東電が教えてくれた教訓。

怒号と罵声の中、6時間以上もかけて行われた東京電力株主総会

その場にいた人も、足を運ばずにリアルタイムな文字中継にかじりついていた人も、議事運営が強引だった、とか、株主と向き合う姿勢がなかった等々、総会が終わって日が変わるくらいの時間になっても、飽きることなく批判を続けている。

確かに、東電側の総会運営に問題がなかったとは言えないだろう。

例えば、大勢の株主が来るのが分かっていたはずなのに、第1会場以外では質問ができないような状況を作り出してしまった会場設定。

報告事項、各議案と、いまどき珍しい個別審議スタイルをとったゆえに、議案(とそれに伴う質疑応答の機会)の数だけ、発言できなかった株主にフラストレーションを貯める形になってしまった、という議事運営*1

何も縛りをかけなければ、集った人たちが皆、建設的で有意義な質問、議論をしてくれる・・・と思えるほど自分はお人よしではないけれど、それでも、言いたいことがまだまだたくさんある人々を前にして、度重なる質疑打ち切りと、社員株主の一糸乱れぬ掛け声で応じてしまったあたりに、自分はこの会社のどうしようもない限界を感じる。

今からもう何年も前に、不適切、時代遅れ、と批判された株主総会のスタイル*2が現代によみがえってしまったゆえに、多くの人に「株主総会なんてこんなもんなのか」と思わせてしまったのだとしたら、各社で身を削って総会の準備にかかわっている法務系の人間にとっては極めて遺憾なことだと思う。


ただ、「議場でこんなに多くの人が賛成している(ように見える)のに、何で株主提案が否決されるんだ」(その逆もしかり)といった批判を唱える人があまりにも多いのを見ると、やっぱりがっかりする。

「会社の最高議決機関における意思決定が資本多数決の原則によってなされる」という理屈が十分に理解されていない、ということ自体は言っても仕方ないことだと思うのだが*3、この日総会の会場にいた株主が、たくさんいる株主(東電のサイトを見ると昨年度末の株主数は実に約75万人にも上る)の中のほんの一握りの存在でしかない、ということを考えるならば(そして、株式会社においては、会場に来ない株主に対しても権利行使の機会が確保されていることを考えれば)、「その場にいた人々の思い」だけですべてが決められる、と思うこと自体が、“声なき声”に対する配慮と想像力を欠くものだと言わざるを得ないだろう*4

あと、「株主総会には、単なる議決機関という存在を超えた意義がある」というタイプの主張も散見された。

こういうタイプの主張をする論者は、株主総会が“株主と経営陣との間のコミュニケーションの場”になっていたり、“株主の不満を吐き出すガス抜きの場”になっていたりする現実に重きを置いているのだろう。
そして、寛容な心でそういう場を演出することができなかった東電の経営陣に対して、批判を浴びせているのだろう、と思う。

だが、今の総会がいかにコミュニケーションやガス抜きの場になっている現実があるからといって、どんな場面でも常に、ひな壇の上の人々にそういう役回りを求めるのは、あまりに酷というものだろう。

今の会社法の解釈上、株式会社は、開催する前から議決結果が明らかに分かっているような状況であっても、リアルな世界で高い金を出して借りた会場を使って、株主総会を開催しなければならず、議長が閉会を宣言するまで、その場で形式どおりの議事を粛々と進めなければならない。

そして、万が一、議事を粛々と進めることができずに、流会となってしまったような場合には、莫大な費用と労力をかけて、再度仕切り直しを余儀なくされることになる*5

損害賠償に回せる金を一銭でも多く確保しなければならない東電に、そんな無駄が許されるはずもないのであって、放っておけば何どきまでかかるか分からないような状況を目の前にして、何とか総会を無事締めるために、議長が少々強引な議事運営をしたからといって、誰が責められるだろう。


個人的には、今のような時代に、「議決機関」としての株主総会を常に開催する必要はない、と思っていて、株主が議決権行使の機会を与えられ、それを一定期間中に行使した結果、決議の成否にあっさり決着が付くのであれば、“セレモニー”的な議事を行うためだけに、多大な労力をかけて現実の「株主総会」をわざわざ開催しなくたっていいんじゃないか、と思っている。

もちろん、個人株主と会社がコミュニケーションを取る場が少ない、という現実があることは否定できないから*6、会社が独自に株主説明会(年に一度と言わず四半期に一度くらいは)をやることは推奨されるべきだと思うし、自主性に任せていたらどこもやらないというのであれば、何らかのハードロー・ソフトローで、その手の機会を設けることを強制したってよいと思うのだが、あくまでそれは「会社の機関」とは別のもの、にした方が、セレモニー的要素も排除されて、より実のあるものになると思うのだ。

東電の今年の総会を語る上で、こういう議論を持ち出したところで、「今、そういう制度になっていないんだから、そんな立法論持ちこんだってしょうがないじゃないか!」と怒られるのがオチだろうけど、自分としては、今年の総会で「最初から結果が分かっているのに、形式的に決議を行うことの不毛さ」が、東電の議事運営によって、白日の下に晒されてしまった以上、本気で“立法論”を考えたって良いのではないかな、と思っているところである。

この東電の教訓を無駄にしないために。

*1:今回に関しては、一括審議にしたところで、大して状況は変わらなかったのかもしれないが、それでもぶつ切りに質問の機会を設けられるよりは、株主が発言できる機会は増えたのではないかと思う。

*2:http://www.torikai.gr.jp/bn/bn0403/soukai/bn/020620.html参照。

*3:そもそも中学・高校くらいまでの間に、普通の教育課程の中で、そういう知識を取り込めるような世の中になっていないのも事実なのだろうから。

*4:仕事を休んでまで「物申したい」と会場に駆け付けた株主がいる一方で、様々な事情で会場に行くことができず歯がゆい思いをしながらも、会社の存続を願って取締役会の意見を支持した株主もたくさんいたからこそ、事前の議決権行使の段階で勝負が決したのだろうと自分は想像する。

*5:それゆえ、「総会中に大地震が来たとしても、何が何でも決議をとるだけとって、閉会まで持っていけ」なんて奇策が堂々と囁かれることにもなる。

*6:とはいえ、株主総会に来て積極的に発言をするような株主の中には、日頃から会社と密に“コミュニケーション”を取っている方も多いので、「代表取締役本人の面前で、自分の怒りをぶつけて罵倒したい」といった特殊な思いを保護すべき、という立場にでもならない限り、積極的に呼び掛けにくいところではある。

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