“幻想”が消えた後に残るもの。

最近の大阪地検の不祥事を受けて、法科大学院生や司法修習予定者等、“これから検察官を目指そう“と思っていた人々が、「進路に悩んでいる」といった類のニュースが伝えられることが多くなっている。

確かに、これまで一途に

「検察官になって、特捜部に入って、巨悪と戦う!」

なんてことを本気で思っていた人にとっては、“組織ぐるみ”の犯行が伝えられているような、今回の出来事は極めて衝撃的だろうし、仮に“組織ぐるみ”ではなかったとしても、巷で「エリート」というラベリングがなされていた特捜検事の堕ちた姿を目にするのは、いかにも心苦しいことだろう。

日経紙がここ数日連載しているコラム・「歪んだ正義‐混迷深める検察」の中では、バブル期の1990年には僅か28名にとどまっていた検察任官者が、現在では年間70人以上に達しており、1994年以降は希望者も増加していた、ということが記されている*1が、こういった動きにも、もしかしたら影が差すことになるのかもしれない。

もっとも、自分には、これで良かったんじゃないか、という思いもある。

個人的には、一生懸命法律を勉強した頭がいい(はずの)人たちが、何で、

「検察は正義の味方だ」

などという、メディアが作り上げた大衆向けの安直なフレーズを信じてしまっているのかが不思議で仕方なかったし*2、自分が知っている修習生の中には「HERO」を見て憧れて・・・なんて人もリアルにいたりして(爆)、そんな憑き物はどこかで落としてあげた方がいいよな〜と、かねてから思っていたりもした。

組織で動いている以上、どっかのカルト教団でもない限り、“どこを切っても同じ目的の人しかいない”、なんてことはありえない。

今回の一件のような「証拠の改ざん」なんて事態は、さすがになかなか想像も付かないことだし、検察組織における「捜査」の実態が、巷で考えられているものとはかなり異なる、ということは、実際に間近なところで見てみないとなかなか実感できないことだとは思うのだが*3、上下左右と仕事を円滑に回していくために、時には“自分の筋”を曲げないといけないことだってあるだろうし、“自分の中の正義”の実現を断念しなければいけない時だってあるはずだ。

そういったことに、組織の中に入って初めて気づいて幻滅するくらいなら、今のうちに気付いておいた方がよっぽどマシなわけで・・・。

これは、検察庁に限った話ではないけれど、やっぱり組織の中に入って何かやっていこう、と思うのであれば、「いろんな障害、妨害、干渉ゆえに、自分のやりたいことに真っすぐ辿りつくのは簡単なことではない」ということを最初から念頭に置いた上で、それでも、味方を増やして、隙を見て、知恵を絞って・・・とあれやこれやして、何とか目標に辿りつこうと頑張る、そんな執念と粘り強さを持っていないといけないと思う。

それがないと、入ったときにどんなに高邁な理想を持っていても、すぐに組織を去るはめになるか、いつの間にか“長いものに巻かれて”同じ穴のむじなになってしまうだけ。


だから、一連の不祥事で検察組織を包んでいた幻想的なベールがはがれて、ミーハーな志望者たちが皆行き先を切り替えてしまったとしても、その後に、自分自身の「正義」を心のうちに秘めた、粘り強いチャレンジャーが数名でも残るのであれば、それでいいんじゃないか(というか、その方が組織の将来にとってはむしろ健全)、と自分は思っている。


ま、今の弁護士不況真っただ中な時代だと、何だかんだいっても、ちょっとやそっとのことでは、任検希望者は減らない可能性も高いのだけれど・・・(苦笑)。

*1:日本経済新聞2010年10月13日付朝刊・第42面。

*2:弁護士に比べて生活が安定しているから、という理由で希望するのであれば、まだ多少は理解できるとしても(笑)。

*3:その意味で、特捜部の検事が行っているような「捜査」は、検察組織全体で見たときにはかなり特殊な部類に位置づけられるミッションだし、本当の「エリート」(任官した時から将来が約束されているような華麗なバックグラウンドを持つ人々)が踏むようなステップでもないのだろうと思う。

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