米国の名門企業、イーストマン・コダック社が連邦破産法11条の適用を申請した。
「破産法」適用と言っても、日本の破産・再生法制よりは遥かにスピーディーに事が進むのが米国流で、GMのように、余分な贅肉をすっきり落とし、再び世界の強豪企業として返り咲く可能性も高いのだが、それでも、かつてフィルムメーカーとして富士フィルムと壮絶な戦いを繰り広げた歴史を知る日本人にとっては、大きな驚きであることに変わりはない。
で、コダック社の破綻に関連して、ここ数日論者によく指摘されるのが、以下の2点である。
「(95年の日米フィルム摩擦を例に)政府頼みで相手を封じようとする「傲慢さ」や「安直さ」が経営の失敗につながった」
「『フィルム事業への集中』にかじを切り、多角化事業を次々に売却して、成長の芽を自ら摘み取ったことが、デジタル化の波に呑まれる結果を招いた」
このうち、1点目については、確かに感情的には理解できるものの、自国政府の力を借りてビジネスを有利に進める、というのは、世界中どこにでも、どの業界にでもあることで、結果的にコダックやビッグ3のような“有名どころ”が経営不振に追い込まれたからといって、これを直ちに経営破綻の背後要因とすることができるのか、疑問なしとはしない。
一方、2点目の方は、確かに・・・と思うところはある。
会社の資産・リソースを効率的に活用して株主に還元できる利益を増やせ、という観点から、我が国でも「選択と集中」というフレーズが一時期(90年代後半から00年代にかけて)多用されたのだが、思い切って一点集中投資した結果、時代の劇的な変化に対応できなくなってしまい、会社を危機に貶めたケース、というのは枚挙にいとまがない。
どんな事業にも、参入した時点では、将来的なビジョンや何らかの意義があったはずで、目下の収益が多少さえなくても、将来その事業が会社の屋台骨を支える可能性を秘めているのであれば、我慢強く結果が出るのを待つ・・・という選択肢だって本来はある。
また、事業そのもので結果が出せなくても、研究開発の過程等で生まれた成果が本業や他の新規事業との間でシナジー効果をもたらすことだって大いにある。
だが、経営コンサルタントの業界では、一時、「業界で1位、2位になれない事業は全部売却するのが望ましい」といった非常に乱暴な議論が猛威をふるっていたこともあったと聞く。
そして、その結果、目先2〜3年の利益は改善されても、その後5年、10年経って業績が尻すぼみになり、慌てて昔売った事業を再び新規に立ち上げるハメになった・・・という話もよく聞くところ。
10年先、20年先まで、業界の先をすべて見通すことができるような“神の眼”を持っている人であればともかく、これだけ恐ろしい勢いで技術変革が進んでいる時代に、“何を選択し、どこに集中すべきか”ということを正しく決断できる確率は限りなく小さいのだから、「選択しろ!集中しろ!」という外野の声に、安易に乗っかってはいけない・・・。
個人的には、「選択と集中」を煽ることが多い日経紙が、ことコダックの件についてだけは、(結果論的に)同社の決断に対してネガティブな評価をしていることに、ちょっと意外な印象を受けたりもするのであるが*1、その評価だけは間違っていない、と自分は思う。
そして、「コダックが破綻し、富士フィルムが生き残った」という事実は、日本企業の経営が決して劣ったものではないことを示す一つの証左。
最近、日本メーカーの中に、右へ倣えとばかりの“事業シュリンク化”の風潮が目立つが*2、そのような風潮の中でも、将来の成長の種だけは見失わないように・・・と願ってやまない*3。