くつもりで使った“借り腹”という手段が、訴訟を引き起こすことになってしまった、というのは被告にとっては何とも痛い。
被告の出願商標と原告の商標とを比べると、観念はもちろん、外観上も違いは認められるのだから、わざわざ厄介な相手にコンタクトして問題を大きくしなくてもよかったのではないか・・・というのが筆者の率直な感想である。
もちろん、結果論にすぎないのではあるが。
*1:第47部・阿部正幸裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090209143106.pdf