ご存じのとおり、「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)の改正案4案のうち「A案」と称される法案が、先週衆議院で可決された。
週末の報道系番組などでは、軒並みこの問題が紹介されていて、中にはA案があたかも「脳死を人の死と定義した」かのような前提で議論していた番組もあったし、衆院で可決された翌日の新聞紙面にも、
「問題は脳死を定義している現行法の条文で「臓器提供に限定する」との趣旨の文言を削除した点だ。衆院の審議では、「社会的合意がない中、法律で脳死を一律に人の死と規定することになる」と反発も出た。法案提出者は「脳死を人の死とするのは臓器移植に限定される」と説明したが、参院でも議論が紛糾する可能性がある。」
(日本経済新聞2009年6月19日付朝刊・第3面)
という記事が載っていたりした。
前にも書いたかもしれないが、筆者自身は、「臓器提供意思表示カード」の「3」のところに明確に丸を付けている人間だから*1、“移植を受けられない子供がかわいそう”という安易な感情論だけで議論が流れていくよりは、対立軸がしっかり示された上で、適正なルールづくりが進められる方が望ましい、と思う。
だが、こと上記のような「A案」の解釈に関しては、疑問を呈せざるを得ない。
「脳死を一律に人の死と規定することになる」という危惧は、現在の臓器移植法の、
第6条
1 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
2 前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。
という部分を、「A案」が、
第6条
1 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
(略)
2 前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう。
と改めていることから出てくるものと思われるのだが、第6条の意義や( )書きの使い方、そして、この法律の目的規定(1条)が、
第1条 この法律は、臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的としておこなわれる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買等を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資することを目的とする。
となっていること等から考えれば、この法律の中でいかに「死体」の定義を定めたとしても、それは「移植医療の適正」を判断するために用いられる定義にすぎず、一般法において用いられる「死体」(刑法190条、191条、軽犯罪法1条18号)の解釈にまで影響を及ぼすものではない、と考えるのが通常の解釈だと思う。
もともと第6条2項は、一見しただけでは素直に頭には入ってこないような奇妙な条文だし、第1項との関係でトートロジーに陥っているきらいもあったから、今回の修正は“テクニカルな観点から分かりやすい日本語に直しただけ”、という説明だけでも十分通用するだろう。
一般論として「人の死」をどのように定義するか、というのは人それぞれの“哲学”が絡む話なので、本気で議論したらいつまでたってもおわらないくらい難しい問題だとは思うのだけれど、そういった“哲学的論争”を脇に置いて、とりあえず「移植術」のレベルで、できることはできるようにしよう、というのが、当初の立法のコンセプトだったと思われるだけに、ここにきてあえて定義規定が広く適用されるような前提で議論するのはちょっと違うんじゃないかと思う。
この先、参議院でどのように手が加えられていくのか(あるいは審議未了で廃案になるのかどうか等々)、現時点では予測しようもないが、くれぐれも瑣末なところで議論が脇道に逸れないよう願わざるを得ない*2。