朝、宇多田ヒカルの“人間活動”宣言のニュースに接した。
確かに、彼女は2008年の「HEARTSTATION」以来、フルアルバムをリリースしていないし、シングルも同年以来出していない。
何が直接的な引き金になったのかは分からないけれど、こういう「宣言」が出ても不思議ではないタイミングだったのだろう。
気付けば「Automatic」での鮮烈なデビューから12年。
何年か活動を重ねていくうちに、デビュー当時の輝きを失っていくアーティストが多い中、彼女は、リリースする楽曲のクオリティを維持し続けている(というか、いい意味での「進化」を続けている)数少ないアーティストだったように思う。
それゆえに、理由や名目は何であれ、「2年になるか、5年になるか、わからない」ブランクを甘受しなければならない*1、というのは、消費する側の人間としてはちょっと辛い。
もっとも、ヒトには「必要な時間」というものがあるのも確かだ。
稀代のアーティストと比べるのはあまりにおこがましい、ということを承知の上でいえば、宇多田ヒカルが鮮やかなデビューを飾り、ミリオンヒットを連発して音楽界を席巻していた時代、自分はちょうど今の彼女と同じくらいの年代で、当時、生産的な活動には縁遠い、客観的に見ればほとんど何の価値もないような日常を過ごしていた。
休みの日の朝から先輩に連れられてパチンコ店通いしてみたり、次の日の仕事を忘れたふりして朝までバカ騒ぎしたり、そうかと思えば土日引き籠ってひたすらプレステ三昧・レンタルビデオ三昧だったり、図書館に籠って意味もなく昔の新聞眺めていたり・・・
「人間活動」なんて立派なタイトルを付けるのもおこがましいような、非生産的な時間。
だが、何年か経って、仕事をトップギアでやらないといけないような場面になってくると、その頃の何気ない、一見意味がないような時間が、どこかで生きてくるような気がするから不思議だ*2。
いろんな人間と付き合った経験だとか、手当たりしだいに取り込もうとしていた知識だとか、一つとして無駄なものはなかった、と今は思えるし、何よりも、誰からも注目されない、第一線を外れたところで、力を蓄える時間を持てたことが、三十路に差し掛かってからの“タメ”というか、余裕につながっているのは間違いない。
ピッチャーの肩に限らず、人間の才能というものはすべからく“消耗品”なわけだから、意図的にでも「使わない」時間を作ることが絶対に必要。
そして、強い向上心を持って生きている人間には、何の目標もなく、将来の展望も良く分からないような状況でも、“結構楽しめるじゃん”ということに気づく時間も絶対に必要。
そう考えると、27歳、という絶好のタイミングで、「派手なアーティスト活動」をいったんやめて、「人間活動」に勤しもうという宇多田ヒカルの選択は、実に賢いタイミングのように思える。
もちろん、当時も今も、決して世間の注目を集めることのない場所で過ごしている気楽な自分とは違って、彼女の場合、「人間活動」中も、(少なくとも最初の何年かの間は)その一挙一頭足にメディアの注目が集まることになるだろう*3。
だから、そう簡単にやりたいことをやれる、という状況にはなかなかなれないのだろうけど、できるなら、メディアが彼女の存在を忘れ去るくらいの間まで、一線から姿を消してじっくりと才能を温存して、その間に、存分に「必要な時間」を過ごして欲しいものだなぁ、と。
そうすれば、何年経とうが、第一線に姿を現したその瞬間に、ブランクの存在を吹き飛ばすような、進化した「才能」を我々は目の当たりにすることができるはずだ・・・。
一ファンとして、その時を待ちたい。