月が変わった初日。
前日までは大して期待していなかったのだが、このタイミングで、震災以降、変則的なダイヤで運行していた朝夕の電車が正常運行に戻ったり、ずっと明かりを消していた夜の繁華街にささやかな明かりが戻ったり、と、東京の街も一気に命を取り戻したように思える。
センスのない某都知事は、相変わらず、「花見禁止」だの何だのと、経済活動の復興に水を差すようなことばかり言っているが*1、健全な市民であれば、そろそろどうやって自分たちの日常を取り戻すか、ということを真剣に考えるべきに来ている、というべきだろう。
家も家財道具も仕事もそれまで通りに残されている、被害が少ない地域で暮らしている人間だからこそできることがある。
それは、テレビやネットにかじりついて放射線量の多い少ないに一喜一憂し、外出を控えたり、買いだめに走ることでもなければ、やみくもに「自粛」することでもない。
10年後、20年後の“リスク“に怯えて、今の自分たちの生活に縛りをかけてしまうような臆病な生き方をしていたら、1年後の未来すら危うくなる。
テレビの向こう側の災厄を我が身に置き換えて考えてしまう、というのは、感受性豊かな人間の特権、とはいえ、そこで財布の紐を絞って、お金の流れを止めてしまうことになれば、結局は誰のためにもならない。
「節電」にしたって、やり方は他にいくらでもあるはず。やたらめったら明かりを消して、1000万Kw電気を余らせたところで、それを次の日まで貯めておけるわけではないのだから・・・。
主のいない家の明かりをつけっぱなしにしたり、使用頻度の少ないオフィスビルの空きスペースで空調を回し続けるような無駄は当然省くべきだと思うのだけれど、人が集まる場所、人が動く場所でまで、“右に倣え”とばかりに電気をけちるのは、そろそろやめた方がいい。
電力使用量をいかに削るか、というところに精力を注ぐよりも、限られた電力供給量の枠の中で、いかに有効に電気を“使う”か、を考える方が、遥かに建設的だと思うのだ。
自然の力(+ほんの少しの人災)で失われた多くのものを、これから“人間の叡智”で取り戻すための戦いが始まる。
未だ進行中の危難もある中で、気持ちを反転させ、復興に向けて人々のエネルギーを注ぎ込んでいく、というのは決して楽なことではないし、戦いの道のりは、長く険しいものになるのは分かり切ったことだ。
だが、取り戻す過程で、多くの人、物、そしてカネが動くのもまた事実。
悲しみに沈むだけでなく、「悲劇」を次の瞬間に商機に変え、大規模なモデルチェンジとそれに伴う産業&雇用創出の機会に変えるような貪欲さこそが、今、我々に求められているものなのではないかと思う。
以上のエントリー全体に通じる強気と、うっとうしく、眉をひそめたくなるような前向きさが今の自分の率直な心境か、と問われれば、それはたぶん嘘*2。
でも、昨日よりもほんの少し明るくなった街の明かりを見ながら、気持ちを奮い立たせている自分がいる、というのは、決して嘘ではない。
誰が何と言おうと、自分は、この国の未来を信じている。