東京第5検察審査会が2度目の起訴議決を出したことにより、民主党の小沢一郎元幹事長が、政治資金規正法違反の罪で強制起訴される見込みとなった。
「平均年齢30.9歳」と報じられている今回の審査会のメンバーの中で、どのような議論が行われたのか、容易に知ることはできないのだが、政治家が絡む事件の訴追のあり方について、一石を投じる判断になることは間違いない。
もちろん、小沢氏サイドからもコメントが出ているように、(今はともかく当時は)大物政治家を“挙げる”ことに情熱を燃やしていた検察当局が2度も不起訴の判断をした事件で、それでもなお、小沢氏の政治生命を絶ちかねない「起訴」という強権を発動することにどれだけの合理性があるのか*1、疑問の余地は残るところで、どのような判決が下されても、そのような疑問が払拭されることはないのだろうけど・・・
なお、報じられている「議決要旨」の中の、
「検察審査会の制度は、嫌疑不十分として検察官が起訴をちゅうちょした場合に、国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる。」(日本経済新聞2010年10月5日朝刊・第42面)
というくだりは、確かに一理あると思う。
検察官が起訴権限を独占し、何が何でも「捜査段階」で白黒をつけようとする(付けられなければある種の敗北になるから、大きな事件では何が何でも“クロ”の結論に持って行こうとするし、捜査段階で“クロ”として起訴したものについては、よほどのことがない限り、公判で有罪を取りに行く)という長年の流儀がある種のゆがみをもたらしてきた、ということは、故・平野龍一博士をはじめとする多くの識者・実務家が指摘してきたところで、上記のような“黒白”を公判に委ねる、という発想(徹底した「当事者主義」の発想)は、決して突飛なものではない。
もっとも、今の世の中における「起訴された」という事実の重さを考えると、今回検察審査会が突き付けた問題意識をすんなりと実務に溶け込ませていくのは難しい、という状況もあるわけで*2、(仮に“検察審査会流”の起訴基準に切り替えていくにしても)その過程で気の毒な“犠牲者”が出ないように、様々な配慮をすることが欠かせない。
今回の起訴議決が、そのような議論を巻き起こすことになれば、審査会の意義はあった、ということになるのだろうが、そのうちに単なる“政治ネタ”として片付けられそうな気がして、その辺がちょっと気がかりではある。