検察審査会での審議の行方が注目されていた明石市歩道橋事故で、ついに神戸の検察審査会が法改正後2度目の起訴相当議決を行った。
「兵庫県明石市で2001年7月、11人が死亡した歩道橋事故で、業務上過失致死傷容疑で書類送検され不起訴処分(嫌疑不十分)となった当時の県警明石署の榊和晄副署長(62)について、神戸第2検察審査会は27日、「起訴すべきだ」と議決し、公表した。強制的な起訴が可能な2度目の議決にあたり、今後、神戸地裁が指定した弁護士が、元副署長を業務上過失致死傷罪で起訴して公判が開かれる。」(日本経済新聞2010年1月28日付・朝刊第39面)
各メディアの報道では、
「今回の議決によって、これまでの「起訴権限を検察が独占していた」状況に風穴が開けられ、刑事司法への「民意の反映」がより徹底することになる」
といった類の好意的な評価がされているのが目につく。
確かに、今回の件に関して言えば、争点になっているのは「警察の組織的過失」であり、日頃から「警察」との間で、捜査に関する貸し借りなどがある微妙な立場の「検察」の判断に全面的に依拠すべきではない、という配慮は十分に働きうる状況だったといえるだろう*1。
だが、今回のケースが「蟻の一穴」となって、あらゆる事件で、検察審査会が検察官の不起訴判断を一からひっくり返すような潮流がやってくるとしたら(あるいは審査会による起訴強制を怖れて、これまで不起訴にしていたような事例を検察官が安易に起訴する傾向が出てくるとしたら)、それが日本の刑事司法にとって良いことと言えるのかは、ちょっと疑わしい。
特に、過失犯の場合、過失の程度如何にかかわらず重大な結果が生じてしまうことは十分にありうるわけで、被害者の怒りがどんなに激しくても、特定の「犯人」を名指しして起訴するのは妥当でない、と評価される場合はありうる*2。
もちろん、いったん捜査の手を入れたのであれば、被害者に対して然るべき説明なり、フォローアップなりをすべきだとは思うが、それを尽くしてもなお、過剰な起訴権限の行使を迫る被害者の思惑を、検察官をもってしてもコントロールできなくなるのだとしたら、世の中にとっては不幸なことだと言わざるを得ないように思うのだ*3。
自分としては、今回のケースは特殊な事情の下で生じた例外に過ぎず、いざ「被害者感情」と「起訴の相当性」のバランスが問われるような場面が来たときには、検察審査員も理性的な議論の下、適切な判断を下すことになるのだろう、と信じているのだが、果たしてどうなるか。
間違っても
「とりあえず起訴してみろ」
的な発想で、安易に起訴に走るような時代は来てほしくない、と願うのみである*4。
*1:その意味で、罪名は「業務上過失致死傷」だが、実質的には付審判請求をなしうる場合と同じような背景があったケースといえる。
*2:そもそもどの過失が結果を生じさせたのかを特定することが、証拠上困難な場合だってありうる。
*3:そもそも重過失とはいえない程度の過失によって生じる事故(医療事故や製品事故、公共施設・交通機関等の事故など)、というのは、世の中に日常的に存在するリスクが顕在化したものに過ぎないものであることが多い。本来は「損害の公平な分担」という観点から民事上解決されるべきこれらの問題を刑事手続に載せることは、「加害者」の側だけに一方的な手続負担を負わせる、という不平等につながるものであり(しかも真相解明をかえって妨げる)、なるべくであれば避けられることが望ましいのではないか、と自分は思っている(医療事故や航空事故等をめぐる議論の中でも、刑事手続の不毛さは有力に主張されてきているところである)。
*4:なお、真に「被害者感情」に配慮するのであれば、被害者の刑事司法手続きへの関与を強化するより、被害者に対して手厚い扶助を与えて民事訴訟、行政訴訟を提起しやすくする、とか、民事訴訟の際に捜査機関の手持ち資料を証拠として使えるように捜査機関の裁判所や被害者に対する情報開示を徹底する、などの方策によった方が、社会的に公正な解決を図れるのではないだろうか。