こんな制度にしたのは誰か?〜強制起訴制度をめぐる混乱

裁判員裁判制度と並ぶ刑事司法への“市民目線”取り込み施策として、鳴り物入りで導入された検察審査会「強制起訴」制度。

制度導入後、次々と起訴相当議決が出され、2度目の議決で現実に起訴された事案も1つや2つではない*1

だが、最初の何件かまでは、「民意の反映」として喝采を上げる傾向が強かったメディアの傾向も、小沢一郎代議士に対する2回目の起訴相当議決がなされた頃から、徐々に変わりつつあるように見える。

そして、3件目の起訴議決事案であった沖縄の未公開株詐欺事件に関し、3月14日に那覇地裁が詐欺罪についての無罪判決を出したことが*2、とうとう一部メディアに火を付けてしまったようだ。

日経紙の17日付「強制起訴の信頼性を高めよう」というタイトルの社説には、以下のような手厳しい記述がある。

「3年前の制度導入当初から「専門家である検察が罪を問えないと判断したものを素人が起訴するのは不合理」といった指摘があった。「詐欺罪に該当しない」と断じた那覇地裁の判決は、これを裏付けた、との受け止め方もあろう。」
これまでの強制起訴の例では「法廷で全容を解明すべきだ」という理由が目立つが、刑事裁判は被告に犯罪が当たる行為があったかどうかを見極める場である。この点を踏まえないと2つの起訴基準が併存することになる。強制起訴される被告の負担は大きい。」(日本経済新聞2012年3月17日付け朝刊・第2面)

日経紙も、一応「検察が起訴権限を適切に行使しているかどうかをチェックするという同制度の意義は大きい」と、制度自体は評価するかのようなコメントを挟んではいるのだが、最終的な結論としては、

「政治的配慮や身内をかばうために捜査を尽くさない。社会の変化に対応せず法を硬直的に適用する。制度を設けた原点に返れば、市民が起訴すべき対象のあり方も見えてくるのではないだろうか。」

と、暗に、起訴すべき対象を限定せよ、ということまで言ってしまっている*3

これは、元々、“賛否両論”的スタンスを見せていた日経紙の論説だけに、他の一般紙だと“まだまだ行け行け”的なノリを残しているところもあるのかもしれない。

しかし、“できれば難しい事件の真相を解明して手柄を挙げたい!”と思っている検察官及び各地検が涙を呑んで何度も不起訴処分を出した事件を“それでもなお・・・”ということで起訴する、現在の検察審査会法上の制度の立てつけを考えれば(しかも、検察当局に比べて、新たな証拠収集手段が制度的に担保されていない「指定弁護士」に訴訟追行を委ねる以上)、どれだけ強制起訴事案が世の中に出てきたところで、裁判所においてそれが「有罪」とされる可能性は限りなく低いと言わざるを得ないわけで、“新たな冤罪製造機関”として、検察審査会のあり方が問題視されるようになるのは時間の問題だろう。

個人的には、現在の制度を前提として、より良い方向に持って行こうとするのであれば、日経紙の示した方向性(起訴対象事件の運用面での絞り込み)のほかに、もう一つやり方があると思っている。

それは、刑事訴訟の場を、文字通り「白黒を明らかにする場」にすることで、現在の法律そのものをいじらなくても、起訴された際のメディアの報じ方をトーン一つ変えるだけで済む話だ。

本来の法の趣旨からいえば、「起訴された時点」の被告人は、無罪が推定されるべき透明な存在であるはずなのに、現実には“起訴されれば確実に有罪になる”という検察当局が築き上げた伝統の下で*4、メディアは被告人をあたかも“犯人”であるかのように報じ、世の中の人々もそれを盲信する・・・

そういった構図は、本来法が目指すべき方向とは大きく異なるし、刑事司法手続の入り口で、一国家機関にそこまでの権限を与えるべきではない(公開の法廷で当局と当事者が対等な攻防を展開する中で真相を解明すべきだ)、という意見は、古くから出されていたところである。

本当は、検察審査会による“無罪判決必至”と思われる「強制起訴」が相次いでなされた時点で、「刑事訴訟」の実質的な位置づけが変わって然るべきだったのだろうけど、報じるべきメディアの姿勢は何ら変わらず、「被告人」はこれまでの被告人のままだった。そして、そのようなバイアスのかかった報道(&それによって形成された世論)と、現実の「公訴事実がそのまま認定される可能性の低さ」とのギャップが、現在の検察審査会制度を、被告人にとって負担だけが大きい歪な制度のように見せてしまっているのではないだろうか。

メディアが変わっても、これまでの“伝統”に慣れ親しんだ世の中の人々の意識は急には変わらないかもしれない。
でも、まずはメディアから自覚的に「刑事訴訟」に対する姿勢を変えていかなければ、事態は一向に良い方向へは向かわない・・・。

かつての「検察官起訴完全独占主義」が復活することが好ましくない、というスタンスに立つのであれば、そのために果たすべき責任は重い、と思うのである。

*1:しかも、小沢一郎代議士や(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20101005/1286775209)、明石警察署の元副署長、さらには福知山線事故の歴代3社長といったように、社会的注目度の高い事件で検察官が行った判断が覆されるケースも目立った。

*2:「未公開株の上場話を持ちかけ購入代金をだまし取ったとして詐欺罪で強制起訴された投資会社社長、(略)を無罪とした14日の那覇地裁判決は検察官役の指定弁護士の主張を「詐欺罪の構成要件に該当しない」として退けた。検察審査会は「市民目線」から起訴すべきと議決したが、司法の「プロ」は罪の成立を認めなかった。」(日本経済新聞2012年3月15日付け朝刊・第39面)

*3:この基準でいえば、過去の強制起訴事案のうち、対象になり得るのは、どうしても“警察への遠慮”が疑われてしまう明石の花火大会の事件や、“政治的配慮”が問題になりうる陸山会事件、尖閣諸島事件くらい、ということになろう。

*4:いろいろ批判もあるが、「確実に有罪になる自信がなければ起訴しない」という彼らの行為規範が、世の中における刑事司法手続のコストを大きく引き下げていたのは事実だし、一部の例外的な冤罪事案(あるいはその逆の灰色事案)を除けば、それが世の中の大多数の人々の納得感を得られる程度に機能してきた(そして、それゆえ上記のような“伝統”が築き上げられた)ということは、否定できない事実だと思う。ただ、1000件のうち999件の判断が誤っていなくても、残りの1件に誤りや恣意が入ってしまう(そして構造的にそれを外部の人間に気付かせることが困難)という可能性が存在する以上、やはりこのような風潮は好ましいものとはいえない。

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