任検志望者のための本

郷原信郎教授といえば、最近「コンプライアンス」の伝道師としての地位をすっかり確立され、メディアでお名前を見掛けない日はないくらいの有名人である。


実際、組織での経験に裏打ちされた郷原教授のコンプライアンス論は、机上で物事を論じる他の学者や弁護士のそれと比べても、一段抜きんでたものであることは間違いないし、筆者自身もおおいに信頼を寄せているところだ。


そんな郷原教授が、自らが長年在籍した「検察」という組織を大いに語ったのが、ちくま新書として出された、↓である。


検察の正義 (ちくま新書)

検察の正義 (ちくま新書)


郷原教授の場合、公取委スタッフや客員教授としての経験を有しておられることが、ご本人の分かりやすく明快な語り口と相まって、独禁法、ひいては企業犯罪、経済犯罪全般の論客としての信頼性をより高めているのは事実だとしても、そういった経験の源流にあるのは、やはり「検察官」としての職業経験であるのは確かだろう。


そして、最近、新聞コメント等で、検察の捜査手法に対して厳しいコメントを出されていることも多い郷原教授のこと。一般大衆向けに書かれた“回顧本”に一体何をお書きになるのか、と、わくわくしながら読み始めたのだが・・・



読後の感想は、

「この人は検察官としての仕事を心から愛していたんだなぁ(笑)」

という一言に尽きる。


もちろん、メディアで発信されているような「近年の検察のやり方に対する批判」には、多くの紙幅が割かれており、

「「特捜部の看板」の威力で被疑者、関係者を押しつぶす、屈服させる、というやり方は、政治家などの特定の「悪者」に狙いを定め、社会の表舞台から排除するという性格の捜査に適したやり方だ。」
「しかし、経済社会の中で経済活動に関連して発生する犯罪現象は、何らかの拡がりを持っており、その事件の摘発は、経済社会全体に影響を及ぼす。そこで何よりも重要なことは、実態を幅広く明らかにすることである。それによって、問題にしている違法行為が、法の目的としていることとどのように関係し、経済社会にどのような影響を及ぼしているかを理解し、最も適切な方法で捜査を行うことが可能になる。」
「そういう意味で、特捜検察は、経済検察への展開を図るに当たって、従来の「悪党退治」的な捜査手法を全面的に転換しなければならなかった。しかし、現実には、それがほとんど行われず、旧来の捜査手法のまま経済事犯の摘発を繰り返してきた。」(以上本書79-80頁)

といったような、核心を捉えた指摘はあるし、検察審査会の権限強化や、近年不当起訴が問題視されていることを受けて、

「従来は、組織内で完結した「検察の正義」を前提に組み立てられていた検察の官僚システムも全面的な見直しを迫られることになろう。」
「検察官の処分の適正さは、組織内での何重もの決済制度と組織内監査制度によって担保されてきたが、そのような検察の組織も、訴追裁量権が一定の範囲で制約され、外部からのチェックを受けることになれば、大きく変容することは避けられない。」(152頁)

という予測を述べられているあたりはなかなか興味深い(&ある意味野心的だ)。


だが、よくよく読めば、郷原教授の批判の刃は、あくまで検察という組織の「過去」と、そのしがらみを引きずっている一部の幹部や組織(特に東京地検特捜部)にしか向けられておらず、「検察官」という権力機構が「正義の担い手」であること自体については、郷原教授自身も何ら疑念を呈されていないことが分かる。


経済犯罪にしても、業務上の医療事故、製品事故等の話にしても、そもそも刑事責任追及を前提とした捜査が行われること自体が間違い*1、という考え方はあると思うのだが、そういった議論に郷原教授はほとんど言及されていないのである。


そして、極めつけは「長崎の奇跡」と題された最終章であろう。


この章では、それまで散々批判してきた強権的捜査手法(東京地検特捜部的捜査手法)へのアンチテーゼとして、自らが次席検事として率いた長崎地検での“成功体験”が縷々述べられている。


自らが最前線に立つとともに、若手検事、副検事検察事務官がチーム一丸となって行った“長崎政界の闇の解明”。そして、捜査対象者と信頼関係を築き上げることで得ることができた、“画期的な成果”。


細かいエピソードまで含めると、この章だけで2時間ドラマにできてしまいそうな中身である。


だが、皮肉なことに、この最終章で、長崎での輝かしい成果が強調されれば強調されるほど、それまでに郷原教授が行ってきた特捜部の政界捜査の手法(西松建設事件に代表されるような・・・)への批判は何だったのか、という気分になってしまうのだ。


踊る大捜査線」のMOVIEのPart2を見たときのような後味の悪い気分*2、とでも言えば分かりやすいだろうか。


もちろん、ターゲットや結果が同じようなものであっても、やり方が違えば全然違う、というケースがないとは言わない。


ただ、そういったテクニカルな違いを強調するのが、本書の趣旨だったのか、といえばそれは疑問なわけで、冒頭で著者自身が述べられていたような高尚な本書の企画が、著者の検察に対する「愛」の強さと自らの成功体験へのこだわりゆえに、若干後退してしまったのは否めないような気がする。



以上、批判めいたこともいろいろ述べてしまったが、検察官を目指そうとする人にとっては、現状の検察組織の問題点を(当たり障りのない範囲*3で)把握するとともに、検察組織に長年いた人のマインドを知り、“将来的にも検察官にはまだまだ活躍できるフィールドがある”というモチベーションを高めるのに最適な一冊なのではないか、と個人的には思っているところである。


自分には理解できない状況だが、最近は検察官もなかなか人気があるようだし、蓼食う虫も何とか・・・というくらいだから・・・。

*1:そうなると、必然的に世論は水戸黄門的な“勧善懲悪的真相解明”ストーリーを求めることになるし、それにおもねざるを得ない検察としては、そういう方向で捜査を組み立てざるを得なくなる。そして、批判精神のない司法記者が、追従報道をすることで、悪循環はますます拡大していく・・・

*2:おい、青島、お前がそれまで言ってたこと、やってたことは何だったんだ、みたいな(苦笑)。

*3:要するに、面接の場等で指摘しても大きな問題にはならない程度の範囲。

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