地下鉄サリン事件から15年。

地下鉄サリン事件の惨劇から、はや15年が経った。


自分の10代の終わりに強烈なインパクトを残した事件だっただけに、このブログの中でも、時々振りかえったりしてきたのだが、節目の時期に再現ドラマや新聞の特集記事などを見ると、あらためて当時のことが思い出されて、何とも言えない気持ちになる。


もっとも、かつてのオウム幹部の刑事裁判にも一応の区切りが付き、事件の全容がほぼ解き明かされた今、描かれる「真実」と、当時リアルタイムで事件とその処理が進行していく中で自分が感じていたものとでは、微妙に異なるところも多い。


今、あの事件を端的に表現すれば、「カルト教団によるサリン散布テロ」ということになるのだろうが、事件直後は、地下鉄の車内で散布されたのが「サリン」だったということすら分かっていなかったし、ましてやそれが一教団による謀略的犯行だということが世の中に明かされたのは、さらに先の話である。


それまで、「オウム真理教」は、奇妙な連中の集まりだとは認識されていても、一般市民の大量殺戮を試みるような「カルト組織」とまでは考えられていなかったし、教団の施設に最初に一斉捜索がなされた時も“半信半疑”で受け止める人は決して少なくなかったのではないかと思う*1


さらに言えば、当時彼らの行為を「テロ」と定義していた人々が果たしてどれだけいたのだろうか?


警察・公安関係者の中には、早い段階からそういう認識があったのかもしれないが、一般メディアの多くは、教祖や実行犯の“特異性”にばかり目をとらわれていて、(当時から他の大陸では頻繁に発生していた)普遍的なテロリズムとの共通性にまで言及していたものは、ほとんどなかったと記憶している。


ニューヨークの「9.11」などを経て、先進国でも身近なところに「テロ」の脅威が存在する、ということが認識されるようにならなければ(そして、それを契機とした様々な「規制」を当局が社会の中に組み込むことが正当化されるような時代にならなければ)、地下鉄サリン事件が「テロ」として定義されることも永遠になかったのではないだろうか*2


15年かけて綺麗にまとめられたストーリーと、自分が感じていたものとのギャップ。それゆえに抱く違和感。


いま語られていることが真実なのだとすれば、事件直後あるいはそれ以前の“ミスリード“に対する当局や各メディアの深い反省、総括があってしかるべきだし、逆に、いま語られていることが、必ずしも真実を描きだしたものとは言い切れない(公判立証のために紡ぎだされたストーリーがその中に少なからず混じっている可能性を否定することはできない)のであれば、より深く背景事情の解明に努めていく必要がある。


“オウム”を取り巻く様々な手続きがひと段落しつつある今となっては、事件の記憶が風化していくことはあっても、これ以上新しい何かがもたらされることに期待するのは難しいのかもしれない。


だが、20世紀の終わりかけに起きたあの事件が、見えないところでこの国を大きく変えてしまったのは事実なわけで、いずれ再びこの国に訪れるであろう同種惨事の危機を未然に防ぐためには、“なぜ”の部分を掘り起こしていく不断の努力が欠かせない、と思うのである。

*1:松本サリン事件や、坂本弁護士一家殺害事件などの、彼らが行った犯行の全容が明らかになったのは、幹部が一斉に逮捕され捜査が進展した後のことである。

*2:教祖の指示した単なる“奇行”と定義するよりは、“組織的なテロ“と定義した方が、あの事件の本質には近づくのは確かだが、だったら事件直後に、本質とは無関係なところで行われたあの一連の報道は何だったのだろう・・・という思いは残る。

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