夏の憂鬱

世の中では、節電の関係もあって、やれ一斉休暇だとか、退社時刻早めるだとか、在宅勤務を拡充するだとか、といった、今年の夏の様々な“変化”が報じられている。

だが、我が身を振り返ると、ほとんど変わらない・・・というか、例年以上に降り積もる仕事の山。

電力危機が叫ばれていた今年の6月頃までは、“今年の夏の休みは多めに入れろ”というムードが社内に蔓延していて、挙句の果てには“8月は仕事するな”と言わんばかりの勢いだったのに、いざその段になると、皆、周りの顔色見ながら、例年と同じように小刻みに休暇を入れるだけ。

しかも、こんなときにも、例年以上に暑いオフィスで働く我らの神経を逆なでするような、不毛かつ不要不急の会議とか打ち合わせとか、新しい作業ミッションを、何が何でも入れようとしてくる人間は必ずいるわけで。

結果として、当初の指示を真に受けて、それなら・・・と予定通り長期休暇を取ってしまった人間は、軒並み何となく冷たい周囲の視線に気まずさを感じながら、休み明けに“ほれほれ”と突き付けられる罰ゲームのような“山”との格闘を迫られることになる。

あれこれ“斬新な取り組み”が報じられていても、それはほんの一端のパフォーマンスに過ぎなくて、一斉休暇の伝統があるメーカーを除けば、どこも内実は似たようなものなんじゃないかな・・・と思っているのだが、実際のところはどうなのだろう?

決断力と“切り替える”力の乏しい人々が、効率の悪い組織を形成して無意味に仕事を膨らませている、という会社はたくさんあると思うんだけど、そういうところはなかなか表に出て来ずに、外面の変化ばかりが強調される。

それが、どうしようもなくもどかしい今日この頃。

ちょうどいいタイミングで池井戸潤氏の秀作を読んでしまったことが、憂鬱にさらに拍車をかけているような気がするのだが、それはまた追って触れることにしたい。

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