以前日経紙上で升永英俊弁護士が予告していた“運動”が遂に立ち上がって、活発な活動を始めたようである。
「1人1票実現国民会議」(http://www.ippyo.org/index.html)
上記ホームページに飛んで行くと、
衆議院選挙と同時に行われる「国民審査」という制度では、
最高裁判所の裁判官を信任するかどうかを、有権者ひとりひとりが決定できます。
ここで、今の「一票の不平等」を「合憲」と判断している裁判官に対して
多くの人が「不信任」の意思を示せば、裁判官が考えを変えることも十分に考えられます。
次の国民審査で審査の対象となる裁判官のうち、
「一票の不平等を定める公職選挙法は合憲である」(2007年最高裁判決)
という意見の裁判官は、以下の2名です。
那須弘平裁判官、涌井紀夫裁判官
あなたは彼らを信任しつづけますか?
(http://www.ippyo.org/question1.htmlより引用、太字筆者)
という、相当印象的なフレーズが掲載されていたりするし、日経紙の7日夕刊のコラム(「ニュースの理由」)では、上記団体の言い分を全面的にバックアップするような形の記事が三宅伸吾編集委員によって書かれていたりもする*1。
なので、もしかすると、この動きがこれから8月末に向けての新しいムーブメントになるかもしれないのであるが・・・
以前もこのブログで指摘したように*2、筆者自身はこの運動はあまりに「品がない」運動だし、実効性の面からも大いに疑問が残るものだと思っている。
特に、那須弘平、涌井紀夫両裁判官を名指しして、「罷免相当」というレッテル張りをするやり方は、先の衆院選での“刺客”騒動を思い起こさせるもので、不快な思いをする人も多いことだろう。
確かに憲法の条文上は、「投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは,その裁判官は,罷免される」と書かれているだけであるから(79条3項)、どういう理由で「×」の印をつけようが投票者の自由なのであるが、「郵政民営化」に賛同するかどうかだけを議員(ないし政党)の選択基準にした(人が多かった)4年前の選挙が今になって散々批判されているのと同じで、冷静かつ賢明な人間であれば、「一票の格差問題」でどういう意見を書いたか、ということだけを基準に罷免相当かどうかを決めるのはちょっとやり過ぎではないか? と思うのが通常なのではなかろうか。
そもそも、どういう意見を述べるか(どういう判決を書くか)、ということだけで、法律家たる裁判官の職の適性を論じる、なんてことになってしまうと収拾がつかなくなる。
とか、
「国籍法を違憲と判断するような(意見を積極的に書いた)裁判官」
ですら「罷免せよ」という話になってしまうわけで、特に多数者の論理に背いてでも、論理に従って合理的・理性的な結論を出すことを求められている最高裁の意義(少なくとも建前上はそうであるはずだ)を考えると、このような動きには大いなる危機感を抱かざるを得ない。
もちろん、「最高裁裁判官」という職責にあるにもかかわらず、出身母体(裁判所、検察庁や行政庁等)におもねってか、明らかに理の通らない判決(意見)や、新しい法規範の定立に対してあまりに消極的な判決(意見)を出し続けている、といったような事情があれば話は別だと思うのだが、果たして「1票の格差」問題における合憲の多数意見が、そこまで歪んだものだと断定できるのだろうか?*3。
そして、少なくとも上記国民会議のHPにおいては、そのような多数意見の構造的な問題点は明らかにされていないように思われるのであって*4、“法律家”が中心になって行われている運動である、ということを考えれば、「単に自分の主義主張と異なる」という点を強調するのみならず、「なぜ罷免に値するのか?」ということを、もう少しロジカルに説明すべきではないか、と自分は思うのである。
我が国を代表する高名な法律家の先生方が、これだけ名前を連ねているにもかかわらず・・・と考えると、ちょっと寂しい気持ちになってしまうのは、筆者だけだろうか?
*1:紹介されているコメントが、国民会議のそれに加え、久保利英明弁護士、川本裕子早大教授、と同会議メンバーのものだけで埋め尽くされている、というのは、冷静な日経紙(笑)にしては、極めて珍しい出来事だと思う。
*2:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20090525/1243696874
*3:誤解のないように言えば、筆者自身は長年首都圏(特に一票が“軽い”とされているエリア)に居住していることもあって、格差訴訟においては、常に違憲判決が出されることを期待している立場の人間である。だが、この問題に対する意見が、裁判官の資質なり適性なりを判断する上で必要十分な条件か、と言われれば、やはり疑義を呈せざるを得ない。
*4:一票の格差をめぐる議論には、「司法が立法にどこまで介入できるか」という三権分立制度にまつわる根源的問題が必ず付いて回るのであって、合憲説・違憲説のいずれにも、一応の理は認められるのではないかと思う。