「ローマの休日」仮処分事件を皮切りに、「シェーン」事件の最高裁判決で、旧著作権法下で世に出された名作映画が、一気にパブリックドメイン化する・・・と思ったのもつかの間、チャップリンや黒澤明の映画に関し、「監督という自然人を著作者にする」という大技で権利者側が一気に巻き返した感がある*1、映画著作権の存続期間をめぐる一連の事件。
平成21年のチャップリンの最高裁判決で、事実上流れが決まってしまったような気がして、自分も最近ではあまり個々の判決を追いかけていなかった。
だが、最高裁HPに突然アップされた一つの最高裁判決を読んで、「存続期間」をめぐる本質的な問題を改めて思い知らされた次第である。
以下、今回の最高裁判決の内容を、本件のそれまでの下級審判決と合わせて、ここでご紹介することにしたい。
最三小判平成24年1月17日(H22(受)第1884号)*2
上告人(原告):東宝株式会社
被上告人(被告):株式会社コスモ・コーディネート
本件は、古い映画のDVDを廉価で販売している被上告人に対し、上告人が、著作権侵害を理由とした差止請求及び損害賠償請求を行った、という事案である。
対象となった作品は、谷口千吉監督の「暁の脱走」、今井正監督の「また逢う日まで」、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」という、“知る人ぞ知る”的な名画*3。
そして、いずれも旧著作権法時代の昭和25年〜27年に公開された映画、という点で共通している。
「昭和25年〜27年」と言えば、一時、著作権保護期間延長の恩恵を受けられるかどうかで激しく争われた「昭和28年公開作品」よりも僅かに前に公開された作品、ということになるだけに、映画会社に訴えられた被告の側でも、第一審(東京地判平成21年6月17日)*4、控訴審(知財高判平成22年6月17日)*5と、権利存続期間の満了時期を争点に争っていた。
「旧著作権法の下における映画の著作物の著作者については、その全体的形成に創作的に寄与した者がだれであるかを基準として判断すべきものと解される」
という判断基準の下、映画監督を著作者と認定して、「著作者の死亡の年(の翌年)」を権利存続期間の起算点とする判断を示し、「発行又ハ興行ノトキ」を起算点とする団体名義の著作物(旧法第6条)に関する規定をこれらの著作物にも適用すべき、という被告側の主張を退けた*6。
チャップリン映画の権利存続期間をめぐる事件等において、映画会社側が言わば禁じ手的な“裏技”として持ち出し、そのまま最高裁判決でも認められてしまったこの考え方を覆すのは相当難しいわけで、結果として、これらの映画の著作権は未だ存続している、という前提で、差止請求まではあっさり認容されることになったのである。
損害賠償請求における「過失」の有無
さて、ここまでは第一審、控訴審ともに、大きく判断が分かれるところはなかったが、その一方で、「故意又は過失の有無」については、両者の判断は大きくその内容を異にすることになった。
まず、第一審の方は、
「被告は,著作権の存続期間が満了してパブリックドメインとなった映画の複製,販売等を業として行っていることが認められ(略)、このような事業を行う者としては,自らが取り扱う映画の著作物の著作権の存続期間が満了したものであるか否かについて,十分調査する義務を負っているものと解するのが相当である。
(2)これを本件についてみると,旧著作権法における映画の著作物の著作者についての法的な解釈が分かれており(略),それについての確定した判例もない状況であったことからすれば,自らが行う輸入・販売行為について提訴がなされた場合に,自己が依拠する解釈が裁判所において採用されない可能性があることは,当然に予見することが
できたと認められる。加えて,前記1(2)のとおり,旧著作権法においても,新著作権法と同様,著作物とは,思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するものをいうと解されて
いたことからすれば,旧著作権法においても,著作物を創作する著作者は,原則として自然人であり,映画の著作物についても自然人が著作者となり得るということは十分に理解することができ,その場合の旧著作権法による映画の著作物の保護期間がその著作者の死後38年間となり得ることも理解し得たということができる。また,本件各証拠に照らしても,被告が,本件各映画の著作権が存続しているか否かについて,専門家等の第三者に意見を求める等何らかの調査を行ったことをうかがわせる事情は見当たらない。これらの事実によれば,被告は,本件各映画の著作権が存続している可能性があることを予見することができ,これについて十分調査すべきであったにもかかわらず,十分な調査を行うことなく,著作権の存続期間について自己に都合のよい独自の解釈に基づき本件DVDの輸入を行ったものと認められるから,被告には,少なくとも過失があったというべきである。」(33〜34頁)
と、少なくとも被告に「過失あり」と認定した。
一方、知財高裁の控訴審判決では、以下のような理由により、被告(控訴人)側の過失を否定している。
「被告は,著作権の存続期間が満了してパブリックドメインとなった映画の販売等を業として行っていることが認められる(略)。なお,原判決は,このような事業を行う者としては,自らが取り扱う映画の著作物の著作権の存続期間が満了したものであるか否かについて,十分調査する義務を負っているものと解すべきであると判示するが,一般論としてそのような調査義務を負っていることは認められるが,そうであるからといって,そのような業者が高度の注意義務や特別の注意義務を負っているということはできない。」
「旧著作権法における映画の著作物の著作者については,原則として自然人が著作者になるのか,例外なく自然人しか著作者になり得ないのか,映画を制作した法人が著作者になり得るのか,どのような要件があれば法人も著作者になり得るのかをめぐっては,旧著作権法時代のみならず,現在でも学説が分かれており,これについて適切な判例や指導的な裁判例もない状況であることは,証拠(略)に徴するまでもなく,当裁判所に顕著である。旧著作権法下における映画著作権の存続期間の満了の問題については,シェーン事件における地裁,高裁,最高裁の判決が報道された当時,法律家の間でさえ全くといってよいほど正確に認識されておらず,この点は,チャップリン事件の地裁,高裁,最高裁の判決が出た今日でも,同事件に登場してくるチャップリンが原作,脚本,制作,監督,演出,主演等をほぼすべて単独で行っているというスーパースターであるため,十分な問題認識が提起されたとはいえない。この問題が本格的に取り上げられるようになったのは,映画の著作権を有する会社が,我が国で最も著名な映画監督の1人といえる黒澤明の作品について,本件の原告等が本件の被告に対し本件と同種の訴訟を提起したことに事実上始まっているにすぎない。そして,チャップリン事件では,最高裁は先例性のある判断を示しているが,黒澤監督の作品では,黒澤監督以外に著作者がいることが想定されており,明らかにチャップリン事件よりも判例として射程距離が大きく判断も難しい事件であるところ,最高裁は上告不受理の処理を選択し,格別,判断を示していない。そして,本件各監督は,有名な監督ではあるが,黒澤監督の作品よりも,その著作者性はさらに低く,自然人として著作者の1人であったといえるか否かの点は判断の分かれるところである。そうであるとすれば,本件において,何人が著作者であるか,それによって存続期間の満了時期が異なることを考えれば,結果的に著作者の判定を異にし,存続期間の満了時期に差異が生じたとしても,被告の過失を肯定し,損害賠償責任を問うべきではない。原判決は,被告のような著作権の保護期間が満了した映画作品を販売する業者については,その輸入・販売行為について提訴がなされた場合に,自己が依拠する解釈が裁判所において採用されない可能性があることは,当然に予見すべきであるかのような判断をするが,映画の著作物について,そのような判断をすれば,見解の分かれる場合には,裁判所がいかなる見解を採るか予測可能性が低く,すべての場合にも対処しようとすれば,結果として当該著作物の自由利用は事実上できなくなるため,保護期間満了の制度は機能しなくなり,本来著作権の保護期間の満了した著作物を何人でも自由に利用することを保障した趣旨に反するものであり,当裁判所としては採用することはできない。」(23〜25頁)
確かに、著作権の保護期間をめぐる議論、特に旧法下の映画作品の著作権保護期間をめぐるここ何年かの判例の急激な変遷に鑑みるならば、上記のような知財高裁の判断には、十分うなづけるところもある。
ただ、本件の被告には、オープニング場面やパッケージ、ポスターといった、各映画の保護期間を確定するための材料に接する機会が確保されていたのであり、それに基づき、旧著作権法の下で、保護期間に関してどの条文を適用するか(旧法3条か6条か)というのは、言わば法の適用、解釈に係る問題に過ぎないともいえる*7。
そして、これまで裁判所が、「法の不知」を理由に「過失不存在」を主張する当事者に対して、決して優しさを見せてはいなかったことに鑑みれば、いくら塚原コートとはいえ(笑)、この高裁判決はちょっと思い切りが良すぎる判断のようにも思えるし*8、しかも驚くべきことに、本件では「原審で被告訴訟代理人を務めた弁護士が控訴状提出後に辞任し,新たに訴訟代理人が委任されず,しかも,被告の代表者は手術を伴う入院加療により,簡潔な控訴理由書を提出し,第1回口頭弁論期日に出頭してこれを陳述したほかは,何ら主張立証をしなかった」という驚くべき事情もあった中での“逆転”判決、と結論をひっくり返された側としては、俄かに承服しがたいような事情もあった*9。
当然、損害賠償請求が認められなかった権利者の側としては、上告受理申し立てを行わざるを得ない状況で、結果として、最高裁により、以下のような判断が示されることになった。
「旧法下の映画の著作者については,その全体的形成に創作的に寄与した者が誰であるかを基準として判断すべきであるところ(最高裁平成20年(受)第889号同21年10月8日第一小法廷判決・裁判集民事232号25頁),一般に,監督を担当する者は,映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与し得る者であり,本件各監督について,本件各映画の全体的形成に創作的に寄与したことを疑わせる事情はなく,かえって,本件各映画の冒頭部分やポスターにおいて,監督として個別に表示されたり,その氏名を付して監督作品と表示されたりしていることからすれば,本件各映画に相当程度創作的に寄与したと認識され得る状況にあったということができる。他方,被上告人が,旧法下の映画の著作権の存続期間に関し,上記の2(7)アないしウの考え方を採ったことに相当な理由があるとは認められないことは次のとおりである。」
「すなわち,独創性を有する旧法下の映画の著作権の存続期間については,旧法3条〜6条,9条の規定が適用される(旧法22条ノ3)ところ,旧法3条は,著作者が自然人であることを前提として,当該著作者の死亡の時点を基準にその著作物の著作権の存続期間を定めるとしているのである。旧法3条が著作者の死亡の時点を基準に著作物の著作権の存続期間を定めることを想定している以上,映画の著作物について,一律に旧法6条が適用されるとして,興行の時点を基準にその著作物の著作権の存続期間が定まるとの解釈を採ることは困難であり,上記のような解釈を示す公的見解,有力な学説,裁判例があったこともうかがわれない。また,団体名義で興行された映画は,自然人が著作者である旨が実名をもって表示されているか否かを問うことなく,全て団体の著作名義をもって公表された著作物として,旧法6条が適用されるとする見解についても同様である。最高裁平成19年(受)第1105号同年12月18日第三小法廷判決・民集61巻9号3460頁は,自然人が著作者である旨がその実名をもって表示されたことを前提とするものではなく,上記判断を左右するものではない。そして,旧法下の映画について,職務著作となる場合があり得るとしても,これが,原則として職務著作となることや,映画製作者の名義で興行したものは当然に職務著作となることを定めた規定はなく,その旨を示す公的見解等があったこともうかがわれない。加えて,被上告人は,本件各映画が職務著作であることを基礎付ける具体的事実を主張しておらず,本件各映画が職務著作であると判断する相当な根拠に基づいて本件行為に及んだものでないことが明らかである。」
「そうすると,被上告人は,本件行為の時点において,本件各映画の著作権の存続期間について,少なくとも本件各監督が著作者の一人であるとして旧法3条が適用されることを認識し得たというべきであり,そうであれば,本件各監督の死亡した時期などの必要な調査を行うことによって,本件各映画の著作権が存続していたことも認識し得たというべきである。以上の事情からすれば,被上告人が本件各映画の著作権の存続期間が満了したと誤信していたとしても,本件行為について被上告人に少なくとも過失があったというほかはない。」(4〜6頁)
結果、破棄差戻。
最高裁が指摘する通り、旧法下の映画の著作物について、「すべて第6条が適用される」という見解が主流を占めているような状況は存在しなかったように思うし、現在の著作権法54条の立てつけ(公表後一定期間が経過するまで著作権が存続する、という立てつけ)が、今の業界関係者にあまりに広く浸透しているがゆえに、本件被告が、旧法下の著作物についても、同じ感覚で公表年を追いかけて、パブリックドメインに入っているかどうかを判断してしまった・・・、という推測も湧いて出てくるところで、結論としては、今回の最高裁の判断に疑義を唱えても仕方ないところなのかな、と思うところである。
ただ、これまでも、そして今後も、貪欲に保護期間延長を狙う権利者側の主張構成如何で、裁判所の判断が再び揺れ動き、権利存続期間の判定がさらに難しくなる可能性もないとはいえないだけに、どこかでユーザー側で対応を整えるためにワンクッション挟めるような制度設計にするのが、本来は望ましいのではないか。
今後の議論の展開は神のみぞ知る・・・そんな時代だけに、なおさらそう思う。
*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20091012/1255357878参照。思い返すと懐かしい、もう2年以上も前のエントリーだ。
*2:第三小法廷・那須弘平裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120117140705.pdf
*3:ちなみに、こんな紹介をしているが、自分はこれらの映画については、監督名と一部の作品のタイトル名しか知らなかった・・・。「それだけ、現代においては視聴の機会に恵まれていなかった作品だった」、などと言ってしまうと、何か被告側に肩入れしているように見えてしまうかもしれないけれど・・・。
*4:第29部・清水節裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090717145720.pdf
*5:第1部・塚原朋一裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100622102039.pdf
*6:知財高裁は、本件がチャップリン映画事件とは事案を大きく異にするものであることを強調していたり、「一般論として旧著作権法下における映画の著作者が映画監督であるとの解釈には、広範な例外をみとめべき」等と述べている点で、既にここでも異彩を放っているが・・・。
*7:言いかえれば、被告に、違法性を認識するために必要な根拠事実そのものを知る機会がなかったわけではない、ということになろうか。
*8:ちなみに、塚原朋一裁判長は、この判決が出た約2ヶ月後に定年退官されている。
*9:こういう状況で、原審での敗訴部分の結論を一部ひっくり返してしまうのだから、被告(控訴人)にとっては、これを「奇跡」と言わずに何と呼ぼうか、というような状況だったというほかない。