3月11日午後2時46分、東京で感じた揺れだけでも、ただ事ではないと感じた。
一夜明けて、目を覆うばかりの被災地の状況に絶句。
そして、その次の瞬間に、この地域(というよりこの国)の人々が、それまでの日常(に近い)ものを取り戻すまでに、どれだけの時間を費やさねばならないのだろう・・・ということが頭をよぎって、絶望的な気分になった。
直接的な影響もさることながら、身近なところでも、もっと大きなところでも、これから次々と間接的な影響が出てくることが予想される。
これまで長い時間をかけて積み上げてきて、華やかにスタートを切るはずだった前向きな取り組みが、再開のめどが立たないまま先延ばしになり、やがて、日の目を見ることなく消えていってしまう・・・
ことがことだけに、どうしようもないことだとは分かっていても、その空しさ、悔しさは、当事者でなければ決して分からない。
今後、余震が収まったとしても、それはこれから先5年、10年、否、それ以上の長い間続いていく復興のための戦いの始まりに過ぎない。
いま、血眼になって現地をフォーカスしているメディアや、“支援”祭りを繰り広げている各種SNSから、2011年3月11日の出来事の余韻がすっかり消え去ってしまったとしても、被災地とそこにかかわっていた人々に残された有形・無形の傷跡は、長く消えることはないだろう。
だからこそ、こんなどうしようもない時だからこそ、直接的な影響を受けなかった者たちだけでも、世の中の機能を止めないように、努めて冷静に日常を回していく(そして社会全体の活力を維持し、上昇させ続けることを通じて、結果的に被災地のダメージを下支えする)のが、長い目で見れば、一番良いことだと思っているのだけれど・・・
それすらままならない、そして、世の中も自分の周りの空気も、未来志向を削がれた後ろ向きな空気ばかりに支配されてしまう・・・それが、今は一番怖い。