不可解な起訴

刑事司法、刑事責任の本質を踏まえた冷静な議論よりも、感情的な“被害者の声”がどうしても優先されてしまう最近の流れからすればやむを得ないこととは思うのであるが、それでもクエスチョンマークを付けずには語れないこのニュース。

「107人が死亡した2005年4月のJR福知山線脱線事故で、神戸地検は8日、JR西日本山崎正夫社長(66)を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。安全対策の最高責任者の鉄道本部長(常務)時代、事故が起きる可能性を予見できたのに、現場カーブに新型の自動列車停止装置(ATS)の設置を怠った過失があると判断した。」(日本経済新聞2009年7月9日付朝刊・第1面)

事故の重大性と遺族感情の鮮烈さを鑑みれば、「誰かを起訴しなければならなかった」という判断自体を一概に非難することはできないにしても、なぜ「山崎常務」だったのか、という点については、徹底的に追及されなければならないし、そもそも現行の個人責任をベースとした刑法の規定に則って責任追及がされるべき事案なのかどうか、ということについても、もっと議論を深める必要があるように思う。


一点目に関しては、当事者である神戸地検の次席検事が、言い訳がましく記者会見までして、

(判断に関しては)「従来の過失犯の基準に沿って検討した結果」

などと述べている。


しかし、ATS設置に関する公的な設置基準が元々存在しなかったうえに、旅客輸送に関して同種事故が発生していなかった状況*1下で、責任者個人の刑事責任を問う、というやり方が従来の過失犯基準を逸脱したものであるのは多くの識者が指摘しているとおりで、松宮孝明立命館大法科大学院教授の

「結果の重大性から、誰かを起訴しなければならないという結論ありきの捜査ではなかったのか。」
「1996年に急カーブに変更し、97年のダイヤ改正で列車が増加して事故が起きる危険性が高まったと言うが、その後の8年間で一度も事故はない。」
日本経済新聞2009年7月9日付朝刊・第34面)

といった指摘が一番しっくりくるところだろう*2


また、仮に新型ATSを設置しなかった不作為=過失の責任を問うとしても、問う先が違うのでは?という疑問は当然に出てくるわけで、検察官の理屈に従うなら、「山崎現社長の鉄道本部長時代」だけを問題にするのではなく、それ以降事故に至るまで「鉄道本部長」の地位にあった全ての人物の責任を追及しなければ一貫しないはずである*3


にもかかわらず、起訴対象が「山崎現社長」ただ一人にとどまったところに、今回の起訴の本質が透けて(というか露骨に)見えてきているような気がしてならないのである。


山崎氏が、今社長をやっていなかったら果たして起訴されることがあっただろうか・・・?


そういう疑問を抱かせてしまうところに、今回の起訴の最大の問題点があると言わざるを得ない。



そして、二点目はもっと重い話だ。


先に紹介した神戸地検次席検事の会見では、

「非常に難易度が高かった。遺族らの『事故の真相を知りたい』という声に勇気づけられた」

というコメントが飛び出している。


だが、刑事法廷が「事故の真相を知る場」になることは稀だ。


検察官の行う冒頭陳述にしても、証拠調べ請求される証拠にしても、あくまで「検察官が立てたストーリー」に沿ったものでしかないのだから、そもそもそれが「真相」かどうか疑わしい上に、本件のように被告人側が争う姿勢を明確にしている事件では、証拠、それも情報量の多い供述証拠の多くは不同意となって法廷の場に現れることなく消えていくことになるわけで、限られた時間内での審理から「真相」に迫るような情報を得ることは容易なことではないだろう*4


また、事故原因の究明にしても、多くの専門家をつぎ込んで作成されている事故調査委員会の報告書以上の事実が、鑑定人や鑑定受託者の報告、証言等から引き出せるとはちょっと考えにくい。


結局、長期にわたる審理の中で、その背景を含めた事故の全体像がぼやけたまま、かえって遺族がフラストレーションをためることにならないか、危惧されるところである。


刑事責任云々とは別に、企業の「社会的責任」は存在するものだから、一部の識者が懸念しているような、「刑事訴訟で争っているがゆえに、遺族に対する会社の補償に向けた動きが直ちにストップする」というような事態は生じないだろう、と思う。


だが、「事故」が「事件」化することによって、囃し立てる外野の雑音に煽られ、かえって心の傷を深くした“被害者”も世の中には大勢いるわけで、今回の不可解な起訴がそういった事態を招かない保証はない。



最終的にどのような結果になるかは、最高裁が判断を下すまでは分からないのだけれど、無理筋と思えるような起訴をする(させる)まで、地検や遺族・被害者を追い込んでしまったのは誰だったのか・・・等々、今回の起訴のニュースから考えさせられることは多い、と思っている。

*1:検察側は「カーブ付け替え工事直前の96年12月4日には、JR函館線の半径300メートルのカーブで貨物列車の脱線事故が発生」し、「ATSが整備されていれば事故は防げたという報告が、JR西の鉄道本部内の会議で複数回あった」ということを「予見可能性」の根拠としているようであるが、貨物列車と旅客列車では走行条件がまったく異なるはずで、これをもって直ちに「現場の危険性を考慮しスポットで(新型ATSを)整備すべきだった」とするのはあまりに無茶な話だというべきだろう。

*2:なお、松宮教授は、これに続けて「事故原因が運転士の速度超過であることは明らか。運転士の労務管理のあり方こそが問われるべきだ。」と述べられているが、“労務管理”の次元で、運転士があのような“自殺行為”に出ることまで予見できたかどうかは、ちょっと疑問は残るところである(職場で運転士個人にかかっていたストレスがどの程度のものだったのか、それをどの程度職場の方で把握できていたのか、ということは、関係者のヒアリング結果等を精査しないと分からないとは思うが、検察官がその筋で起訴していない、ということはやはり無理筋だったのではなかろうか)。

*3:技術的な予見可能性は時代が後になればなるほど高まるはずで(問題とされている事故情報だって時代を経れば経るほど蓄積されていく性質のものだ)、鉄道本部長在任わずか2年(しかもその後子会社に転出した)の山崎社長の方針が、後任の本部長の判断に縛りをかけていたとも到底思えない以上、山崎社長のみを訴追対象とするのは明らかに不公平というべきだろう。「カーブの付け替え工事」や「東西線開業に伴う増発」という作為を過失の根拠とすると公訴時効の問題が出てくるから、検察官は「不作為」の方を問題にせざるを得なかったのだろうが、それにもかかわらず現社長ただ一人の起訴にとどめざるを得なかった、という時点で、検察官は自らの主張が無理筋であることを半ば自認したようなものだ。

*4:検察官としては、証人等を立てて立証を試みることになるだろうが、今回問題とされている「山崎鉄道本部長」時代の話、というのが、今から10年以上も昔の話だということを考えると、そこから引き出せる証言にもおのずから限界がある。

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