今日の日経新聞のコラム『風見鶏』に「脱官僚論と職業選択」というタイトルで、「学生にとっての魅力を取り戻すために「キャリア官僚」の制度改革をどのように進めていくべきか」を示唆する記事が掲載されている*1。
20世紀の終わりごろからもうかれこれ10年以上も官僚バッシングを続けているメディアに、
「今後も優秀な人材を確保できるのか、不安」という声が役所側から漏れるようでは、こちらが心配になってくる。」
と言われるのでは、各省の官房の担当者もたまったものではないと思うのだが(苦笑)、事実、志望者数がかつてに比べて大幅に減ってきている上に、昨年の政権交代でその勢いがますます加速しそうな状況だけに、「解体しろ」などというエキセントリックな記事を書かれないだけましなのだろう。
で、記事の中では、
「どんな専門性を磨くことができますか」
と説明会で質問する学生の姿や、「官僚になってどうするのか」という記者の挑発に答えて
「いい暮らしをしたいわけではない」
「社会や国のためなら頑張れる」
と反論する学生の姿が紹介されていて、これらを受けて、
「悪弊に染まった輩(やから)はともかく、真っすぐな若者の思いに応える責任が、政治にはあるはずだ」
と括られている。
だが、「専門性」云々の話はともかく*2、「いい暮らしをしたいわけではない」とか「社会や国のためなら頑張れる」みたいな考えは、今だけでなく、自分が学生の頃に霞が関を目指していた人間も、まともな奴なら皆持っていたものだし、その遥か昔、それこそ城山三郎の小説に出てくるような時代から、ずっと変わっていないものだと思う*3。
それなのに、入省してから数十年経った「キャリア官僚」が、省益護持に躍起になって、良く分からない理屈をこね回してみたり、不可解な“ご指導”を民に対してするようになってしまったり*4、残り少ない人生の設計に“天下り”先での人生を組み込むようになってしまったりして、傍から見ると
「悪弊に染まった輩」
のように見られてしまうようになるのはなぜなのか?
そこのところを良く考えないと、いつまでたっても精神論だけの「制度改革提言」になってしまって、結局何も変わらないまま、霞が関から学生の足をますます遠のけるだけになってしまうだろう。
そもそも、「官僚」というポジションを、新卒学生が選択すべき「職業」ととらえることが果たして適切なのかどうか、そこが今考えられるべきことなのではないかと思う。
個人的には、「キャリア官僚」のやっていることが世間からずれているように見えてしまう原因は、
「長期間、同じ立場から仕事をやり続けることによる視点の固定化」
と、
「長期間、国家公務員という特殊な世界でキャリアを形成したことによる、潰しの利かなさ」
の2点に尽きるのではないかと思っている。
どんなに「国のため、社会のため」という純粋な気持ちを入省当初に持っていても、同じ組織の中で、同じ釜の飯を長年食っていれば、先人が大事にしてきたものをあっさり切り捨てたり、末端組織で汗を流している人々の思いに背いたりするようなことは安易にはできないのが情ある人間というものだ。
たとえ、傍から見れば合理性に欠けるような施策で、蓮舫に3分で切り捨てられるような中身のないものであったとしても*5、それに長くかかわってきた人間、あるいはそれに長くかかわってきた人間の思いを引き継いでいる人間が、頭を切り替えて冷静な判断を下すのはたやすいことではない*6。
また、悪名高き「天下り」にしても、「国家公務員」という立場で50代半ば〜60代間際まで働かせ、しかも遅かれ早かれ「まだできる」という思いを残したまま職場を去らせなければならない今のキャリア人事システムの下では、どうしても必要になってくる。
ある程度の規模の会社の役員、それも社長・会長クラスになれば、60歳を過ぎても十分に働き場は与えられるし、仮にそのルートに乗れなくても、子会社なり関連会社なりで役職定年後も10年近くは働ける場が与えられるのは決して珍しいことではない。ゆえに、60歳間際で仕事をやめたからといって、その時点で民間に転進して実のある仕事をするのはそう簡単ではないキャリア官僚に対して、「民にいれば仕事ができたであろう歳月(&生涯賃金)」を埋め合わせるために、お国が何らかの「子会社」、「関連会社」でのポストを用意するのは決して不思議なことではないというべきだろう*7。
近年の公務員制度改革に関する議論の中で、前者については省の壁をとっぱらった「官房型官僚」システムを主流にするという提案がなされているし、後者については、「専門職」運用をするとか*8、“定年”を延長するといった話も出てきている。
だが、結局のところ、いずれの提言も(そして、今回の日経のコラムが前提としている「改革」も)、新卒で「キャリア官僚」という立場になり、その後その人が何十年も「霞ヶ関」という空間に居続ける、という前提から脱しきれていない。そして、そうである以上、今問題視されているような“悪弊”が完全に消えることはないだろうし、それに対する政治家やメディアのバッシングが止むこともないように思えてならないのだ。
どうせ改革するなら、
「新卒から育てる」システムをいっそのこと放棄するなり縮小するなりして、「民」から登用した、マネジメント能力に秀でた人間や専門分野での知識・経験豊富な人間(それに加えて、“権力”側の地位に固執することなく、戻るべき自分のフィールドをきちんと持っている人間)に組織運営や政策立案の多くを委ねた方が、有益な人材がスムーズに供給されるようになって良いのではないか。
というのが自分の持論。
実のところ、官僚にいつも批判的な日経紙ですら、今の純粋培養的官僚養成システムで育った「キャリア官僚」に対抗しうるだけの人材が、民にいるとは本気で思っていないような節があるのだけれど、たとえ行政官としての専門的な能力のように見えるものであっても、「民」の側で培える普遍的な能力と共通するところは多いし*9、ましてやマネジメントに徹するとなればなおさら、である。
そして、面倒な政治がらみの話を“政治家の責任”で片付けてもらえるようになれば、なおさら参入障壁は低くなるはず・・・。
今はまだ本気で言うと一笑に付されるような話だが、いつか、自立心と気概にあふれた企業パーソンが、「官」と「民」を自由に行き来できる時代が来ると、自分は信じている*10。
*2:昔は、「キャリア官僚」=「統治のプロ」=「ゼネラリスト」という定式が、採る側にも採られる側にも共通認識として存在していたから、技官ならともかく、事務系職の採用説明会でこんな質問が出るなんて考えられなかった。
*3:中には露骨にステータスを求めて入省したような人間もいるだろうが、その手の人々は綺麗にスポイルされるか、あるいは若くして選挙に出て何とかチルドレンになったりすることが多いようだから、組織そのものに悪影響を及ぼすような存在には成り得ていないはずである。
*4:しかも都合が悪くなると掌返して違うこと言ってみたりw
*5:あの仕分けは中身のあるものまでばっさり切り捨てているように見えるから問題なのだが、それは別論。
*6:こういう感情は、ある程度の規模と伝統のある会社で仕事をしたことのある人なら、容易に想像できるものなんじゃないかと思う。
*7:もちろん、霞ヶ関の場合、その「子会社」なり「関連会社」の多くが税金で運営されていて、しかもそれらがお世辞にも効率的に経営されているとはいえない、というところに最大の差異と泣き所があるのだが。
*8:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20070428/1177726212参照。
*9:それは、現在ではまだ稀少な、民から官への出向経験者の多くが口にすることである。
*10:もっと言うと、企業の法務パーソンが、官界と法曹界を股にかけて活躍できる日が、そう遠くないうちに来るだろう・・・と。